塩味なのに甘いスープ
七草かなえ
『塩味なのに甘いスープ』
高校に進学した途端、付き合う人間の幅が広がったと思う。友人、クラスメイト、先輩、先生。
その中の一人に、俺の人生初の恋人である
俺たちが付き合いだしたのは高校一年生の九月のことだ。
告白したのは彼女、告白されたのは俺のほうだった。思い出補正かなんなのか、思い出す時いつも神々しいとも呼べるキラキラした情景を思い起こす。
それは高校のビッグイベントたる文化祭が終わり、代休を挟んで翌日。
俺は朝一番、他に誰もいない、文化祭の出し物であったアイス屋の飾り付けがされたままの教室で美奈川と二人きりだった。
「文化祭、終わっちゃったな」
朝の教室に、美奈川が一番に来ていることは非常に珍しかった。いつも彼女は早くも遅くもない時間に登校している。そして普段この教室一番のりしているのは常に俺である。
すでに人が、それも美人の女子生徒が一人でいる教室に入ることに、ほんの一瞬だけためらってから足を踏み入れる。足元にはアイスキャンデーを模した紙の装飾がはがれて落ちていたので、近くの机に拾い上げる。
「
そこへ突然、そよ風みたいに優しい挨拶をされた。声をかけてくるとは余計に珍しい。声の主はもちろん彼女だ。
「ああ、おはよう。美奈川が朝イチなんて珍しいな」
「えへへ、お祭りのあとだからかな」
普段友人には気楽なノリでおはようと言えるのに、その時はなんとなく改まった感じでおはようと言った。
美奈川のまっすぐな長い黒髪を、窓から入る風がふわりと揺らす。馴染みない人物相手に俺はどうしたらいいのかわからなくなって、目を黒板のほうへとそらす。
「文化祭、終わっちゃったね」
再び、美奈川が話しかけてきた。同じクラスという意外に接点がない相手だ。ますます戸惑う。だがクラスメイトとして文化祭の出し物を作り上げた仲間ではあるので、そのことで話をふってくるのは理解できた。
「ああ、なんだか準備は長かったのに、終わるのはあっという間だった気がしてる」
「そうだね。あっという間だった」
「俺もせっかく必死で準備したってのに、あっけなく終わって残念な感じがある」
「ふふふ。西条くん、頑張ってたもんね」
「……そ、そういや。昨日学食で文化祭限定メニュー食った? あのチャーシューメガ盛りラーメン」
「わたし、毎日お弁当だからなー。でもそのラーメンは食べたかったな。美味しいって話、あちこちから聞こえてきたんだよね」
「まあ、来年があるって。俺ら一年なんだし」
「それもそっか」
話していくうちに俺はこの会話に慣れてきたが、美奈川の声が、少し緊張している気がした。俺はこわごわと美奈川に向き直ると、彼女は、片手に折りたたんだルーズリーフを手に俺を見つめている。
その眼差しは、真剣そのもの。足元は小刻みに震え、こちらまで伝わってくる緊張の中で直立している。
「あの、西条くん」
急に空気が変わった。彼女の緊張が伝わるせいか、俺まで体が強ばる。なんとか顔はスマイルを保持しておく。そうでなければいけないと、直感でわかった。
「……どうしたんだ?」
「あの、急に、ほんっとうに急にだけど……。今もたついてたら、あっという間に他の人が来ちゃうだろうから、いま、渡すね……」
どこかぶっきらぼうな調子で、彼女は俺にルーズリーフを手渡す。震える手と手が触れあって、美奈川の体温が俺のにも感じられた。
――これは、どういう。
女子の手に触れたこと、その相手が美奈川真昼だということに、思考がスパークしかける。
「ひとりのとき、よんで……」
それだけ消え入りそうに言い残すと、美奈川はたたっと廊下へ走り去ってしまった。顔を赤らめていたのは俺の気のせいではない。
なんだったんだろう、夢かなと半分本気で思いながら、渡されたルーズリーフを広げて読んでみれば。
『好きです。付き合ってください』
一人の女の子が勇気を出して頑張って書いたであろう告白の文が、簡潔に記されていた。
――それから高校二年生の夏に至るまで、俺、西条悠と美奈川真昼は恋人同士として付き合いをしている。
「
俺がムック本に夢中になっているのを見て、真昼がかすかな微笑みを浮かべている。
教室には冷房が入っており、暑い夏も快適に過ごすことができる。今は昼休み。クラスの半分ほどが出払っている。
俺は真昼と同じ机で、昼食後の時間を近隣地域の美味しいラーメン屋が特集されたムックを読みふけっていた。真昼はそんな俺を眺めているのが楽しいらしく、水筒の麦茶を飲みながらいつもニコニコしている。
大体俺が何かに集中している時、真昼は笑顔だ。なんだか遊ぶ孫と微笑ましく見守るおばあちゃんの構図のような気がしないでもないが、花のように笑う真昼は可愛いので問題ナシということにしておく。
「時に真昼。そろそろ夏休みなわけだが」
ムック本を一旦閉じて、俺は伸びをして真昼の顔を見る。最初は恋人と目を合わせるのも緊張していたものだが、一年近い付き合いですっかり近い距離でのやり取りにも慣れた。
「どこか行く? 忙しいならどこかで飯でも食いにいかないか?」
真昼は夏の予定として、進学塾の夏季講習に加えピアノや英会話、水泳などの各種習い事のレッスンがぎっちり詰まっている。
休み前の今だってそれなりにハードスケジュールのようだが、習い事はすべて真昼自身の希望で通っていることもあり、真昼は軽やかにこなしていた。結構タフガールなのだ。
ただ二人で会える時間があまりないのは、少しだけ残念だった。実は近いうちに真昼と同じ塾に入ろうとは考えていて、こっそり入塾テスト対策をしていたりはしている。
真昼が進んでやっている習い事だし、そこは俺も恋人として応援している。要はいくら真昼が忙しくても真昼が無理せず楽しければいい話なのだが、どうしても俺とするとデートする暇も欲しいと思うわけで。
家族の紹介を兼ねて互いの家に行ったことはある。放課後ちょっとだけカフェに寄るとかも、したといえばした。
だけどもっとこう、デートっぽいことというか、でも羽目は外さないようなことが真昼としたいというか。
真昼が手帳をパラパラめくって予定を確かめる。ちょっと首をかしげた後に、ほわっと微笑んだ。
「あ、お昼か夕ご飯だったら、空いてる時結構あるよ」
「マジ!」
最悪夏休み中リアルで会えないことも想定していた俺は、頭の中でガッツポーズを決めた。実際付き合いたての年末年始は、クリスマスデートも一緒に初詣もしていない。プレゼント交換はした。
「何か食べたいものとかあるか? 俺が良い店探しとくよ」
すると真昼は数秒ほど思案したのちに。
「海の水が、飲みたいかな」
と夏風のように爽やかな声で答えた。
「うみの、みず……? 海水ってこと?」
このあたりは海から距離がある。丸一日時間がないと海まで出かけるのは難しいだろう。それとも俺があらかじめ海に行って、海水をペットボトルにでも詰めておけばいいだろうか。
困惑していると、真昼が申し訳なさげな顔になった。
「あ、難しいこと言ってごめんね。その、海の水ってただしょっぱい塩の味だけじゃないと思うの。なんていうか、コクがあってなんとなく甘いというか……。わたしもそんなに海に行ったことはないんだけど、海水の味だけははっきり覚えてるんだ。独特なんだよね、海の味って」
それは俺も肯定できることなので、大きく頷いて答えた。
「ああ、それはわかる。俺も小さい頃良く飲んだ」
「へ? そうなの?」
「というか、溺れかけて散々飲んだ」
「あはは、それは今無事で何よりだよ」
「なんか、海ってたーくさん生き物が住んでるじゃんか。だからあんなにいい味なのかとは、俺も思った」
「うん……。そうだよね。けどご飯に行くのに、海の水なんて馬鹿なこと言ってほんとゴメン。ぶっとんでるよね……」
と。俺は頭の中の思い出からある記憶を引っ張り出した。
ある飲食店の思い出だ。よく親に連れて行ってもらった、あのラーメン屋。
「いや、本物の海水は無理だけど……、似たようなものなら俺は知ってる」
「え?」
目をぱちくりとする真昼に俺はあえて淡々と話す。
「俺が昔から知ってる店。ラーメン屋だからさらに良いかと思って」
初のランチデートには、いささか向かないかもしれない。もっとおしゃれなカフェにでも誘ったほうが無難ではあるし、おしゃれな場所にいる真昼はきっといつも以上に美人に見えるだろう、なんてのは置いておいて。
「え、ラーメンは好きだけど。それで何かいいことって? 今本読んでたから?」
俺は真昼の耳元にさっと顔を近づけ、囁くように言った。俺たちの距離が縮まったことで教室中から視線が集まるが、今だけ許して欲しい。
「俺に告白してくれた日、ラーメンの話したろ? 文化祭限定のチャーシュー麺」
「あ……」
真昼の唇からほう、と吐息が漏れた。
結果真昼は真っ赤っかになってしまい、俺は教室でいちゃいちゃしすぎだと男友達一同に叱られた。一人一本ずつ缶ジュースをおごらされた挙げ句に「いろいろごちそうさま」と言われたのだった。
そして迎えた夏休み。俺たちの初ランチデート当日。
俺は塾帰りの真昼と合流するために、俺の自宅の最寄り駅前まで来ていた。
夏休みだけあって、昼から人が多い。
待ち合わせ時間のぴったり五分前に、私服姿の真昼が現れた。
夏らしい淡いグリーンのサマードレスに身を包み、長い黒髪をポニーテールに束ねている。いつもの制服姿とは違う魅力だ。
俺の姿を認めると、真昼は手を振って満面の笑みで駆け寄ってきた。今日も可愛いな。
「……かわいい」
「えへ、ありがと」
俺は彼女とゆるく手をつなぎ、目当ての店へと向かった。
目当てのラーメン屋は、少し駅前の通りから外れた場所にある。とはいえ店の周りは日当たりがよく明るいので治安のほうはまったく心配ない。
「ここだ」
こぢんまりとした佇まいのラーメン屋だ。トタン造りの建物に、ぴかぴかに磨かれた引き戸のガラス。店前には「冷やし中華始めました」とポップな色使いののぼり旗が立っている。
「はあ~。わたし、こういうラーメン専門のお店って初めてかも」
「じゃ、今日が記念すべき初めての日にしよう」
そう言って中に入ると、カウンターの奥から「いらっしゃい」と老夫婦が挨拶してくれる。ラーメン屋というよりは駄菓子屋のようなノスタルジックさを漂わす店内は、ラーメンのいい匂いが充満している。
二人でカウンター席に着くと、奥さんのほうが俺たちにお冷やを出してくれる。
それから愛嬌ある笑顔で俺と真昼を交互に見た。
「いらっしゃい、悠くん。久しぶりだねえ。こちらは彼女さんかい?」
彼女さんと呼ばれて口をぱくぱくさせる真昼の代わりに、俺は奥さんに注文を入れた。
「そう。俺と彼女に、
「塩ラーメン?」
真昼が不思議そうに言った。俺はメニュー表の「夏季限定・潮ラーメン」を指さす。
「潮水の、潮かあ……」
「そう。海をイメージしたラーメン。といっても具にチャーシューとか玉子とかも乗ってたりするんだけど」
夢中になって説明していると、真昼がくすっと笑った。
「どうした?」
「ん。こういう、夢中になってる時の悠くん好きだよ? 好きになるきっかけも、文化祭の準備に一生懸命なところだったし」
「なっ」
不意打ちで好きになった理由を言われ、俺は心臓が跳ねた。確かにあの時は一生懸命やったつもりだったけど、真昼の好意の理由にもなっていたとは。
「ここでそれをいうのは、ずるいだろう……」
「いいじゃない別に。ずるくないずるくなーい」
涼しい顔でお冷やを飲む真昼の横で、俺が照れ隠しを必死にしていると、目当ての「潮ラーメン」が運ばれてきた。
黄金色に澄んだスープからは、カツオや昆布といった魚介の出汁の匂いが湯気と一緒にほわほわ漂っている。
麺は細麺。具にわかめとチャーシュー、玉子に刻みネギが乗せられている。海の家ででも出てきそうな雰囲気のラーメンだ。
興味深そうにラーメンを見つめていた真昼が、小さく声を上げた。
「このラーメン、海の匂いがする!」
実際出汁の香りに混じって、そんな匂いも立ち上っている。
「そう、だから潮ラーメンだ」
「潮の匂いは秘伝なんだけどねえ」
俺と奥さんとで、にかっと笑いながら答える。そしてのびてしまう前にと、いただきますと手を合わせてラーメンを食べ始めた。
しっかりとコクがあって甘みも感じるスープだ。これは「塩」ではなく「潮」ラーメンとして売り出して正解だろう。そこに細麺が絶妙に合っている。幼い頃興味本位で頼んでから、ずっとお気に入りの一品だ。
真昼も集中してラーメンを食べ進めている。前に食べた時よりスープの甘みが増しているような感覚がした。恋人と一緒に食べているせいだろうか。
海の匂いのラーメンは、あっという間に平らげてしまった。スープ一滴残さずに。
「ふう……食べちゃった」
真昼は空のどんぶりを、名残惜しそうに凝視している。
「美味しかったか? 海の味、したか?」
「うん、とっても!」
俺の問いに、真昼は笑顔で答える。そして。
「な……、また空いてる時に、二人で何か食べに行こうか」
俺は何気ない調子を装って言った。多忙な真昼の負担にはなりたくなかったからだ。
けどもっと、たくさんの場所に二人で行きたかった。せめてこの夏の間でも。
だけど真昼は少し驚いたように口を小さく開けて。
「うん、どこにだって行くよ!」と嬉しそうに答えてくれた。
「いつか、本当の海にも行こうな」
――塩味だけどほんのり甘い、海の水まで。
俺の、俺たちの夏休みは、まだ始まったばかりだ。
塩味なのに甘いスープ 七草かなえ @nanakusakanae
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