春の章

『蛤と缶詰』


「お姉ちゃん、蛤のお吸い物って好きだった?」

崩れたビルの陰で錆びた缶詰を開けながら、妹が唐突に訊く。

「私、あれ、実は嫌いだったんだ」

世界がこんなことになる前、毎年ひな祭に母が作ってくれたっけ。

「大嫌いだった……」

呟く妹の頬を、ふいに涙が伝う。

あの日々は、戻らない。



(お題:妹、ビル、蛤)




『春の水葬 その1』


晩春のことだった。遺体は水葬に付したのだという。

湖底の温い泥に横たわる妻の姿を思い描くと心が安らぐのだと、湖畔の家で男は語った。

「死んだものは小言も言わないし、どこへも行かないからね」

手錠をかけられながら、小さく哂う。

「ただ、あれの作った味噌汁がもう飲めないのだけは残念だったな」




『春の水葬 その2』


遺体は水葬に付されたという。そうするしかなかったのだと。

波間に沈んでゆく母の姿を見ても、もう涙も出なかったそうだ。

「でもね、その時、ふと思ったの。お母さんの味噌汁はもう二度と飲めないんだなって。そしたら急に涙が出てね」

晩春の光の中で、老婦人はひっそりと微笑んだ。



(お題:晩春、味噌、水葬)

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