夏の白い手
森沢
第1話 空き家
裏の家には、もう誰も住んでいないという。
朽ち始めた空き家の、その暗がりにぼんやりと白いものが浮かび上がっていた。
和紙を貼った行灯の
色褪せた縁側に座る、白いブラウスに膝が隠れるスカート。顔は見えない。
不思議と怖さは無かった。発泡酒の生温くなった缶を手にだらだらと飲み、スナック菓子を口にふくむ。裏窓からただぼんやりと、不可解な景色を眺めていた。
首にタオルを巻いた姉が、服の山の前で、仕分けているのか無造作なのかぐいぐいとビニール袋に詰めている。色の混ざり合った袋が裂けそうなぐらい膨れたものを受け取り、床に散らばる物を慎重に避けると言うよりも踏みながら階下まで運んだ。
母親が倒れたのは先月だ。
入院したことを機に、生活をし易くするのだと弱気になった母を姉は説き伏せ、今まで出来なかった物の多い実家の片付けに手を付けた。
姉夫婦が少しずつ進めていたが、自分もまとまった休みが取れたことで、弟である自分もその片付けに参戦した。
湿気で底の抜けたタンスが二つと、本箱に衣装ケース。
それぞれの中身を空にし、粗大ごみとして出せるようになったのは、午後になってからだった。
タンスの本体を二人で軒先まで運び出し、一度抜いた引き出しをふたたび元の形に戻す。ありがたいことに二、三日は雨が降らない予報だ。
「庭の雑草すごすぎ」
「夏だしね。荒れた家に見えると、空き巣とか入られそうで嫌なんだけどさ。もうそこまで手が回んないよ」
再び二階に向かう姉の後ろをついてあがる。
「来たついでに草むしりもやっとく」
そういうと、姉が本気でありがたいという顔をした。少し泣きそうにも見え、こっちが慌てた。
「うちもだけど、ここの近所住んでないとこ増えてさ。裏の家もそうだよ」
タオルで汗を拭く姉が、開け放った裏窓に目をやる。
「裏も?」
その家は一段低く、ここから見下ろすようになる。たしか家を出ていくまで、お婆さんが一人で住んでいた記憶があった。
「うん。亡くなって、しばらくは親戚みたいな人が片付けとか出入りしてたけど。数年たって、今はもうね。誰もこない」
そう聞けば、締め切られた裏の家がひどく
半分ずれた二階の障子窓、色の抜けたカーテン。風雨でところどころ白い塗料が落ち、傾くひさし。
大きな木は切られたようだが、野生に戻った庭の花が、雑草と混じり合い奔放に伸びていた。子供の背丈ほどになったそれらが、庭一面を覆っている。
「なんか咲いてる」
「元々植えてたのもあるんだろうけど、いろいろ種が飛んできたんだろうね」
黄色っぽいコスモスみたいなものが大量に咲いていた。
ワレモココウ、キキョウ、オニユリ。
姉が呪文のようにつぶやく。
「この庭も、同じになる」
ほとんどの花は分からないが、百合だけはなんとなく知っていた。手のひらぐらいありそうな鬼百合というものは、オレンジ色で花弁に濃い斑点がついていた。
「うちに来ていいのに」
姉はそういうが、慣れた実家で一人で過ごした方が気楽だった。姉とはだいぶ年が離れているせいか、いまだに世話をやきたがるところがある。
日が暮れるころ、コンビニで食料を買い出し、一番涼しい場所を探した。
西向きの玄関からの風はまだなまぬるいが、裏窓から入る夜風は涼しくなっていた。
散らばった物をどかし、椅子とサイドテーブルを移動させ、その上でコンビニの袋を広げる。
辺りは暗くなっていた。椅子に寄りかかる、ふと視界の端に何かが見えた。
少し低い家の、その縁側で動いたもの。
初めは白い猫かと思った。
しかしそれは人の背丈で、手足があった。ひざ下から足が見える。白っぽい服。それは人の形をしていた。
暗がりの中、青白い光がかすかに内側からその輪郭を映し出す。
空き家の、誰もいないはずの家に人のようなものがいる。
光源は弱く心もとない。青白いかと思えば
けれど、顔を背けたくなるような怖さは無かった。
窓を開けている近所の笑い声が時おり聞こえ、虫の音と大気に混ざる。
うつむいているのか、ほっそりと斜めになった肩。
白いブラウスの上、顔のあたりは影になる。背格好から若い女性だろう。離れているのに、透けるように白い手に目が引き寄せられた。
この世のものではない。背中にひやりとしたものを感じるのに、夏の夜のうつくしい光景に思えた。
誰だろう。
幽霊みたいなものだとして、あの家にまったく関係ないということは無さそうだ。
住んでいたおばあさんの若い頃だろうか。
おぼろげな影は、夕涼みをするように荒れた庭に顔を向けていた。
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