みどりの花と銀の杖
桃麒麟
第1話 僕のルームメイトの翠のこと
僕のルームメイトの翠は、ものすごく忘れっぽくて、ものすごく不器用で、舞台芸術が好きで、やさしくて、かわいい。
かかさずチェックする「今日の占い」の、黄色とオレンジの音楽にハタッ、と振り向いて、
「今日ツムグくんは3位!
ラッキーアイテムは指輪」
と、頼んでいないのに嬉々としてアナウンスしてくる、その3位と指輪を、1分後には覚えていない。
翠の忘れっぽさは、常軌を逸している。
翠のモノは、なんでも無くなる。
整頓して片付けるスキルがおそろしく弱いので、腕時計、支払振込用紙、保険証…そういう翠の大事なものは、よく、本棚の後ろあたりから出てくる。
それから翠は、信じられないほど不器用で。
料理の最中にふっ、と関係のないことを考えて、煮えたぎるカレー鍋を床に落としたりしている。
危ない。
「運動神経も、ヤバい」
と、翠本人が言っていた。
だから、日常生活すべてにおいて、困り感が果てしない。
アルバイトは2回もクビにされてしまった。
僕の机に、コップに差したマーガレットを置いてくれたのは翠だ。
けれど、2人の部屋は散らかってしまっていて、僕のエリア以外はめちゃくちゃだ。
白く明るい天窓のある玄関で、脱ぎ捨てられた3足のスリッパをそっとよけて、僕は行ってきます、とアパートの扉を開けた。
◇◇◇◇◇
翠は、やさしい。
「翠」は、みどり、と読ませる。その名前にふさわしく、翠は花が好きだ。
ベランダには、終わりかけのマーガレットのプラ鉢や、咲き始めたオルレアのプランター。実家の親御さんが送ってきたという、ゲンペイコギク。珍しい緑色のペチュニア。
そういうものが、雑然と並んでいる。
その中のピンクのマーガレットを1輪切り取るにも、
「ごめんね、ごめんね」
と、翠は躊躇している。
まあ、水やりは、よく忘れる。
けれど、乾かし気味に育てた方がいいような花だったり強健種だったりで、なんとかなっている。
僕は足早に、駅へ急ぐ。
梅雨明けに少し近づいた町の空は、グレーとベージュでまだらに曇っている。
翠は、舞台芸術が好きだ。
光が溢れる板の上。舞台袖の暗がりに、窮屈に置かれているサイドスポット。メイク道具や次の衣裳でとっ散らかって、大騒ぎな楽屋。パンフレットやグッズを販売する、ひなびた演台。
そんなすべてに、憧れている。
たまに、ちょっとした演劇公演やライブコンサート、踊りのステージなど観に行く。
出かける前にはいつも焦って、見つからないチケットを探している。
座席の翠は、ホールのあっちこっちを、わくわくしたまなざしで見つめている。
◇◇◇◇◇
時間ギリギリに、駅についた。
人々が、ラムネ工場を転がる、何千ものビー玉栓のようだ。
ビー玉たちは、そのまま快速電車へと吸い込まれていく。
ベルトコンベアーよろしく電車が滑り出す。
僕たちは社会という工場の、たくさんの瓶に詰め込まれる栓になる。
すでに疲労の気配がする一日が、なし崩し的に始まった。
翠は、わりと、かわいい。
静かに混雑した電車で、僕はマスクの中で、ふっと笑った。
筋肉が細くて、華奢な手足。
インドア派で、色白。
なにか匂いがする髪。
切れ長の眼。
柔らかくて肌触りの良い服ばかり着ている。
他人からの怒マークのついた指摘が怖くて、いつも緊張している。
ときどき、幽体離脱のごとくぼんやりしている。
そして他人に喜ばれるのが好きで、不器用なりに相手に気を遣う。
過度なほどに。
そして、ド天然。
だから、たまに男にモテている。
信じられる女友達も、3人くらいはいるらしい。
けれど多分、翠は、ルームメイトの僕のことが、一番好きだと思う。
僕ほど、
翠の、日常生活に困難なほどの忘れっぽさも、
翠の、命に関わるほどの不器用さも、
その優しい性分も、
儚い見た目も、
声も、
髪も、
みーちゃんのすべてを飲み込んで愛おしく思っている人間は、きっといない。
おそらく、この先も、現れないだろう。
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