第5話 結架(7)
「あの街は、はじまりの場所。セピア色の夢が虹色に染まったように、幻にしか思えなかった幸せな未来が現実の鮮明を得た、特別な街だわ。可能性が開けたところ。あそこに帰りたくて。それで、行ったの」
目を閉じ、そして開く。
「あなたに出逢ったところに。あのときの私に戻りたかった。なにもかも越えて」
集一は何も言わず、彼女をただ、抱きしめた。発せる言葉など思いつかなかった。
両目を閉じ、結架は彼の薫りを胸いっぱいに吸いこむ。
くらくらするほどの、幸福感を呼ぶ薫り。甘く、それでいて爽やかで、薔薇のような かぐわしさとミントのごとき清々しさを合わせ持ったかのような。そして、そこに一滴の安息香を垂らしたような。
──マグノリア。
結架が無感情に尋ねる。
「……鞍木さんがラウラ先生を訪ねて行かれたのね。私のことを探して」
「そう。彼女も、きみを心配していたそうだ。いまのきみが、本当に自由に生きているのか、と」
結架は思いつめたような深呼吸を放ち、すぐには答えず、彼の胸に顔を
「会いたいわ。彼女なら、私の秘密の天使のことも、ご存知だもの。あなたに話したいと、もう ずっと思っていたわ。音楽院で、私は、あなたに とても よく似た天使と出逢ったのよ」
集一は、思わず息をのんだ。
「──天使?」
「そうよ。あなたと似てるの。ヴェローナの
彼は一瞬、反応に迷った。
あのころの集一の歌唱力で、結架が声楽家だと判じるのは、彼には信じがたいほどだ。
「声楽家って、何故?」
素直な結架は彼の質問の論点については何も疑問を抱かず、心のままに答えた。
「すばらしい声だったからよ。もし彼が声楽に進んでいなかったら、残念に思うほど。
彼との二重唱は、本当に天国に来たかのような喜びと興奮を与えてくれたの。そうね、あなたも素敵な声だけれど。歌ってみてくれたら分かるわ。
それに、スカルパ教授が彼の楽器は彼の肉体だと仰ったの。それはつまり、喉のことでしょう」
──スカルパ教授。
彼は、集一が受けた特別講義クラスの中で、こう教えた。
管楽器奏者にとって、喉や唇は楽器の一部だと。
弦楽器奏者にとって、肩や指が楽器の一部であるように。
鍵盤楽器奏者にとっては、それはイメージしづらいのかもしれない。楽器を響かせるのに、肉体を鳴らすということは。
そもそも教授は、集一の素性を正確に知るべきでないと考えた結架に同調したせいか、彼の本名も、専門楽器も、彼女に知らせないようにしていた。日本人であることは隠しようがなかったのだが、それ以外は、なにも語らなかった。しかし、集一が どういう少年であるか、それを結架が感知するのに不自由は なかった。彼女にとって、ともに ひとつの響きを歌わせるというのは、そういうことだ。
まざりあう、ふたつの声は、互いを知らなければ分離してしまう。彼女は集一に、そして彼のもつ音楽に、完全に魅せられていた。
そうして、二人の音楽が芸術の高みに上ろうとすればするほど、危険は増していった。
結架の音楽に生じた変化を、堅人は鋭敏に察知していた。幼くとも、ひとを愛する能力を持ちえた結架には、集一を求める気持ちが芽生えるのは自然なことだ。だが、堅人は結架しか愛さない。望まない。欲さない。
「……音楽院の天使に逢いたいのかい?」
注意深く、彼は穏やかな声で尋ねる。
結架は無防備な声で言った。
「私の秘密の天使が、まだ音楽院にいるとしたらね。でも、どうかしら。私には、もう、あなたがいる。あなたは天使以上の存在よ。そして彼にも、そんな存在がいると信じたいわ」
集一は結架の髪を撫でながら、囁いた。
「請け合うよ、結架。彼は最愛の人といるだろう。素晴らしい幸せとともに」
「あなたが、そう言ってくださると、きっと本当だと思えるわ」
微笑みが、白い頬に薔薇色を呼ぶ。
集一は、その頬に、唇を寄せた。
「きみが望むなら、ヴェネツィアにも寄れるように手配をするよ。勿論、身体に、負担にならないのなら。マンマ・ラッファエッラは当分、きみを安静にさせるように言っていたから、そのあとなら、だけど」
「嬉しいわ、ありがとう。でも、集一。お仕事は大丈夫なの? たしか、次はレコーディングがすぐにあったのではなかったかしら」
「延期してもらってあるから。大丈夫。きっと、分けるはずだったレコーディングを一緒に録ることになるだけだ。ひとつはソロだから心配いらない。休暇の前倒しと思えばいいよ」
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