朝夕と汐桐
はるより
あくる朝
紡は障子の隙間から差し込む朝日で目を覚まし、布団から半身を起こした。
時刻は大体朝の六時前頃だろうか。朝の澄んだ空気が肺に流れ込んでくる。
昨晩は麟との事があり、なかなか寝付けなかったせいか、頭と瞼が重い。
それでも今日は平日であり、当然母校も開いている。
紡は気が滅入りながらも、枕元に用意していた着替えを手に取った。
*****
「おはようございます、紡坊ちゃん」
「……おはよう、
廊下に出た紡を出迎えたのは、白髪頭の老婆であった。
しかし歳の割には腰も曲がっておらず、髪もきっちりと結い上げられている。
八重と呼ばれた老婆は、紡が産まれる前から朝夕家に仕えている使用人だ。
滅多に接触することのない母方はともかく、父方の祖父母は紡が物心ついた頃には他界していたため、紡にとってはこの八重こそが祖母という存在になっている。
八重はにこにこと柔和な笑みを浮かべ、畳まれた手拭いを紡に手渡した。
「もう朝ご飯の準備は出来ていますよ。洗面がお済みになりましたら、いらしてくださいね」
「ああ、ありがとう。」
そう言って、いつも紡が朝食をとっている部屋の中へと姿を消した八重を見送って、紡は洗面所へと向かう。
これも、紡にとっては当たり前の日常だった。
*****
「そういえば、坊ちゃん」
「うん……?」
紡が味噌汁の椀を傾けていると、障子の側に座った八重が老眼鏡を掛け直しながら語りかけてきた。
「坊ちゃんに、お見合いの話が来ておりますよ。」
紡の耳に飛び込んできた言葉に、思わず味噌汁を吹き出しそうになったが、なんとか堪えて飲み込んだ。
「な、きゅ……急だな」
「急なものですか、坊ちゃんはもう十七でしょう。遅いくらいです」
確かに、紡の父である綴は十六の時に母の縹と結納を済ませたのだと聞いた。
学校で許嫁がいると言っていた同級生も何人か居るし、二十歳になる前に結婚するというのも世間的には珍しい話ではない。
大方、母が相手方に見合いを持ちかけたのだろう。
紡自身に一言もないのは不服だった。
しかし実際に提案されたとして、到底首を縦に振るとは思えないので、仕方のないことなのかもしれない。
「そういえば、父さんの時はどうだったんだ?」
「綴様のお見合いですか?たしか、縹様とのお話が初めに来て、とんとん拍子に事が進んだと」
紡はそうか、と小さく返す。
父が母との見合いを素直に受け入れたというのは、少し意外だった。
『父様は、母様……海鳴縹という女を、ひと時たりとも愛した事はなかった。』
つい数日前、姉の澪から聞いた言葉だ。
もしもそれが事実なら、どうして父は決められた婚姻を拒まなかったのだろうか。
昔は憧れて理想の大人としていた彼が、今の紡には理解し難い存在になっていた。
「まだお出掛けになるまで時間がありますね。お写真をご覧になりますか」
そう言った八重は紡の返答を待つことなく部屋から出て行ってしまう。
紡は当然ながら乗り気ではなかったが、母が設定した見合いならば、無碍にしてしまうわけにはいかない。
写真だけ受け取って、やはりこの話は無かったことに、などと断るのは相手の顔に泥を塗る行為だ。
母もそれを分かった上で、紡に黙って書類を取り寄せたのだろう。
少し居心地悪く思える中、紡は朝食を済ませてしまう。
八重は十分もしないうちに戻ってきた。
「こちらです。器量の良いお嬢様ですよ」
「ありがとう」
写真が封入されているであろう立派な台紙を受け取る。
二つ折りにされているそれを開くと、右手に正装に身を包んだ少女の写真があった。
ええっ、と思わず紡は声を漏らす。
写真の中の彼女は紡よりも随分と年若い少女だ。
その上、聡明そうな表情をこちらに向けている少女は見覚えのある人物であった。
「……八重、もしかして相手は汐桐家の御息女か?」
「あら、ご存知でしたか?」
八重は口元に手を当てて驚いた表情をしていた。
少女の名は
汐桐家は帝都の人間なら誰でも知っているであろう、『
そして深鈴はその汐桐家の一人娘であり、絃と仲の良い友人でもある。
更に情報を足すならば、紡がかつて迎撃戦で出会った深八咫という名の忍びが、彼女の付き人をやっているらしい。
「以前に、ちょっと。……にしても、彼女はまだ十にもなってないだろう。いくらなんでも幼過ぎる」
「女性の輿入れに遅過ぎるなんてことはありませんよ。五人続けて娘子ばかり産まれる事だってありますからねぇ」
「……」
紡は僅かに顔を顰めて、写真を閉じた。
気になる事はいくらかあったが、そのどれもがここで八重に尋ねたところで解決しそうにない内容だ。
確認したところ、見合いの日取りはまだ決まっていないらしい。双方の都合を擦り合わせてこれから設定するそうだ。
紡は自分の都合がつきそうな日程を伝えて、その日もいつも通りの時間に家を出た。
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