アナザーセンス

@merbotan

始まり

序章

 人里から離れ静寂が支配する廃墟の中に響くいくつかの物音があった。

 頼りなく右往左往する靴音と、その合間を縫うように聞こえる焦燥を帯びた荒い息遣い、それが二人分。

 それを追うように聞こえる足音と息遣いがもう一つ。それは無力な獲物をいたぶる歓喜の意を含んでいた。

 そして、あと一つ聞こえてくるのが。

「!」

 黒板を爪で引っ掻く音の数倍の不快な音が響いた瞬間、逃げている足音の一方の持ち主、楠盛まひろの目の前にあった、古びた箪笥の角のあたりの空間が歪み――

「きゃあっ!」

 ――まるで巨大な爪で抉られたように消え去った。

「ぎゃはは、待ってくれよ、かわい子ちゃんたちよう!」

 背中に聞こえる追跡者の挑発を聞きながら、まひろはこけつまろびつしながら家具が折り重なった影に隠れた。

 まひろは荒い息を無理やり沈めながら、

「由希、大丈夫?」

「……なんとか」

 残りの足音の主である、由希と呼ばれた少年、瀬良由希が息も絶え絶えに答えた。

「なあ、まひろ、あいつは、一体なんなんだよ」

「わからない、けど心当たりは、あるわ」

「心、あたりってのは?」

 まひろは荒い呼吸を無理やり沈めながら言った。

「……超能力」

 まひろの言葉に由希は息をのんだ。

「本気か?」

「だって、それ以外考えられないわ……そこらにおいてあるものが、どんどん消えていくなんて」

 まひろが言っている傍から、二人が隠れている物陰の隣の椅子が不快な音と共に消え去った。

「ああ、なんでこんなことになっちまったんだ」

 由希のぼやきにまひろは胸が締め付けられる思いだった。

 きっかけはまひろだった。

 巷では超能力を持つものがいるという噂が、昔から囁かれていた。

 そしてその超能力は、レリックと呼ばれる物質に触れることで得られるということも聞いていた。

 折しも、ネットの掲示板でレリックの目撃情報を基に、幼馴染の由希を誘って人気のない廃墟に訪れていた。

 結果、こうして訳も分からないまま、人外の能力を使う変質者に追われている。

  再び、異音と共にまひろたちが隠れている物陰の家具の一部が消え去った。

「さあ、そろそろ餌食になってもらおうかなあ!俺の『空間咀嚼』のよお!」 

 聞こえてきた言葉は、奇しくもまひろの推察を後押ししていた。

 もう逃げ場はない。

 このまま、私と由希は奴の……

「まひろ」

 不意に、由希がまひろの手を握り、真剣な顔で言った。

「俺があいつを食い止める。その間に……お前は逃げろ」

「……え?」

 予想もしない由希の言葉にまひろは目を瞠った。

「何をいってるの?」

「言葉の通りだ……俺が今からあいつの目の前に出て注意を引く。その隙にお前はここから逃げるんだ」

「そんなことをしたら、由希がどうなるかわかってるの?」

 まひろは隠れている物陰の、先ほど消失した部分に目をやる。

 通常の力学では考えられないような断面があった。

 あんなものを受けたら人体などひとたまりもないだろう。

 それでも、まひろを見つめる由希の双眸には強い意志の光が輝いていた。

 それは、まひろが昔から好きな輝きだった。

 家庭環境が上手くいっていない時も、意志の光だけは消えることはなかった。

 自分のなすべきことを常に追い求める光だ。

 そしてまひろは、そんな由希に対する恋心を自覚していた。

 幼いころから勉強も、運動も、それ以外もの事も人並み以上できるまひろは、たくさんの人間の思惑にさらされ、人を信じることが出来なかった。

 そんなまひろにとって、由希は初めて心を許した、所謂初恋の相手だった。

「信じてくれ、俺を」  

 由希がまひろの手を握り、まひろはそのぬくもりに視線を落とした。

 彼の右手の薬指には、小さな指輪がはめられていた。

 由希が買ってくれたお揃いの指輪。

 同じものが、まひろの薬指にもはめられている。 

 左手は恥ずかしくて、お互い右手の薬指につけていたのはご愛敬だ。

 そしてその時、由希が言ってくれた言葉は、今もまひろの記憶に深く刻み込まれていた。

『まひろは僕が守るから』

 その言葉を目の前の少年が、今実行しようとしているのだ。

 見ずからの命も顧みずに。

「みーつけた」

「っ!?」

 悪魔のような声が降りかかってきた。

 まひろは振り返り、初めて追跡者の顔をまともに見た。

 一言で言えば、それは異形の様相をしていた。まるで飢えた餓鬼のような、細い体躯。伸び放題になった不潔な長髪。

 何より、目を引くのが、口元だった。

 口角がこめかみまで裂けていて、赤黒くこべりついた瘡蓋の奥には黄ばんだ歯がのぞいている。

「へへへ、それにしてもやっぱりやめらんねえよなあ」

 その男が俄かに喋りだした。

「俺が流した嘘の目撃情報に、興味をもったガキが来るのを待ち構えて、嬲り殺す……今日もこうして面白いくらいに引っかかってくれたなあ……それにどんなにいたぶっても、能力を使って死体を処理しちまえば足がつくこともない。本当、レリック様様、超能力様様だぜ」

「そんな……」

 男の言葉は、まひろの後悔を一層深めた。

 自分が、まんまと餌に釣られたということ。

 しかも、大好きな幼馴染の少年を道連れに。

「さて、どっちから食ってやろうかなあ……まずは女か?あえて男から行くっていうのもある……この前は俺は意外と男もイケるってのがわかったからなあ」 

「……ふざけんな」

 気づけば、隣の由希が立ち上がり、男の前で仁王立ちしていた。

「罪のない人間をいたぶって、何が楽しいってんだ」

「楽しいぜ?弱い者いじめほどの快楽を俺は知らないな」

「……お前!」

 由希が男に掴みかかった。

 しかし、男がぞんざいに振り払った右手によって由希は、弾き飛ばされた。

「ありゃ、ちょっと力入れすぎたか」

「くそおおお」

 由希は立ち上がり、再び男に向かって突っ込んでいった。

「へえ、ガキのくせに意外と気合入ってんじゃねえか。なんか、見直しちまったぜ」

 完全に由希をなめ切っているようで、男は仁王立ちのまま、突進してくる由希を見ていた。

 由希が拳を振るった。

 いくら相手がやせぎすとはいえ、子供の腕力でどうにかなるはずがない。

 まひろは、由希の無謀な行動に思わず目を逸らした。

「な、なんだと?」

 由希の拳を受け止めた男が驚愕の表情をしていた。

 まひろの目には、何が起こっているのかはわからなかった。

「どういうことだ……こいつ、俺のレジストを全て消しやがった」

 男がよくわからないことを呟いていた。

 しかし、それでも戦局は大きく変わっているようには思えなかった。

「ちっ!なめやがって」

 再び男が由希を殴り飛ばした。

 壁に叩きつけられて、今度こそ由希はぐったりと動かなくなった。

「由希!」

 まひろが慌てて駆け寄る。

「たく、ガキはガキらしく泣きわめいて俺に殺されてればいいんだよ」

「く……」

 由希が苦悶の表情を浮かべながらも、尚も男を睨みつけていた。

「さて、あんまりだらだらやってると人が来ねえとも限らねえからな、そろそろ終わりにするか」

 男が迫ってくる。

「由希、由希ぃ!」

「まひろ」

「ごめん、私のせいで、ごめん」

「俺をおいて逃げろ……さっきも言っただろ」

「そんなの嫌だよ」

「でも、このままじゃ二人ともあいつに、やられちまうぞ」

「そんなの、嫌!」

「わがまま言うなよ」

 まひろは何とかしたくて、周りを見渡した。

 すると、視界の隅に何かが光るのを見た。

 手の届く場所に、それがあった。

「これは……まさか」

 まひろは理解した。

 あれはレリックだ。

 理屈でも理論でも経験でもなく。

 直感が、本能がそう訴えている。

 奇しくも、先ほどの男が一瞬見せた驚愕の表情の理由が分かった。

 由希は吹き飛ばされた時にレリックに触れたのだ。

 無自覚のうちに能力を発動させていたということなのだろう。 

 そして、それは今のこの状況を変えられる唯一の手段だ。

 今自分のするべきことを考えて、まひろは迷わずレリックに触れた。

 触れた瞬間、まひろの目の前が真っ白染まった。

 その中でまひろは今まで感じたことのない感覚を味わった。

 脳の細胞一つ一つが分解され、その光に溶けてしまうような感覚。

 その未経験の中で、まひろは確信した。

 これは、人の手には余る代物だ。

 そして、それを手にした自分にこれから待ち受けているのは、苦難だ。

 だんだんと意識が薄れていく。白い光に世界が中和されていく。

 その断片でまひろは思考した。

 自分にするべきことは何か。

 隣の由希のために為すべきことは何か。

 そのことを考えながら、まひろは白い光に身をゆだねた。

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