冥誓の魔術師

碧海カツオ

風の伝言

迷子

 霧の濃い日のことだった。


 水汲みに向かっていたカロンは、ふと遠くに人の気配を感じて足を止めた。


 

 カロンは、公爵領の東、黒々とした森の中の墓所で暮らしている。まあ、墓所とは名ばかりで、史跡じみた石碑や古い墓守小屋キーパーズハウスのほか何もない。住まいがある森を抜ければ、延々とつづく草原の中に一本道が頼りなくのびている。街へ出るにはその弱々しい線をたどってずっと西の方へ歩き続けなければならない。


 そういう場所で、カロンは日々水を汲み、石碑を磨き、薬草や野草を集めて生活していた。墓守と言っても神に仕える職ではない。必要とあらば狩りもする。


「お前は自由だね」


 石碑のそばで前足にあごをのせて転がっている黒い犬に、カロンはしばしばそういって話しかけた。野良にしてはなめらかな毛並みを撫でてやると、犬は抗議するように低くうなる。でも、尻尾は正直にパタパタと揺れるから、カロンは気にせず黒犬の毛並みを楽しむ。

 

 別に、墓守という役目に強く縛り付けられている訳ではない。いつの間にやら勝手にいなくなってしまった師匠への当てこすりみたいなものだ。


 死を呪いつつも穏やかな日々を送っていたカロンは、自分が何に巻き込まれかけているのか分かっていなかったのだ。


 

 遠く霧の奥に人の気配を感じたカロンは、じっと耳をすました。たしかにすすり泣く声が聞こえる。子どもだ。初めての状況にカロンは少しためらったが、結局は泣き声の方へ歩みを進めた。こんな時にあの黒い犬――唯一の親友がいれば、多少は頼りになるだろうに。


 恐る恐る、霧の向こうに探りをいれる。人の声真似をする魔物もいると師匠である先代カロンは口を酸っぱくして言った。弟子に対し、無茶は言うが嘘はつかないというのが、失踪した師への評価である。


 しかして、声の主は子どもだった。人間だ。カロンは息をはいて緊張を解いた。背丈からして十になるかならないかといった子どもが、暗い森の中で途方に暮れて泣いている。


「あの……どうしたの?」

「! わ、分かんない。お散歩してただけなのに…」


 それは怖かったね、とカロンはしゃがみこんで視線を合わせた。


 この霧だ、きっと迷ってしまったのだろう。まろい頬が濡れている。ハンカチなんてものは持っていない。おろおろしたあげくに、カロンは袖口のなるべくきれいなところでやさしく涙を拭った。


 大人――というには若すぎるカロンだったが、それでも頼れる存在を得て、子どもはいくらか落ち着いたらしい。


「帰り道、分かる?」


 カロンは自らのバカさ加減に思わず苦笑した。分かるならこんなところで泣いていないはずだ。案の定、子どもは首を横に振った。


「どこから来たかは、わかる?」

「うん、街。えっと、ラヴェン、クロス市?」

「ラヴェンクロス!?」


 公爵領の中心地だ。子どもが徒歩で来るような距離ではない。自分の意志で魔術かなにかを使ってやって来たとも思えない。


 とにかく、いつまでもここでしゃがみこんでいるわけにはいかない。


「街の近くに行けばおうちの場所、分かる?」


 子どもは頷いた。ニナ。それが彼女の名前らしい。


「ニナ。それじゃあちょっとだけ準備するね。お腹減ってない? ここまで来るのにずいぶんかかったでしょう」


 ニナはキョトンとした。


「さっき来たの」

「でも、ラヴェンクロスからだもの。長いこと歩いてきたんでしょう?」

「ううん、さっき家を出たばっかりよ」


 今度はカロンがキョトンとする番だった。


 街から現在地まで、大人の足でも半日はかかる。子どもが一人でやってきただけでも驚くのに、さきほど家を出たばかりなどありえないことだった。


「――ニナ、街まで行こう。とにかく急がないと。夜になっちゃう」


 ニナは物分りよく頷いた。

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