第二章 高校生活

 祐真が通う私立喜屋高校は、千葉県富津市にあった。祐真の住むアパートから、約十分ほど歩いた距離に存在している。

 高校近辺の大貫地区は、何もないのどかな地域なので、ラッシュも緩く、雑踏の中を歩くような面倒な真似とは縁遠い場所だった。


 とはいえ、利便性は悪くなく、近隣は木更津や君津などとのアクセスが可能な土地だ。住むには適している地域だといえるだろう。


 祐真は、通学路を通り、喜屋高校へと到着した。下手箱から上履きに履き替え、廊下を進む。少し早い時間なので、すれ違う生徒は少なかった。

 階段を登り、祐真は二年一組の教室へと入る。始業にはまだ余裕があるものの、半数以上の生徒が登校を終えていた。


 後ろの窓際にある自分の席へと着き、祐真は椅子へと座る。


 スマホをポケットから取り出したところで、ラインに着信があることに気がつく。

 クラスメイトの綾部星斗あやべ せいとからだ。教室にいないと思っていたら、どうやらすでに登校していたらしい。


 メッセージはこうだった。

 

 『お宝を持ってきたぞ! 実習棟一階のトイレに集合!』


 顔文字付きで、そうコメントが打たれてあった。

 実習棟は、家庭科室や理科室などがある建物で、通常の教室はない。そのため、今の早い時間帯だと人気が少なく、企みごとをやるには打って付けの場所と言えた。


 『わかった! 今すぐ行く』

 

 祐真はそう返信し、座ったばかりの席を立つ。

 祐真の教室があるB棟を出て、C棟を経由し、実習棟へと向かう。途中、登校してきた何人かの他生徒たちとすれ違った。


 実習棟に入ると、途端に閑散とした静かな雰囲気に包まれる。教室棟が建っている方角からは、生徒たちの明るい喧騒が微かに聞こえてきていた。


 祐真はラインにあった星斗の指示通りに、一階の男子トイレを目指す。


 トイレの中に入ると、二つの人影があった。


 「祐真、早かったな。エロ関係のネタと思って期待したのか?」


 星斗が銀縁眼鏡を指で持ち上げながら、からかうようにして言う。


 「ちげーよ。教室に着いたらちょうどラインがきたんだよ。それで、お宝って?」


 マッシュルームヘアーのオタク禅とした星斗に、祐真は訊く。


 先に答えたのは、隣にいた橋口直也はしぐち なおやだった。


 「すごいよ。レア物だよ」


 直也は童顔の顔を輝かせていた。


 「レア物?」


 「そう」


 星斗は、小太りの体の影から、もったいぶった仕草である物を取り出した。それはDVDケースのようなパッケージだった。


 「それは……」


 裕也は絶句した。星斗が持っている物は、超レアのアダルトゲームだった。発売されると同時に、人気が爆発し、即売り切れとなったPC用のソフトだ。異世界から突如現れた美少女エルフとわけあって同居をし始め、それから次々と美少女獣人や、美しい雪女などが主人公の周りに集ってくる。そのあと、エッチな展開へと広がっていくという、ハーレムタイプのゲームだ。アドベンチャーの名を語っており、テキスト形式で進む。


 有名な絵師を起用しているらしく、イラストも大変可愛い。祐真も以前から見知っており、欲しかったものの、すでにどこの通販サイトも品切れ状態となっていた。

 それをこいつは手に入れたのだ。やるな。星斗のくせに。


 「理解したみたいだな。祐真。F5キー連打の戦争を勝ち抜いて手に入れたシロモノだぜ」


 星斗は、期末考査で学年一位を取ったかのような、誇らしげな顔をする。


 「貸してくれ。一日で終わらすから」


 祐真の言葉に、星斗は細い目をさらに細くし、鼻で笑う。


 「ふざけんな。俺だってまだやってないんだぞ」


 「じゃあ終わったら貸してくれ」


 「次は僕だよー」


 直也が口を挟む。


 「じゃあその次な」


 「わかったよ。まったくエロゲーが絡むとしつこくなる奴だな」


 星斗が呆れたように言った時だった。

 トイレの入り口に人影が差した。高い身長だ。てっきり教師だと思った。

 だが、違った。


 下品なダミ声が、トイレの中にこだまする。


 「あれえー星ちゃんー。こんなところでなにしてんのー」


 日本猿を凶悪にしたような顔面の男が、トイレへ入ってくる。制服を着崩し、髪は小便のような色をした金髪だ。

 名前は知らないが、姿は見たことがある。目立つ風貌なので覚えていた。確か一学年上のヤンキーだったと思う。


 後ろにもう一人いた。これまた狒々を連想させる容貌の男だ。身長はもう一人より低いが、標準よりは高かった。


 「こ、古里こさとさんに鴨志田かもしださん」


 星斗は二人を見るや否や、怯えた表情をした。手に持ったエロゲーをさっと後ろに隠したことを、祐真は目の隅で捉える。


 「星ちゃん~。約束のお小遣い、持ってきた?」


 古里と呼ばれた男は、踵を擦るようなだらしない歩き方で、こちらの目の前までやってきた。そして、乱暴に星斗と肩を組む。


 「あの、ですね。まだ用意できていないです。三万円なんて大金だから……」


 オドオドとした様子で、星斗はそう言った。

 古里はそれを聞くなり、組んでいた肩に力を込めたようだ。星斗は痛そうに呻き、身をよじらせる。だが、古里は逃そうとはしなかった。


 祐真と直也が近くにいるにも関わらず、肉食獣が威嚇するような顔で、声を張り上げた。


 「んなこたぁ知らねーよ。俺が持ってこいつったらもってこいよ!」


 古里の恫喝に、星斗はますます怯えた様子を見せた。草食獣のように縮こまっている。


 祐真は、隣にいる直也の顔をうかがった。直也もどうしていいかわからないといった困惑した表情で、事の成り行きを見守っている。


 その時、鴨志田と呼ばれた男が、何かに気がついたような声を上げた。それは祐真にとっても、非常に困る発見だった。


 「あれ? こいつ、後ろに何か隠してんぞ」


 古里は、鴨志田の言葉に反応した。星斗の背後に手を伸ばし、隠していたアダルトゲームを引っ手繰って奪う。


 「ああ!」


 星斗は悲痛な声を出す。普段では考えられないほどの素早さで、アダルトゲームを取り返そうと手を伸ばすものの、古里は容易くそれをかわした。そしてアダルトゲームに目を落とす。


 「なんだ? これ。お前らオタクって、こんなキモいもん好きだよな」


 古里は馬鹿にしたような表情で、手に持ったアダルトゲームをひらひらと振った。


 「モテないからって、これはないでしょ」


 ヤンキー二人は、同時に嘲笑う。


 「まあ、こんなもんでも売ればいくらか金にはなるだろ。じゃあ星ちゃん、今回はこれで勘弁してあげるから、次はちゃんと用意しておいてねー」


 小里はアダルトゲームを持ったまま、その場を去ろうと踵を返す。星斗は何もせず、ただ見送るだけだった。諦めたのだろう。


 祐真は歯噛みした。困った展開になった。あれは希少品だ。売られてしまっては、もう手に入らない。買い戻そうにも、こいつらがどこの店で売るのかわからない。

 このままじゃあ、俺がプレイできないじゃないか。せっかく貸してくれると星斗は約束してくれたのに。こいつら。


 「待て! 返せよ!」


 言ってしまったあとで、祐真ははっとした。自身が思わず声を出していたことに驚く。エロゲーを失うことを危惧するあまり、口が勝手に動いてしまったのだ。


 ヤンキー二人は立ち止まった。ゆっくりこちらを振り向く。


 「なんだって?」


 古里は、無表情で、祐真の元へ詰め寄ってきた。祐真は恐怖を覚える。このヤンキーは、たった一言で、怒髪天にきたらしい。余計なことを言ってしまった。


 「……」


 祐真が口をつぐんでいると、古里は、祐真の胸倉を掴み、引き寄せる。想像以上に古里は、腕力があることを祐真は知った。


 「もう一度言えよ」


 「……それは他人のだ。盗むと犯罪になるぞ」


 祐真の言葉に、古里は破顔した。歯を剥き出しにした猿そのものだ。


 「これは星ちゃんから譲ってもらったんだよ。なあ、星ちゃん」


 古里は、星斗のほうを向き、平然とうぞぶく。星斗は、おずおずと頷いた。


 「な、だから黙ってろよ」


 古里は掴んでいた祐真の胸倉を離した。そして、こう続ける。


 「まあいいや。とりあえずお前も三万な。明日持ってこいよ。今の時間、この場所に。そうすればこれは返してやるよ。こなかったらリンチな」


 そう言い残し、古里はトイレを出て行った。鴨志田もニヤニヤしたいやらしい笑みを浮かべながら、あとに続く。


 二人が立ち去り、トイレに弛緩した空気が流れた。直也が心配そうに声をかけてくるものの、祐真は返事ができなかった。


 妙なトラブルに巻き込まれてしまった。暗澹たる思いが、自身の胸中に、染みのように広がっていくのを祐真は自覚した。




 午後になっても、気分は晴れなかった。不安が頭の大部分を占めており、授業の内容がまるで入ってこない。まるで脳みそが分離したかのように、意識は浮ついていた。


 あのあと、星斗は自身のせいでトラブルに巻き込んでしまったと謝罪してきたが、星斗のせいではないので、責めるような真似はしなかった。そして、二人は気を使ってか、あまり話しかけてこなくなった。


 祐真は、溜息をつきながら、ノートに視線を落とす。授業は祐真のことなどつゆ知らず、どんどん進んでいっているが、ノートは白いままだ。このままでは、成績の面でも遅れをとってしまう。


 そう思うものの、授業に集中できず、雑念が頭を駆け巡っていた。


 チャイムが鳴り、今日最後の授業が終わった。結局、寝ていたのと変わらないほど、勉強ははかどらなかった。


 SHRショートホームルームまでの短い休み時間、頬杖をついて物思いにふけっていた祐真に、近くの席の横井彩香よこい あやかが声をかけてきた。


 「ねえ、祐真君、今日具合でも悪いの?」


 祐真はふと彩香の顔に目を向ける。彩香の色白で清楚な顔が、心配気な表情に包まれていた。


 彩香は面倒見の良い面があり、他のクラスメイト曰く、保母さんのような性格だという。祐真自身もそう感じていた。


 「いや、なんでもないよ。気にしないでくれ」


 祐真は顔を逸らし、窓から外を見る。ここからは運動場が一望できる。今は人影一つなかった。


 「でも顔色悪いよ」


 黒いショートカットの髪を揺らし、彩香は回り込んで、祐真の顔をのぞき込む。


 「本当に大丈夫?」


 いくら彩香に心配されようとも、話して解決するものでもない。


 「だから大丈夫だって」


 そう言ったきり、祐真は彩香を無視した。ちょっとの間、彩香は祐真のそばに佇んでいたが、やがて女子のグループの元へ駆け寄っていく。

 そこから微かに、他の女子が彩香に話しかける声が耳に入った。


 「あんなオタクグループの人と話さないほうがいいよ」


 「どうして? 大丈夫だよ」


 「同類だって思われるよ」


 「そんなことないよ。気にし過ぎだって」


 「彩香ってば、やさしー」


 祐真は嫌になり、顔を伏せて目を閉じた。




 学校が終わり、自身のアパートへと祐真は到着する。祐真は部活をやっていないので、帰宅時間はいつも早い。


 部屋に入るなり、おかしな光景が目に飛び込んできた。


 「何やってんの」


 「祐真がそろそろ帰ってくるかと思って、待ってたんだ」


 リコは、裸で祐真のベッドへ入っていた。涅槃仏のように側臥位のポーズを取り、ベッドの半分を開けている。


 「さ、可愛がってあげるよ。入っておいで」


 ベッドの開いた部分をポンポンと手で叩き、リコは祐真を誘う。毛布の隙間から、リコのモデルのような肉体が見えた。

 いつもなら、ここで強く拒否の言葉を口にし、突っぱねるのだが、今はその余裕さえない。


 祐真はリコのアクションに何も反応せず、リコに背を向け、クローゼットの前で着替えを始めた。


 「その気になったようだね」


 リコの嬉しそうな声が背後から聞こえる。冗談なのか、本気なのかはわからないが、これも答える気にならない。


 「……」


 リコの視線が背中に突き刺さっているのがわかる。やがて、ベッドからリコが降りてくる音がした。

 リコは裸のまま、祐真の脇を通り、部屋とキッチンの境界に立つ。そして、祐真のほうに顔を向けた。


 「今日の晩御飯は祐真の好きなから揚げだよ。それとポテトサラダ。丹精込めて作ってあげるね」


 リコは楽しそうに言う。祐真はそれに対し、大した反応を示さず、生返事で返した。


 部屋着に着替え終った祐真は、畳に座り、テレビ点ける。そして、ぼんやりと視聴を開始した。

 リコはそんな祐真の様子を見つめていたものの、やがて服を着て、キッチンへと入っていった。調理を行う音が聞こえてくる。


 まるで反抗期が到来した子供のような祐真の行動だが、何も聞いてこなかった以上、どうやらいつものことだとリコは解釈したらしい。祐真はそう思った。


 大して観る価値のない夕方のワイドショーを眺めながら、少しも頭に入らないことを自覚する。


 例のヤンキーとのやりとりが、頭を占領していた。


 まさか、カツアゲを受けるとは思わなかった。生まれて初めてだ。そして、それがこれほどまで精神的に負担になるとは、想像だにしなかった。


 警察や教師に相談する気はない。しても解決するだろうか? という疑問があった。ちゃんとあの連中が退学にでもならない限り、いずれは火の粉が再び降りかかる気がする。


 だが、無法者の代名詞のような行動を取ってきたであろう連中が、今も野放しになっていることを鑑みると、今回の件だけで退学に追い込まれるとは到底考えられない。


 また、教師や警察に相談した場合、確実に両親の元へ連絡がいくはずだ。それはどうしても避けたかった。余計な心配はかけたくない。


 かといって、素直に金を払うという選択肢はナンセンスだ。払えない金額ではないが、かつあげもとい、脅迫に対し屈するようでは、これから先、連中に搾取される一方になるだろう。


 だが、そう腹を決め、抗おうにも、腕力では到底勝ち目はない。そしてそれを契機に脅迫は、さらにエスカレートしていくだろう。星斗の時のように、教師の目をかいくぐり、証拠が残らない暴力を行使するはずだ。しかも相手は二人。下手をすると、敵が増える可能性だってある。


 まさに八方塞りの状態だ。そして、あのアダルトゲームのこともある。あれは必ず取り返したかった。あれは垂涎の品だ。絶対に失うわけにはいかない。

 夕食が始まっても、良い解決策が見出せず、箸は進まなかった。ご飯を半分ほど残し、席を立とうとする。


 リコが口を開いた。


 「祐真、何かあったの? 様子がおかしいよ」


 「何もないよ」


 「そんなはずはない。帰ってきてから、ずっと変だよ。口数も少ないし」


 察していたようだ。だが。


 「元々お前とはあまり喋らないだろ」


 「ううん。違うね。もっと喋ってた。一言二言は」


 「そんなに変わらないじゃねーか。……だから、なんでもないって」


 その場を離れようとした祐真に対し、リコは、テーブルの上へ身を乗り出し、心底心配した声で、言葉をぶつける。


 「嘘をつかないで。いいから話してみて。僕は祐真の力になりたい」


 リコは切れ長の目を、真っ直ぐこちらに向けていた。真剣な眼差し。そこには真摯な気持ちがあった。


 祐真は、リコの気迫に押され、もう一度座る。解決の糸口を掴めるとは思えないが、話だけなら問題はないかもしれない。


 祐真は、リコに、事のあらましを語ることにした。




 祐真の話を聞き終えるな否や、リコは震えんばかりに激怒した。


 振り絞るような声で言う。


 「許せない。僕の祐真に、そんな仕打ち」


 「なんでお前のものなんだよ」


 リコは、祐真の突っ込みには答えず、決心した表情をした。


 「祐真、僕がそいつらを殺すよ」


 突然の物騒な提案に、祐真は面食らう。あんな連中、死んでも構わないが、その場合、色々問題が起きる。そもそも家事しかできないこいつが、どうやってあの二人を殺すというのだろう。包丁でも使うのか。


 「どうやるつもりだ? お前がヤンキー二人、殺せるのか? できたとしても、警察に捕まるぞ」


 リコは、自信満面になった。


 「そこは大丈夫。僕、魔術が使えるから」


 「魔術?」


 「そう」


 リコは首肯した。本気で言っているようだ。


 魔術がどんなものかは、何となくはわかっている。ゲームやアニメなどでお馴染みだ。こいつはそれを使えるのか。考えてみれば、不可思議な世界から現れた不可思議な存在だ。そのくらい使えても、おかしくはないかもしれない。


 それにアネスの言動を祐真は思い出す。彼は『一時隔離』だとか何とか言っていた。確かに、あの時、夜中にあれほど騒いだにもかかわらず、薄い壁で仕切られているに過ぎない近隣の部屋から、何のアクションもなかったのは不思議だった。


 もしかすると、彼も魔術を用い、何かしらの対処をしていたのかもしれない。そして、そうならば、リコも魔術を使えても不自然ではないだろう。


 「僕が魔術を使って、完全犯罪でそいつらを殺すよ」


 リコは自身の胸を叩いて言った。


 「だけど……」


 祐真の頭の中に、以前リコが語った『ペナルティ』の文字が渦を巻いていた。

 こいつを召喚したことが他者に発覚したら捕縛部隊が押し寄せ『向こうの世界』へ連行される。そして、インキュバスから。陵辱の限りを尽くされる人生を送ることになる――。


 それは、ヤンキーに脅迫されたり、警察に捕まるより、恐ろしいことのように思えた。


 リコの言う魔術がどれほどの信頼性を持っているのかわからないが、リスクが大きい気がする。そもそもどんな手段を取ろうとも、こいつが出張る以上、発覚の危険は増大するのだ。


 祐真はかぶりを振った。


 「やっぱ駄目だ。別の方法を考えよう」


 祐真の言葉に、リコはしばらく考える仕草をした。


 そして言う。


 「じゃあ祐真が撃退しちゃいなよ」


 「え?」


 祐真はリコの顔を見つめる。


 リコは、悪戯っぽく笑みを浮かべた。


 「いい方法があるよ」




 翌日、祐真は普段どおりの時間に起床し、学校へ向かった。

 アパートがある西大和田から、大貫地区に入る。そして、他生徒に混ざって、喜屋高校の校門を通過した。


 下駄箱で上履きに履き替えた祐真は、そのまま教室へは行かず、実習棟を目指して歩く。


 直接、実習棟の一階トイレへと向かうつもりだった。


 他生徒とすれ違いながら、C棟を通り、実習棟へと繋がる渡り廊下に差し掛かる。


 実習棟が近付くにつれ、祐真の心臓は、不安の鼓動を強く刻み始めた。息が荒くなる。

 おそらく、すでにあのヤンキー二人はトイレ内にいるはずだ。遅刻の常習犯らしいが、こんな状況に限って、律儀に時間を守るのだ。あいつらは。


 祐真は、実習棟の入り口へ辿り着いた。そして立ち止まり、右手を押さえる。


 


 濁りのような不安が、心の奥底に生まれている。リコは必ずいけると太鼓判を押したが、祐真にとっては未知の領域のものだ。そう単純に信じられるものではなかった。


 しかし、ここまできて尻込みしても無意味だ。もうリコを信じて、進むしかない。

 祐真は、決心し、実習棟へと足を踏み入れた。静まり返った廊下を通り、昨日と同じ一階の男子トイレに入る。


 中には、二つの人影があった。例の二人だ。


 「おーマジできたじゃん。俺の予想あったりぃ~」


 「ちっ」


 二人はよくわからないことを話す。どうやら、祐真がくるかどうかの予想でもしていたらしい。随分と余裕ぶっている様子だ。


 「おい、ちゃんと持ってきたか?」


 古里が、肩を揺らしながら、こちらに歩み寄ってくる。顔には、獲物をいたぶるような嗜虐心が露骨に表れていた。


 古里は祐真の眼前で立ち止まった。手にはあのアダルトゲームを持っている。それを見せ付けるようにして掲げた。


 「これを返して欲しいんだろ。三万渡せよ」


 祐真は、可能な限り平常心を保つことを心がけながら、相手に気づかれないよう、静かに深呼吸を行う。


 「おい、三万。さっさと渡せよ。オタク」


 祐真は腹を決めた。心臓が高鳴る。きっと大丈夫のはずだと心の中で念じた。


 古里の顔を見上げ、言う。


 「お前らクズ共に払う金なんてねーよ。調子に乗るな馬鹿」


 祐真の声が、トイレの中に響き渡った。


 スローモーションを見ているかのように、古里の表情が、『楽』の表情から、一気に『怒』へと変化したのを祐真は見た。


 鬼のような顔になった古里は、祐真の胸倉を鷲掴みにし、キスができるくらいにまで顔を近付ける。


 「なんだお前? 舐めてんのか? もういっぺん言ってみろ」


 恐怖が湧き上がってくるが、もう止める訳にはいかない。祐真は再度繰り返す。


 「だから払わないって言ってんだろ。この馬鹿」


 祐真が言い終わるなり、古里は祐真の腹に拳を突き入れた。腰のほうから長いストロークを持たせた強い一撃だ。相手の苦痛など一切眼中にない思考が明白に現れていた。本来なら悶絶必至のはずだ。


 だが――。


 祐真はこの瞬間、己の『勝ち』を確信した。リコの言葉は嘘ではなかった。


 拳を突き入れた古里は、大きく呻き、右手を押さえてしゃがみ込んだ。


 祐真のほうは何ともなかった。痛みも、衝撃もない。


 「おい、清治きよはる!?」


 鴨志田が驚いた顔で、古里を見下ろす。


 古里は、搾り出すような声で言った。


 「こいつ、腹に鉄板を仕込んでやがる。すげえかてえ」


 祐真は笑って聞き返す。


 「鉄板?」


 祐真は、制服をはだけさせ、自身の腹を見せた。もちろんそこには鉄板など仕込まれていない。古里が唖然とした表情をみせた。


 唐突に鴨志田が殴りかかってきた。祐真は不動を貫いた。もろに顔面へと拳は叩き込まれる。


 鴨志田が、喉を潰さんばかりの絶叫を上げた。古里と全く同じく、右手を押さえ、悶絶する。


 「何をしやがった」


 古里は、次は左手で祐真の胸倉を掴む。右手は晴れ上がっているようだ。


 祐真は無言で、古里の左手首を掴み、握り締めた。物凄く柔い。枯木を掴んでいるかのように、簡単にへし折れることがはっきりと体感でわかった。


 強力な握力により、古里は激痛に喘ぎ、大きく体を仰け反らせた。祐真は折らないように注意しつつ、しばらく掴み続ける。


 古里は、大人に捕まった子供のように、暴れながら祐真の体を夢中で蹴り続けるが、こちらは全く意に返さない。そよ風ほどのダメージもなかった。


 やがて、古里は悲痛な顔で懇願を始めた。


 「やめてくれ」


 祐真は古里の手を離す。古里はお漏らしをしたかのように、尻餅をついて、左手を抱え込んだ。


 この時点で雌雄は決した。二人は完膚なきまでに祐真に圧倒されたのだ。


 祐真は堂々とした口調で、戦意がなくなった二人に言う。


 「ゲーム、返せよ。あと、俺と星斗へのカツアゲはもう止めろ」





 古里からゲームを取り返した祐真は、教室に向かいつつ、心の中が台風のあとの空のように、晴れ晴れとしていることを実感した。


 リコが与えてくれたは本物だった。それ自体も驚愕すべき事柄だが、今は勝利の余韻により、あまり不思議に思わない。


 昨日の気分が嘘のように、気分がよかった。当然だ。頭を占めていた理不尽な悩みが解決し、しかもムカつく相手に逆襲したのだ。気分がハイにならないほうがおかしかった、


 鼻歌を歌わんばかりの気分で自身の教室へと入った。そして、星斗の元へいく。直也もそこにいた。


 星斗にアダルトゲームを渡すと、二人は驚きの顔をした。


 「返して貰ったのか? 金は払ったの?」


 祐真は首を振った。


 「払ってねーよ」


 「じゃあどうやって?」


 「内緒。あと、お前の金の件も話しつけたから、心配しなくていいぞ」


 星斗の顔が一瞬、喜びに包まれた。そしてすぐに、眼鏡の奥の細い目がさらに細くなり、疑わしそうな声を出す。


 「本当か? 話し合いで蹴りがつく奴らじゃないだろ」


 「そこは大丈夫。ちゃんとしてくれたよ」


 祐真はそうとだけ答え、まだ話を聞きたそうにしている二人を残し、自分の席へと向かった。

 機嫌よくオーバーアクションで席に着くと、彩香が話しかけてくる。


 「祐真君、昨日と比べて元気がいいね。調子戻ったんだ?」


 「まあね。ちょっとした悩みが解決したお陰かな」


 「そうなんだ。よかったね」


 彩香がニッコリと笑う。祐真も笑顔で答えた。


 チャイムが鳴り、教師が教室の中へ入ってきた。そして、朝のSHRショートホームルームが始まる。

 普段は鬱陶しく感じる担任の声を気持ちよく聞き流しながら、祐真は、昨日のリコとのやり取りを思い出していた。



 

 「肉体強化?」


 祐真は、先ほど握られた自身の右手首を見た。そこには楔文字に似た刺青のようなものが、リストバンドの如く手首を覆っていた。


 「そう。『コルプス・フォート』。スーパーマンのように、超人的な力を発揮できるようになる魔術だ」


 「スーパーマンに? 本当か?」


 ただ右手首に刺青をされただけで、実感が湧かない。


 「今使えるのか?」


 祐真は右手首を擦りながら、訊く。


 リコは首を横に振った。


 「祐真の身に危険が迫った時だけ発動できるようにしたから、今は使えないよ。常時使えるようにしてしまったら、慣れていないせいで制御が効かず、不意に発動させてしまう恐れがあるからね」


 「それもそうか」


 「そして使う場合でも、場所とタイミングに気を付けて。大勢の人の前で使っちゃ駄目だ。おかしな疑惑の目を向けられるからね。例のペナルティを忘れないで」


 リコの警告を受け、祐真は気がつく。リコから与えられたこれが本当に効果があるとして、それを無闇に披露すれば、リコの存在が発覚することに繋がる。リコが直接介入するよりはリスクは少ないが、それでも油断してはならない


 「気をつけるよ」


 祐真は真剣な面持ちで頷いた。




 幸い、この力を使ったのは、密室の上、たった二人の前だった。そのため、発覚のリスクは極力抑えられたと言っていい。あの二人が不自然な力を目にしたのは事実だが、まさか背後にあるリコの存在まで嗅ぎつけるほど知能も高くないだろうし、勘も鈍いはず。また、変な部分だけはプライドが高い人種であるため、年下の弱そうな人間にしてやられたことを、わざわざ吹聴する真似はしないはずだ。


 ひとまず安心していいだろう。

 発覚のリスクも含め、すでに問題は解決したものとして、祐真は考えた。その日の午前の授業が終わる頃には、連中のことなど忘れかけていた。


 だが、昼休みになって、その認識が甘かったことを実感することになった。




 祐真は普段、自分の席で星斗や直也たちと共に食事をとっている。今までは購買のパンを食べていたが、リコが現れ、弁当を作ってくれるようになってからは、毎日昼は弁当を食べていた。


 リコお手製の弁当を食べ終わった祐真は、空になった容器を鞄に納めた。あとは昼休みが終わるまでのんびりするだけだ。


 その時である。


 教室の入り口で、不意にちょっとしたざわめきのような声がした。


 祐真は、そちらのほうへ目を向ける。後方の入り口から、何名かの生徒が教室内へと入ってくる姿が見えた。


 祐真ははっとする。その先頭にいたのは古里だ。ポケットに手を突っ込み、決まりごとのように、肩を怒らせながらこちらに歩いてくる。その後ろには鴨志田。そして、一番最後に知らない人物がいた。


 プロレスラーのような巨躯の男だ。頭は丸刈りで、顔は仁王のように掘りが深く厳つい。外観だけでも、あまり関わりたくないと思わせるほど、暴力的な雰囲気が醸し出されている男である。


 三人は、周りのクラスメイトらちを押しのけながら、祐真たちの目の前までやってきた。そして、取り囲む。


 椅子に座ったままの祐真を見下ろし、古里が口を開いた。


 「こいつだ。菅野すがの


 菅野と呼ばれた男は、ギョロつく目を祐真に向け、鼻で笑った。


 「なんだ? こんなちっぽけなガキにやられたのか? お前ら。情けない奴だな」


 「うっせーっぞ。いいから連れていくぞ」


 古里は、祐真を顎でしゃくる。


 古里の言葉で、祐真はある程度事情を察した。こいつは朝の撃退の件を仲間に話したのだ。そして、報復のためにやってきた。


 だが、この巨漢はどんな立場の奴だろう。古里よりも格が上なようだが。


 隣にいた直也が、おずおずと祐真に耳打ちする。


 「柔道部のキャプテンだよ。確かこの学校の頭みたいな人」


 頭というとリーダーか。昭和の学校じゃあるまいし、そんな風習がまだ残ってるとは思わなかった。


 古里は負けた腹いせに、そのトップの奴に依頼をしたのだ。てっきり己の恥を知られたくないがために、誰にも話さないものと高を括っていたが、甘かったようだ。


 「立て。ガキ。ついてこい」


 菅野は、指を振って、祐真に指図を行う。


 祐真は逡巡した。このまま断っても、おいそれと見逃す連中ではない。それは許しを請うても同じだ。こいつらは蛇みたいな存在だ。一度目を付けられれば、喰らい尽くすまで、執拗に狙い続けるだろう。


 「わかった」


 祐真は立ち上がった。あの魔術はまだ生きている。ここで戦っても、確実に勝てるだろうが、かえってやっかいなことになる。できる限り、人目につかない所で事を行いたい。


 クラスメイトたちの視線が集中する中、祐真は菅野たちの後ろに付き従い、歩いていく。クラスメイトたちは皆、好奇と哀れみの感情が入り混じった表情を向けていた。このあとの祐真に降りかかる災いを想像しているのだろう。


 彩香もその中で、心配そうな面持ちでこちらを見ていた。


 祐真はクラスメイトたちの視線を振り払うようにして、教室を出る。そして、前を歩く菅野たちに訊く。


 「どこまでいくんだ?」


 その質問に菅野たちは答えなかった。黙ったまま廊下を進んでいく。祐真は仕方なく、あとを付いていくしかなかった。

前の三人が向かった先は、屋上だった。


 本来屋上は立ち入り禁止で、扉は施錠されている。だが、古里たちのような輩が何度も鍵を壊して入るため、ほぼフリーの出入り可能な場所となっていた。


 しかしそれでも屋上は、ヤンキー連中を除き、ほとんどの生徒は立ち寄らない、人目に付きづらい治外法権の場であった。


 菅野たちは扉を通り、屋上に出る。祐真もそれに続いた。昼下がりの太陽が、祐真を照らす。


 菅野たちは屋上の中央まで進み、そこで止まった。そして、祐真のほうへ振り返る。

 古里が、恨みがましく祐真を睨みつけながら言う。


 「これからお前はボコられるけど、その前に土下座して謝れば許してやるぞ。あと、十万持ってくればな」


 「金額上がっているじゃないか。まあいくらだろうと払わないけど」


 祐真の突っ込みに、菅野は眉間に皺を寄せた。ただでさえ強面の顔が、羅刹のように凶悪になる。


 「こいつ、随分と舐めてるな」


 「もうとっととやってくれや菅野」


 古里の言葉に菅野は頷く。そこに鴨志田が警告した。


 「用心しろよ。あいつ格闘技か何かやっているから」


 菅野は薄ら笑いを浮かべて、二人を見る。


 「そんなん関係ねーよ。お前らとは違う。こんな弱そうなガキ、油断したってやられねーぞ」


 菅野の嘲笑に、古里と鴨志田は歯噛みをした。


 そんな二人をその場に残し、菅野は巨躯を揺らしながら、こちらに近付いてくる。そして、目の前で立ち止まった。


 「覚悟しろよ」


 菅野はそう言うなり、祐真の襟首を掴んだ。と思ったら、世界が回転していた。


 気がつくと、祐真は屋上の床に仰向けに倒れていた。柔道の技をかけられたのだとわかった。屋上の床に叩きつけられたのだ


 眼前に澄み切った空が広がっている。


 しかし、ダメージはまるでなかった。衝撃や痛みもない。クッションに飛び込んだ程度だ。


 祐真はゆっくりと立ち上がった。そして真っ直ぐ菅野を見据える。


 祐真が平然としている姿を見て、菅野は怪訝な面持ちになった。一発でダウンさせられると思っていたようだ。


 「なあ、変だろこいつ」


 古里も妙な目で祐真を見る。


 菅野は、再度祐真に詰め寄った。手を伸ばし、再び柔道技を繰り出そうとする。

 祐真はこれでは埒が明かないと思った。好きなだけサンドバックになってやろうとも、こいつは諦めない。こちらの制服が痛むだけだ。


 祐真は菅野の手が自身に触れるより前に、菅野を突き飛ばした。


 やったのはそれだけ。


 菅野は自動車に撥ねられたように吹き飛び、派手な音を立てて、屋上の縁にあるフェンスに激突した。そして、フェンスにもたれるようにして崩れ落ちる。


 古里と鴨志田が、唖然とした表情を受かべた。


 人が玩具のように吹き飛ぶシュールギャグのような展開により、動かなくなった菅野を見て、祐真はヒヤリとした。もしかしたら殺してしまったかもしれない。

 近くにいって、確かめてみると、菅野は白目を剥いて気絶していた。息はしているので、死んではいないだろう。


 ほっと胸を撫で下ろしつつ、祐真は古里と、鴨志田の方に顔を向ける。二人は唖然とした表情から、怯えた表情に様変わりした。


 その二人に宣言する。


 「もうわかっただろ? これ以上俺に構うな」


 古里が、唾を飛ばしながら質問を行う。


 「何なんだ? お前。何者だ? わけわかんねえ」


 そして、頭を抱える。


 祐真は、混乱している古里たちを尻目に、屋上の出入り口へ向かった。


 歩いている最中、派手にやり過ぎたかも、とチラリと思う。だが、すぐに問題ないのだと思い直す。仮に怪しまれようと、さすがにここまでやられれば、もうこいつらは絡んでこないはずだ。少なくとも『ペナルティ』を侵す領域までは踏み込んでこないだろう。


 今度こそ、こいつらとの件は、終着したとみていいはずだ。


 祐真は、屋上の出入り口に到着し、扉を開けて校舎の中に入る。


 階段に差し掛かった時、ふと階下に目が止まった。屋上に続くこの階段の下だ。そこを誰かが下りて行ったように見えた。女子生徒の制服だったような気がする。一瞬だったので、はっきりとはわからない。


 念のため、手摺から身を乗り出し、下を確認するが、それらしき人影は見当たらなかった。


 気のせいだったようだ。


 祐真は、そのまま階段を下り、教室へ向かった。早めに事は済んだとは言え、もう昼休みは残り僅かだ。


 教室へ入ると同時に、クラス全員の視線が集まる。少し怯むが、臆することなく、祐真は自分の席へと向かう。


 席へ着いてからも、なお皆が祐真を気にしていることが肌で感じ取れた。祐真がピンピンしているために、事の顛末を読み取れず、好奇心がくすぐられるのだろう。


 そこに星斗と直也が、祐真の席へやってきた。そして不安げな面持ちで質問を行う。


 「祐真、どうなったんだ?」


 「大丈夫? 何をされたの?」


 こちらは、本気で心配しているようだ。祐真は、周囲の人間が耳をそばだてていることを意識しながら、答える。


 「別に何も。問題なく解決したよ」


 直也が、パッチリとした目を丸くして、驚いたように訊く。


 「本当に? 朝もそうだったけど、どうやって解決したの? 見逃してくれる相手じゃないのに」


 「無事にをしたよ。もちろんお金なんて払ってない」


 祐真の自信あり気な言葉に、二人はなおさら疑問符がつく顔になった。しかし、祐真が無事で平然としている以上、信じざるを得ないはずだ。


 やがて、チャイムが鳴り響き、二人は自分の席へと戻っていった。


 教師が教室にやってくるまでの間、今度は隣の席の彩香が話しかけてくる。


 「祐真君、解決したんだね」


 「ああ」


 「よかった。本当に心配してたんだよ。祐真君が昨日様子がおかしかったのもこれが原因なんだね。気ついてあげられずごめんね」


 彩香も本気で気遣ってくれていたようだ。


 「いいよ気にしなくて。心配してくれてありがとう」


 彩香は、祐真の礼に、穏やかに笑って返す。


 そこで祐真はふと気になって、彩香に尋ねた。


 「そう言えば、さっき、屋上にこなかった?」


 彩香はキョトンとした顔になった。そして首を横に振る。


 「ううん。行かないよ。どうして?」


 「いや、違うならいいよ。忘れて」


 祐真がそう言い終わると同時に、教師が教室の中に入ってきた。




 放課後までの時間は、普段と変わらない日常を祐真は過ごした。星斗たちは古里たちをどう対処したのか聞きたそうな様子だったが、結局、質問はなかった。それは他のクラスメイトたちも同様だった。


 そして一つ、行幸があった。星斗が例のアダルトゲームを貸してくれると進言してくれたのだ。星斗はまだ未プレイのはずだが、これは、ゲームを取り返してくれたことと、カツアゲを止めさせてくれたことの礼だと言う。

 祐真はありがたく、それを賜った。


 放課後になり、面倒事が盛り沢山の一日が終わった。とても長く感じた。

 帰路に着き、祐真はアパートへ帰る。


 部屋を掃除していたリコに、祐真は今日一日あったことを報告した。そして、一応解決した旨を添える。


 そして、最後に祐真は言った。


 「ありがとう。リコのお陰だよ」


 祐真の感謝の言葉に、リコは天から宝石でも降ってきたかのような、大きな喜びをみせた。今にも小躍りしそうだ。思えば、リコに礼を言ったのはこれが初めてな気がする。


 リコは、抑えきれない喜びを携えたまま、祐真に対し、こう言った。


 「気にしなくていいよ。その替わり、今夜どうだい?」


 「却下」


 祐真はきっぱりと断った。やはり油断ならない。


 リコは不満気に口を尖らせる。それから、再び提案した。


 「じゃあ、デート一回!」


 祐真は少しだけ考えた。それくらいなら、何の問題もないだろう。デートと言うからには、外だろうし、そこで貞操を狙ってくるなんて真似はさずがにないはずだ。


 「わかった。いいよ」


 祐真は了承した。


 リコは、満面の笑みで頷く。本当に嬉しそうだ。


 話が終わった所で、リコはふと何かを思い出したような表情をした。


 「あ、そうそう、今日ね、祐真に似合いそうな下着があったから買ってきたよ」


 リコが取り出したのは、メンズ用のTバックが数枚と、面積の狭いビキニタイプの下着だった。


 祐真は溜息をつく。リコもいつもの調子に戻ったようだ。


 「そんなの着るかよ。却下!」


 アパートの中に、祐真の突っ込む声が響き渡った。




 横井彩香は、所属している陸上部の部活動を終え、入居しているアパートへと到着した。


 高校生になってから、住み始めたアパートである。1DKの学生向けの部屋。一人暮らしを開始した当初は不安が大きかったが、今ではのびのびと自由に過ごすことができるため、非常に満足していた。好きに『趣味』を楽しむことができるし、誰と同居しても咎められることはない。


 彩香は部屋の鍵を開け、中に入る。部屋の中はすでに明かりが灯っていた。一緒に住んでいる『彼』が点けたのだ。


 「ただいま。ユーリー」


 玄関近くのキッチンで、ユーリーが食卓の準備を行っていた。この匂いはカレーだ。おいしそう。


 「おかえり。彩香」


 ユーリーは、天使のような笑顔を彩香へと振り撒いた。頬の辺りまで伸びた銀色のメンズノーブルショートの髪が揺れる。見ただけで髪質がとても良いことがわかり、女の彩香ですら嫉妬するほどだ。


 ユーリーの容姿は幼い。外見からは十二、三歳に見えるだろうか。顔は非常に整っており、フェルメールが描いた絵画のように、神秘ささえ感じさせるほど美しい。

 さらさらのノーブルショートと、白い肌を合わせると、白人の美少女と見紛うばかりだ。


 「もうすぐ晩御飯ができるから。待っててね」


 「うん。いつもありがと。楽しみ」


 彩香は礼を言い、部屋へと入る。


 十五畳ほどの部屋は、雑多に物が並んでいた。


 奥の壁際に、学習机と隣に『趣味』のための作業机。作業机の上には、ウィンドウズのパソコンと、UGEE製の薄い板のようなペンタブレットが置かれてあった。そのペンタブレットの横には、電子ペンが転がっている。


 そしてその対称に、テレビとピンクカバーのベッド。


 だが、特色すべきは本棚の多さだ。残った壁際のスペース全てを食い潰さんばかりに本棚が並んでいる。そしてそこに収まる膨大な量の漫画本。


 その漫画本の過半数が、BL本であった。ボーイズラブ。男同士の恋愛を描いた書籍である。

 彩香はそれらの本や、自身の作品を見る度に思う。と。


 男女の恋愛のような性欲に塗れた汚らわしい行いとは違い、男同士はただひたすらに純粋だ。生殖を伴わない恋愛や性交は、本能に彩られた男女のそれより、一段階上の崇高なものである。


 ユーリーと同居を決めたのも、その点を満たしていたためだ。


 彩香は常々思っている。が、になればいいなと。そうなれば、汚い男女のアダルト雑誌やゲームなどが根絶されるし、自身の作品のインスピレーションにも一役買う。


 これ以上にない素晴らしい世界だろう。




 着替えを済ませ、彩香はユーリーと共に食卓を囲んでいた。


 ユーリーお手製のカレーを口に運びながら、彩香は、話を続ける。


 「それでね、祐真君ってば凄いんだよ。プロレスラーみたいな体格の人を押しただけでやっつけたんだ。あれにはびっくり。いざとなったら助けようかなって思ってたけど、必要なかったよ」


 ユーリーは、にこやかに相槌を打ちながら、聞き役に徹していた。


 「でもさー、それを見て私思ったんだ。ケンカから始まる恋愛もいいなーって。不良の菅野君と地味な祐真君。まさかの逆転劇で恋心が芽生えるの。祐真君可愛いから普段は受けだけど、燃えたら一気に攻めになる。菅野君はたじたじになりながらも、されるがまま、っていうのもいいね」


 彩香はサラダにドレッシングをかけ、食べ始める。さらに話はヒートアップした。


 「そんな二人の間柄に、古里君が入り込んできて、三角関係になるの。祐真君は不良二人を手玉に取るけど、最終的にまた逆転しちゃって、二人から同時に攻められる展開はどうかな? 祐真君が不良たちの慰み者になる。今まで反抗した分、攻めは激しいんだよ。ユーリー的には萌える?」


 意見を聞かれたユーリーは、頷いた。


 「素晴らしいよ。僕もそこに混ざって攻めたいね。可愛い男の子は大好き」


 ユーリーは、そう意見した。


 ユーリーも外見はとても可愛らしい男の子だ。いわゆる美ショタである。


 「可愛い男子同士の攻め合いっこもいいなー」


 彩香は天井を見上げる仕草をし、夢想する。己の描くBL漫画に落とし込むためだ。


 ユーリーは男しか愛せないゲイセクシャルだ。だが、それよりも大きな特徴がもう一つあった。


 それは、人間ではないという点である。


 ユーリーはだった。ニケ月近く前に、隣の市の図書館で発見した『本』によって彩香が召喚したのだ。


 始めは半信半疑だった。以前から魔術や魔法といったものは好きだったものの、現実に存在しているとは考えていなかった。

 だが、漫画の参考になるかもと試しに召喚をしてみると、実際にユーリーが出現し、度肝を抜かれたのだ。


 インキュバスは女性の性を狙う悪魔、正確には淫魔だ。つまりは女にとって危険な存在である。その知識は彩香の頭にあったので、彩香は逃げようとした。


 そこに、ユーリーの説明が行われた。自身が男しか愛せない同性愛者だということ、そのため、女は狙わないこと、『召喚還し』のこと、そして『ペナルティ』のこと。


 ユーリーはも使え、人知を超えた力を発揮できること。


 どれも信じ難いものばかりだったが、目の前にこうして実物が不可思議な方法で現れ、奇跡のような力を使うのだ。信じざるを得なかった。


 そして、彩香は、ユーリーを自身の部屋に住まわせることにした。ユーリーがゲイである以上、女である彩香に身の危険はなかったためだ。


 また、美しいインキュバスのゲイの少年(実年齢は違う)という特徴は、腐女子の好みにドストライクだったからだ。それは創作活動において、大いに参考になる。もっともこの場合、詰め込み過ぎの設定と言えるかもしれないが。


 それに、下手に追い出すと、ユーリーの正体が発覚し、『ペナルティ』が発生する危険があった。それは避けなければならなかった。


 そのような理由から、ニケ月近く、彩香はインキュバスの少年と同棲を続けていた。


 「だけどその祐真って子、少し気になるね」


 ユーリーは、さり気ない口調で言う。


 「でしょ? 多分ユーリーとお似合いだと思うな。今度食べちゃえば?」


 「いや、そっちじゃなくて……」


 「どういうこと?」


 ユーリーは、スプーンを置き、わずかに身を乗り出す。


 「その祐真君が相手を倒した方法だよ。ちょっと不思議じゃない? 体格のない子が、大きな人を吹き飛ばすって」


 彩香は首を捻った。


 「そうかなー? 合気道ってやつ? それじゃない? 前にテレビで、合気道を食らった人が、あんな風に飛ぶのを見たことがあるよ」


 「合気道はそこまで強力じゃないでしょ。 祐真君の場合、違う気がする」


 ユーリーの言葉に、彩香は屋上での光景を思い出した。


 扉の隙間からこっそり覗いていたため、はっきりとは判りづらいが、確かに菅野は吹き飛ばされていた。祐真の手で、漫画のように。


 あんな巨漢をさして大柄でもない祐真が、腕力だけで吹き飛ばせるとは思えなかったため、合気道などの技術を使ったと自然に解釈をしていたが、こうして指摘を聞くと、おかしい気がする。


 しかし、そうなると……。


 「じゃあ、ユーリーはどう思うわけ? 合気道とかじゃないって言うなら、原因は何?」


 カレーとサラダを食べ終え、コップの水を飲みながら、彩香は質問をした。


 ユーリーは、まっすぐ彩香を見つめた。鋭く削った水晶のような目と合う。


 「多分、魔術」


 「ええ!? 何で祐真君が魔術使えるの?」


 「もしかすると魔術師や退魔師かも。あるいは、それらの人が身近にいて、力を分けてもらったとか」


 「うーん」


 ありえない話ではないと思うが、そうなると不自然な点が出てくる。


 「だけど、こんな身近に魔術を使える人が何人もいるなんておかしくない? ユーリー一人だけでも珍しいのに」


 「偶然揃ったのかもしれない」


 「……」


 彩香は少し考えた。確かに、ユーリーのような、不思議な存在と出会う確率は非常に稀だ。ましてや、それが極所で複数発生するなど、可能性としては非常に低い。しかし、ゼロではない。そんな偶然はありえないと一蹴するには、やや短絡的だった。


 「探り入れてみる?」


 ユーリーは即座に首を振った。


 「下手に動かないほうがいいよ。仮に僕の言ったことが事実だとして、今の所こちらの正体には気がついていないだろうし、聞いた限りでは、トラブルになるような真似はしないみたいだし。今はちょっかいは出さないほうがいいと思うよ」


 「でもそれだと」


 今後、『障害』になる恐れがある、と言おうとしたところで、ユーリーは彩香の言葉を遮り、一言付け加えた。


 「今のところは、だよ。彩香」


 彩香は、納得したように笑みを浮かべて頷いた。




 食事が終わり、片づけを済ませたところで、彩香は、勉強を行う。数学の課題が出ていたからだ。


 そしてそれを終えてから、隣の机に座り、ウィンドウズを立ち上げた。


 立ち上がったところで、クリップスタジオを起動させ、キャンパスウィンドウに創作途中の漫画を表示させた。


 目の前に、裸の男同士が絡み合っている絵が映し出される。


 現在描いているのは、社会人男性同士の恋愛を描いたボーイズラブの漫画だ。


 引っ込み思案な上司と、積極的な部下。上司は立場も年も上でありながら、立場も年も下である部下に迫られ、戸惑いながらも受け入れていく。


 やがて、紆余曲折を経て、二人はようやく結ばれるのだ。だが、その肝心の性交のシーンが上手く描けないでいた。


 何度も手直しを行いながら、タブレットの上で、電子ペンを走らせる。時にはネットで検索を行い、参考になりそうな画像を引っ張り出す。しかし、一向に先へと進まなかった。


 彩香は大きな溜息をついて、やや乱暴に電子ペンを置いた。上手く創作活動が進まないことほど、フラストレーションが溜まることはない。

 イライラが募り始めたところで、背後でユーリーが動く気配がした。


 振り向くと、ユーリは着替えを行っていた。部屋着から、ニットカーディガンとジーパンを組み合わせたカジュアルな服装に変わっている。服自体は安物だが、素体がいいので、ファッション雑誌の少年モデルのような様相を呈していた。


 彩香はユーリーに話しかける。


 「今日も『食事』?」


 ユーリーは首肯した。


 「うん。すぐに戻ってくるよ」


 ユーリーは、楽しそうに答える。陶器のような白い肌が、かすかに上気していた。

 これからユーリーは、人間の男性を襲いにいくのだ。


 ユーリは淫魔であるため、人間と性交やスキンシップを行い、精を吸う必要があった。淫魔にとって、精は人間で言うと栄養みたいなものである。摂取しないと次第に弱っていく。通常の人間の食事でも僅かに補給はできるものの、それではとても足りないらしい。


 ふとある思考が、彩香の頭をよぎった。


 ユーリーの鼻筋の通った美麗な顔を見つめながら、彩香は訊く。


 「ねえ、私も付いて行っていい?」


 彩香の突然の申し出に、ユーリーは驚いた表情をした

 「いいけど、どうして?」


 彩香は、自身の漫画の行き詰まりについて説明を行った。そして、最後にこうリクエストする。


 「だから社会人の男の人を犯して。それも二人。一人は四十代くらいで、大人しそうな人、もう一人は、その人よりも若くて、やんちゃな感じの人」


 「条件多いなぁ。でも」


 ユーリーは、華奢ながら、スタイルのいい己の体をかき抱いた。やがて、目が獲物を狙う肉食獣のように、鋭く光る。


 「社会人のおじさん相手というのもいいかもね。たまには。いつものようにイカせまくっていいんでしょ?」


 「もちろん!」


 彩香の心は躍った。


 上手くいけば、これでスランプを脱出できるかもしれない。それにさらなるアイディアが生まれる可能性だってある。その上、男同士の生の性交をこの目で見られるのだ。


 今回、思い切って頼んだのは正解だったようだ。以前からお願いしようとは考えていたものの、機会がなかった。今回を契機に頼みやすくなる。スランプが故の僥倖とも言えた。


 彩香は、これから行われるBL的展開を思い描き、期待で胸を膨らませた。

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