唇を噛む

西順

唇を噛む

「また」


 心配そうに私を見てくる内田香純に言われて、口内に血の味が滲んでいる事に、今更ながら気が付いた。私は悔しい事があると唇を噛む癖があるのだが、それが知らず知らずに発症してしまったのだろう。理由は明々白々で、校内の掲示板に貼られた一学期の中間テストの結果が2位だったからだ。全く私立の進学校だからって、貼り出される方の身にもなって欲しい。


「高野さん、大丈夫?」


 こうして心配そうに首を傾げて尋ねてくる内田香純が1位。私は万年2位の女だ。何が「大丈夫?」だ。誰のせいで私が万年2位に甘んじていると思っているの。


「大丈夫よ。次こそ勝つから」


 そうして心配そうにしている内田香純を振り切り、私はその場を後にした。


 ◯ ◯ ◯


「椎奈、また2位だったんだって? 残念だったね」


「次こそ1位取れるよ」


「ありがとう」


 クラスメイトたちが心配するフリをして話し掛けてくる。私がクラス委員であり、クラスの中心だから。私の周りにはクラスメイトで輪が出来る。対する内田香純の周りに人はいない。いつも一人で本を読んでいる。


 スクールカーストで言えば私の方が上にいる。きっと内田香純よりも充実した学生生活を送れている。でも定期テストの度に内田香純の名を見せつけられ、こうも劣等感を植え付けられては、充実した学生生活とは言い切れない。それは私の周りに集まる人間が、私のご機嫌伺いをする人間しかいない事でも決定的だった。


 別に強権を振るっているつもりはない。表面的には良好な友達関係と見えるだろう。しかし私は知っている。トイレで、階段の踊り場で、体育館の片隅で、校舎裏で、私の悪口を吐いている事を。私はきっと嫌われ者なのだ。ただ、私が内田香純よりも人当たりが良いから、表面的に上手く付き合っているだけなのだ。


『2=Bの内田香純さん。至急、職員室まで来てください』


 教室で私の友達を自称するクラスメイトたちと話をしていると、校内放送で内田香純の名前が呼ばれた。


「どうしたんだろう?」


「何か悪い事でもしたんじゃない?」


「あの内田さんが?」


「ああ言う、一見大人しそうな子の方が、裏で何しているか分からないのよ」


 裏で何かはあなたたちでしょう? そう思いながら内田香純を横目で見遣れば、顔面蒼白で慌てて教室から出ていった。それをクラスメイトたちがクスクス笑って見送る様子に、彼女たちとの心の距離を感じずにはいられなかった。


 その日、内田香純は早退した。


 ◯ ◯ ◯


 早退した日を境に、内田香純はちょくちょく学校を休んだり、早退したり、遅刻する事が少なくなくなった。これに対して先生方は何も言わず、きっと何かしらの事情があるのだろう事は確実で、しかしそれはクラス間に澱のように溜まっていった。


 私の前で、内田香純だけ特別扱いだと不満を口にするクラスメイトたち。学校にいない時間が増える事で、みるみる成績が落ちていく内田香純を陰からクスクス笑うクラスメイトたち。その一挙一動が私の心を凍てつかせていった。そしてそれを受容している自分が許せず、私は行動に移したのだ。


「はい」


 自分の机に置かれた紙束に内田香純は驚き、首を傾げながらこちらを見上げてくる。


「これは?」


「あなたが休んで出られなかった授業のノートのコピーよ」


 状況に理解が追いついていないのか、内田香純は、何度も私とコピーの束を見返す。


「え? 何で?」


「私が勝ちたいのは、勝手に落伍していくあなたではなく、いつも1位のあなたなの。それだけ。それを使うか使わないかはあなたが決めれば良いわ」


 それだけ言って私が席に戻ると、この光景を遠目から見ていたクラスメイトたちは、私に落胆したのか、私から距離を置くようになった。こちらも辟易していたから丁度良かったけど。


 ◯ ◯ ◯


 以来私は内田香純にノートのコピーを渡し続け、内田香純の成績は元に戻っていった。内田香純とそうやって交流をしていくと、何か不思議と共犯のような感情が生まれ、私たちは良く会話を交わすようになり、それが私にはとても心地良い、何物にも代えられない時間となっていっていたのを、自覚せずにはいられなかった。


「椎奈は、私がどうして学校休むのか、聞かないんだね」


 ある日の放課後だった。夕日に照らされた香純が、そう尋ねてきたのは。


「言ったでしょう? 私が勝ちたいのは1位の香純よ。負けた時の言い訳は聞きたくないわ」


 その日私たちは手を繋いで帰った。あんなにドキドキしたのは初めてだった。


 ◯ ◯ ◯


 そして期末テストの期間がやって来た。結果はやはりと言うべきか、当然と言うべきか、流石と言うべきか、香純が1位でやっぱり私は2位だった。クラスメイトたちは遠目に私を笑っていたけれど、私は悔しくて唇を噛むような事は無かった。それよりもどこか爽やかな、憑き物が落ちたような感覚を覚えたのだ。


 誰もいなくなった放課後の教室で、その日私と香純は唇を合わせた。手を繋ぐより、ハグするよりドキドキして、終わった後には互いに顔を見られなかった。


「もうすぐ夏休みだね」


 香純のこぼす言葉に、ただ頷き返す。


「夏休みが明けたら、授業にも普通に出られるようになると思う」


「そう、なんだ……」


 この特別な関係が壊れるのではないかと、エアコンの効いた涼しい教室の中で、私は更に心が寒くなっていくのを感じた。でもそれを払拭するように、香純が私の手を握ってくれた。その温もりだけで心も温かくなる。


「あ〜あ。でもちょっと残念だったなあ」


「残念?」


 と私が香純の顔を見遣ると、香純はいたずらっぽく微笑んでいた。


「椎奈の悔しがる顔、私好きだったから。いっつも唇噛み締めて」


 そうやって悔しがる私の真似をする香純。それはお世辞にも可愛いとは言えない顔で、公衆の面前でそんな顔を晒していたのかと思うと、思い出して顔が熱くなる。


「ええ? 私そんな顔してた?」


「してたしてた」


 そう言って笑う香純をこらしめてやろうと、私は自分の唇で椎奈の唇を塞ぎ、意地悪く香純の下唇を噛んでやったのだ。すると少し血の味がして、やり過ぎてしまった事に罪悪感を覚えるとともに、その罪悪感と血の味に軽く陶酔する自分を自覚せずにはいられなかった。

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唇を噛む 西順 @nisijun624

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