淵底の駿馬

葛西 秋

淵底の駿馬

第1話

 ——首のない馬が山を走るのだそうです


 七月の夜はまだ虫の音も聞こえず、木曽路から外れた信濃の山間の馬喰宿ばくろうしゅくには夜の冷気だけが流れ込んでいた。囲炉裏におこされた火は湿る着物から水気を飛ばす。羽代はじろ藩の家老である田崎たざきは黒羽織の袖を返しながら、囲炉裏の向こうに座る男を見た。

 小椋おぐらという名の相手の年齢は四十五、六。次の年が明ければ五十になる田崎よりは年下だが、職能に熟練した者に特有の老成した落ち着きがある。肩当てのある袖なし羽織に先ほどまで付けていた脚絆は今は外されて土間に掛けられている。その隣に巻かれた長縄も小椋の持ち物だった。


 小椋は旅馬喰たびばくろうだった。

 決まった親方馬喰を持たずに馬の商いをする。正道から外れた馬の商いで身を立てている、と彼の名だけを知る者は噂をする。

 それは当然の噂である。馬を商う馬喰は、親方馬喰はもちろんのこと、地馬喰であってもすべからくその名は代官所に届けられ身の上は藩によって管轄されている。普通の旅馬喰であるならば自分の親方のいる藩がその者の所在となる。だが小椋は親方を持たず独りで商いをしていた。


 田崎は今回、馬の斡旋を小椋に依頼するにあたり小椋に自身の身上を問い質した。馬喰仲間の内では噂話で済むが、藩の家老の改めに小椋は素直に一通の書を差し出した。

「ご他言無用に」

 そこには馬の商いを認める、とのみ記されており、京の都の藤氏につらなる公家の名があった。書面の内容が本当ならば小椋は公家の用人である。それが身分の低い馬喰に身を窶しているのだろうか。

 だが田崎にとってその書面の真偽も意味も汲む必要は無かった。何らかの手段で馬が商えているのならそれでよかった。そもそも小椋のような馬喰を使う時点で田崎にも猶予ならない事情がある。


 湿気ったまま積まれている杉葉を囲炉裏の火で少しずつ炙りながら小椋が云った。

「私が聞きました話ですと、伊予の国では首のない馬が山を走るのだそうです。首に掛けられた鈴がちりちりと遠くから聞こえ、やがて蹄の音とともに首なし馬が現れるのだとか」

「首が無ければ馬とて生きてはおれまい」

 身も蓋もない田崎の返答に、小椋は臆せず言葉を返す。

「お武家様にお聞きしたいのは、馬の首をそのように一刀両断切れるものなのか、ということでございます」

 旅馬喰が武士に、しかも家老と身分を明かした相手に示す態度ではない。だが藤氏の免状を思い出すまでもなく田崎は小椋の言動を許容した。元は田崎も若いころはこの小椋と似たような身分だったし、実際のところやっていることもその時からそうそう変わっていないのだ。


 正道ではなく、裏から物事を動かすこと。


 裏道から藩政を動かし、思うままに操り、そして致命的なしっぺ返しを食らった。守るべき相手を死なせ、これまでの自分の人生を無にしてしまった。

 思い返せば強烈な自責と後悔にすぐにでも脇差を引き抜きたくなる。自分の命であがなえるものではないことは分かっている。自分自身がどうしようもなく許せない、ただその一心だけだ。だがその前に為さなければならないことがあった。


 吹き荒れる感情を常に抑圧し続けている自分は、傍からは冷淡に見えることだろう。


「闇雲に切るならば不可。斬り方を知っていれば容易に断てる」

 感情を表に出さない田崎の言葉に、それでも小椋は頷いた。

「そうでございますか。ならば者は手練れた者。彼の地にはまだそのような者が残っているということでございましょう」


 小椋は杉の葉を一つかみ囲炉裏にくべた。火の粉が爆ぜて小椋の顔をいにしえの仮面のように赤く照らした。

「……田崎様、龍と雌馬が契って生まれた龍馬はいかがでございましょう」

 火から目を離さないまま、ふいに小椋が持ち出した馬商いの本題は胡乱でしかないものだった。

「首なし馬ではないのか」

 田崎は小椋の手元で燃える火に視線を向けた。

「どちらも浮世離れという意味では同じでございます」

 小椋が顔を上げた。軽く口の端に微笑を浮かべてはいるが、田崎を見据える目に笑みは無い。七月の夜気が先ほどよりも冷たい湿気を草臥れた馬喰宿の中に運んできた。囲炉裏の火にちろちろと青い炎が混じる。

「龍馬、あるいは凶馬。どうぞ私の話をお聞きになり、その馬を買うかどうかをお決めください」

 田崎は無言で軽く頷き、小椋に話の先を促した。

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