ぬいぐるみの私と龍の魔王

金井花子

第一章 樹林の雷獅子

第1話 Hello world


『人生の終わりは唐突に来るものです』




 ハッと私は目を覚ます。

 基本的に目覚まし時計を設定しなければ大抵の事では起床しない私は、この感覚を業務中のモノであると即座に理解する。業務中の仮眠となれば、職務にある程度真面目である私の身体は携帯の喧しいアラーム音よりも早く起床をさせてくれる。

 重い瞼を擦り、私は現在の時刻を確認すべく空いた片手で携帯を探す。快眠とは言い難い状態だが、この身体に常に付きまとう倦怠感はいつも通りの事。睡眠時間の長短など、所詮革製の座席の上では関係無い。

 だが、私はそこで異変に気付く。

 携帯が無い――いや、それ以前にここは何処だ?

 起床直後の気だるさを忘れたように、私は勢いよく上体を起こして周囲を確認する。


 白い。

 真っ白だ。

 新築の部屋ですら、ここまで白くはないだろう。


 そもそも、壁や天井があるのか、あるとするなら何処にあるのか。距離感や空間の認識ができないほど、広大な空間の中に私は居る。

 むくりと立ち上がり、改めてぐるりと見渡してみる。何か変わるまでもなく、何年も取り換えていない眼鏡越しの近眼は代わり映えのしない白い空間を映す。

 数分程そうしていた私はやがて、あてもなく歩き始めることにした。何もせずに待つということは私の性に合わない。何か考えが無くともまずは動き続ける、さすれば何かは起こる――これは私が今の仕事に就いたことで得た知識だ。

 そんな私のやり方を職場の同僚――五十代の男――は若いねと羨んでいたが――例え彼と同じ年齢になっても私はその方法を崩さないだろう。

 自信――と言うよりは変化への恐怖に近い。

 如何せん私は変なところが頑固な性だ。

 営業成績が振るわないのも、その為である。

 

 そういえば、何で私はここに居るのか。


 脚を動かしながら、記憶を辿ってみる。

 確か、私はまだ仕事中だったはず。

 昼時に職場へ向かい、明朝まで仕事を程々に熟し、特に夢も希望も無く一日を生きる。

 それは退屈な日々だろう、と人は言うかもしれない。

 だが、私にとってはそれで良かったのだ。

 勉学に力も入れず、運動も禄にせず。その時その時だけ、力を入れて生きてきた。

 そこには運の良さ、があったのだろう。

 

 たまたま、運が良かった。

 たまたま、人よりも良く見えた。

 たまたま、偶然が噛み合った。


 そんなこんなで、生きてきた。

 なんやかんやで、生きていた。


 恐らくは二度と、このような生き方は行えない。

 二度と――そう二度と。

 

 今までの人生を振り返っていると、やがて私は前方に何かを見つけた。


 机、椅子、それと人?


 私の視界に映ったのは、大量の書類が積まれた机の上では作業をしている一人の男。

 髪を掻きむしり、眉間に皺を寄せて只管に鉛筆を動かす。

 背広はとっくに草臥れて、机の角に置かれた灰皿は煙草の吸い殻で溢れている。


 空気中に漂う微かな紫煙の匂い。

 煙草――ああ、吸いたいな。

 学生時代に積み重ねた喫煙の習慣から、紫煙を最上の快楽と位置付けた私の脳が発する欲求。思わず手が背広の内側に入れた煙草の箱を触ろうとする。

 しかし、こう見えて私は煙草に関しては意外にも自制を利かせられる質だ。初めて会う人を前に煙草を咥えるのは印象が悪い。

 何より私は、業務中は喫煙が可能な場所で煙草を吸うと決めている。

 この状況を業務中とは言い難いが、少なくとも会社の制服を着ている以上は己の規則に則っるべきだ。


 煙草への欲求を断ち切ると、私はゆっくりと男の方へ近づいていく。

 今やるべきは彼にここが何処なのかを尋ねることだ。

 こちらの接近に気付いたのか、それとも何か気配を感じたのか、作業中の男は鉛筆を動かす手をピタリと止めると顔を上げた。

 一瞬こちらに向けた顔は、何とも不快なものだった。眉間の深い皺のせいで、まるでこちらを睨みつけているようだ。

 いや、実際にそうなのだろう。

 その顔に私は同僚の姿を重ねる。彼も仕事中、嫌な上司や面倒な人間が近づくと、その顔を隠れながらしていたものだ。

 だが、次には男の顔はこちらの姿をよく見直して、慌てたような表情をした。

 その顔は思いもよらぬ出来事が起きたときの課長の顔と似ている。


「あ、あれ? まだ、居たのですか」


 その言葉が何を意味するか分からず、私は彼の言葉をそのまま返した。


「本日死んだお方なんですよ、貴方は。えーと、書類は……」


 男が告げた衝撃的な言葉。

 一生に一度しか聞けないその言葉に私は声も出せず、ただ身体を震わす。

 

 死んだ?

 え、私、死んだのか?


 聞きたくない言葉に私は聞き間違いだと思ったが、この時ばかりは普段記憶力の悪い脳が尋常なほどに稼働する。

 必死に嘘だと思う私に、記憶か真実を見せる。


 年の終わりが近づく師走の月。その日都内は類を見ない大雪によって、道路は真っ白な雪化粧が施されていた。日が沈み、どんよりとした灰色の雲からは降り止まぬ白い雪。

 あまりの大雪に大抵の人は外に出ることはせずに暖かい部屋の中で一夜を過ごし、不夜城として名高い東京の街も異様な静けさに包まれていた。

 そんな中、公共交通機関の一つを担う私は深夜遅くにお客様を迎えに車を走らす。道路を走る車の殆どが同業者ばかりだが、その行灯ちょうちんの輝きが消えている所を見るに今夜は大忙し。

 予定の時間よりも遥かに早く目的地へ到着すると、私は車を止めて外に出る。大雨だろうと、嵐だろうと、大雪であろうとお客様からの指示が無い限りは車外で待つのが私のルール。

 真っ黒な傘を差して待つ間、暇を持て余す私は車の近くをふらつきながら、如何にも金持ちが住んでそうな家を見物する。

 閑静な住宅街で、人通りも少なく、街灯も殆ど無い。家屋には灯りがあるのに、外は全くひと気が無いと言うこの雰囲気を私は好んでいる。

 お客様の指定時刻まで後何分かと私が視線を左腕に付けた時計に目をよこした時だ――

 雪の下に隠れていた濡れたマンホールが、私の使い古されて靴底の擦り減った革靴を滑らす。咄嗟の出来事に身体は反射的に片方の足で踏ん張ろうとする。しかし片方が擦り減っているなら、もう片方も当然同じ状態。

 ズルっと完全に体勢を崩した私は満足な受け身を取る余裕も無く、背中から地面へ放り出される。雪越しに感じる固いアスファルトの痛み。それを後頭部に受けた私は一瞬で気を失った。

 

 しかし、この程度で死ぬの、か。

 確かに頭部に衝撃を受けるのは致命的だが、それでも私はお客様を待つ身。時間になってお客様が外に出れば、間違いなく救助してくれる筈だ。

 冷たい都会と言えど、そこに住む人間がそこまで冷たい訳が無い。

 

 一体何があって私が死ぬ羽目になったのか。

 混乱する私に、何やら書類を出した男が怪訝な目つきでこちらを見る。するとハッとしたように彼は書類を捲り、そして困惑している私に真相を告げた。


「どうやら……貴方が頭を打った時と同じくお客様は予約をキャンセルしたようですね。つまり、気絶した貴方はそのまま大雪の中に埋もれてしたわけです」


 無機質でお役所仕事のように告げた男の言葉。

 その言葉から来る逃れようのない説得力に私は――

 私は――

 己が死んだと言うことを理解したのであった 

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