妻としての歩み寄り
貴族の妻が夫の衣装を仕立てることは、知識として知っていた。
知っていたが、服の他にハンカチにもイニシャル、あるいは家の紋章を刺繍して渡すことは初耳だった。何と言うか、甘酸っぱいと言うかラブラブなやり取りだと思う。
(思うけど、エレーヌはアーロンを想ってた訳だし、刺繍の練習には良いかも)
どちらかと言うと後半の理由からだが、歩み寄りの第一歩としてエレーヌは白いハンカチに刺繍を施すことにした。練習なのでイニシャルではなく、ベルトラン伯爵家の紋章である鷲にした。
(と言うかイニシャルって、アーロンのじゃなく妻である私のを刺繍するのよね……そこまで私のことを主張するのも何だから、鷲にしよう)
そう思い、義母や侍女たちに見守られながら、数日かけてエレーヌはハンカチに刺繍をした。初めてにしては、なかなか上手く出来たと思う。
そして、その日の夜。
アーロンや伯爵夫人と一緒に夕食を食べ、それぞれの部屋に戻るところでエレーヌは付き添ってくれていたシルリーから離れ、アーロンに刺繡入りのハンカチを差し出した。
「アーロン様。よければ、これを」
「ハンカチか」
「はい」
「ありがたく使わせて貰う」
表情一つ変わらないが、ひとまず受け取ってくれたのにエレーヌはホッとした。最悪、突っ返されることも想定していたのだ。
「ええ、ぜひ!」
「ああ」
嬉しくてそう言うと、アーロンはそれだけ言って自分の部屋に入ってしまった。そんなアーロンのそっけない態度に、一緒に自室に戻ったシルリーがムッとしたように眉を寄せたが、久美としてはエレーヌのような恋愛感情はないので気にならない。
「あの態度酷い!」
「んー、受け取って貰えたし、突っ返されてないから大丈夫ー」
「それはそれで、問題じゃない? って言うか、刺繍入りのハンカチ渡したのって恋愛の演技の為?」
「そう言っちゃうと、確かに問題だけど……記憶こそあるけど、私としては会ったばかりの人だから。まず、相手のことや反応を知りたいのよね」
「……あぁ、そっか」
エレーヌがそう言うと、シルリーはそこで納得してくれた。シルリーとしては『エレーヌ』がアーロンを想っていたのを見ていたが、今の自分の中身は『久美』である。しかし外見は同じなので、少し頭が混乱したらしい。
「私は、アーロン様が大好きなエレーヌを見てたけど……『クミ』のあなたは、会って間もないんだものね。ちょっと違うけど、親に紹介された相手と結婚したようなものか」
何でもこの世界では、恋愛結婚ばかりではなく親が決めた相手とほとんど話すこともなく、そのまま結婚することもあるらしい。確かにシルリーの言う通り、ちょっと違うが今の『久美』とアーロンも似たようなものである。
「って言うか、エレーヌはアーロンにハンカチを渡したことはなかったのね」
「そもそも、恋人や妻が送るものだもの」
「そっか、告白で渡すものじゃないのか」
「お菓子や宝石は渡すけどね」
そんな会話をしながら、エレーヌはドレスを脱いで夜着に着替えるのだった。
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