脳内の食卓を囲む人々
1か月経つ頃には生活にも慣れた。使用人は基本的には親切に気を配ってくれるし、少しくらいなら話し相手になってくれる人もいる。1日中、庭をぐるぐる歩き回っていた時には『目が回りませんか?』と気遣ってくれるくらいには話す。
何しろ、朝夕に6基の塔に上り、森を歩き回る生活をしていたので、狭い家と庭だけでは体力が有り余ってしまう。
最近の私は、動きやすい服で部屋の中で体操をする事に熱中している。暇と体力を持て余す私を気の毒に思った使用人の一人が、ジリアムの許可を得て体操を教えてくれるようになった。
かなり年配のその女性は、昔、曲芸師を目指していたという。狭い所でも出来る体操を教えてくれるのだ。
最初は腕力を鍛える方法を教えてくれて、次第に壁をよじ登る、高い所から体を痛めずに降りる、と難しい技に進んで行く。私は森で木登りをしていたので筋が良いらしい。
「いざという時の為に覚えておいて下さい」
使用人はこっそり教えてくれる。人生、いついかなる時に必要になるか分からない。こういう事が出来ると、例えば外の塀くらいの高さの壁も、突起さえあればよじ登れるようになるそうだ。あの辺りの突起が特に掴みやすい、と具体的に教えてくれる。試せないのが残念だ。
何より森にいる時に知っていたら、もっと早く小屋の屋根を直せた気がする。
「男性は、淑女らしい振る舞いが好きですからね」
ジリアムには、ここまで出来る事は秘密にしておくよう忠告してくれる。
とはいえ、ジリアムがどんな体操に熱中しているのか知りたがるので、ここ数日は、逆立ちで歩く練習をしている。こういう派手な技は見ている人が喜ぶと使用人が教えてくれた。
(ねえ、オズロ。私、曲芸師になれると思わない?)
困るのは、森の相棒に話し掛ける癖がついてしまったこと。心の中のオズロと話をする時間はそれなりに長い。今までは両親と兄だけだった。最近の私の頭の中では、両親と兄とオズロは仲良く食卓を囲むまでになった。
(妄想と現実の区別が付かなくなったらまずいわね)
でも、妄想の中で暮らすのも幸せかもしれない。
ジリアムが来たと使用人が声を掛けてくれる。私は着替えてジリアムが待つ書庫がある部屋に行く。新しい本を持って来てくれたという。
「これが、この前の続きだ」
隣国の歴史の残り3冊を持って来てくれた。
「この人って宰相になる? 失脚する?」
私が聞くと苦笑する。
「俺が言ったらつまらないだろう」
「そうね」
時間はたっぷりある。ジリアムの顔を見るのは楽しくないけど、私に触れる事が無くなったので不快感は減った。
ある時ジリアムが、抱きしめられた私の肌が粟立っている事に気付いてしまった。彼が真っ赤な顔をして怒鳴った時には殴られるかと思ってかなり緊張した。でも幸いな事に、廊下で使用人がお茶をひっくり返して茶器を割ってしまい、騒ぎになったおかげで彼の気が逸れた。
その後は、たまに触れたそうにする事はあるけれど、触れて来なくなった。
ジリアムはほぼ毎日、夜に来て一緒に夕食を取り、数時間、私と話をしてから帰る。城にいて婚約していた時よりもずっと話す時間が増えたけど、彼に興味が無くなった今となっては、歴史書の彼が宰相になれるかどうかの方が気になる。
(話し相手って、口がきければ誰でも良いわけじゃないのね)
ジリアムは話し相手としては面白い人ではなかった。私が何かを言うと、ぽかんとした顔で黙ってしまったり、意見を求めても本に書いてあるような事しか言わない。
でも話が尽きると、私に触れたそうにするのがとても嫌だ。また鳥肌をたてて機嫌を損ねるのも面倒なので、何とかジリアムが好みそうな話題を一生懸命探す。今のところ、ジリアムが持っている素敵な懐中時計の事を聞いてあげると、ご機嫌に帰ってくれる事が分かっている。
彼は代々受け継いでいる数個の懐中時計を大切にしている。全ての懐中時計について話し尽くす前に、新しい話題を思いつかなければならない。
(オズロと話すのは楽しかったな)
そういう時はジリアムが帰った後に、脳内で両親と兄とオズロに食卓に集まってもらって、今度は私が楽しいと思う話をする。
死ぬまでこの生活が続くのかと思うと悲しくなる事もあるけれど、城にいた頃と変わらないと自分に言い聞かせる。
夢の中で会う両親と兄は、まだ私を彼らの所に連れて行く事は出来ないと言う。どんなにお願いしても、駄目だと言う。
◇
夏も真っ盛りで、窓を開けていると虫の声が大きく聞こえる。この家は街の中にあるからなのか、城よりも風が通りにくくて暑い気がする。
今日は朝から逆立ちの練習に熱中し過ぎて、少し手のひらが痛い。
(大きなたらいに水を張って、水遊びをしようかな)
使用人を呼ぶ鈴を鳴らした。
森の泉が懐かしい。冷たい水に足を浸けていると、魔獣ではない小さな魚たちがさわさわと足に触れて通り過ぎる。あのくすぐったさを感じないと、夏を迎えた実感が湧かない。
(オズロは、あの感触が嫌だって泉に足を浸けなかったな)
オズロの事を考えたからか、彼に渡したお守りの魔力を感じたような気がして、ますます懐かしくなる。ここで暮らしていると、魔獣のように魔力を発する生き物が少ないので感覚が鈍るような気がする。
使用人が来ない。手がふさがっているのだろう。自分で庭のたらいに水を張ろうと思って部屋の扉に手をかけた。
やっぱり、オズロのお守りの魔力を感じる気がする。
扉を開くと、誰かが私に抱きついてきた。お守りの魔力を近くに感じる。
「オズロ?」
抱きついて来た人はオズロよりも小柄で、覚えがあるすっきりした香りがする。
「ユリア! ユリアね!」
「リリイナ! やっと会えた!」
抱きつかれたまま、ユリアの後ろの人影を見上げると。
「オズロ!」
瞳をうるませたその姿は、脳内にいるオズロよりも少し疲れて見えた。
そのまま時が止まる。会いたかった、会いたかった、誰よりも会いたかった人。
ユリアの力が強くなり、我に返った私はぎゅっとユリアを抱きしめた。辛い事なんて無かったはずなのに、なぜか涙が出て来る。
「遅くなってごめんなさい。探すのに時間がかかったの。良かった。無事で本当に良かった」
ユリアは涙声になっている。色々な感情が溢れて来て何も言葉が出ない。代わりに涙だけが溢れ出て来る。
「一つだけ確認しておきたい」
ユリアに抱きつかれたままの私に、オズロが真剣な顔で問いかける。
「君はここにいたいか。ここで、ジリアムと一緒にいたいと思うか?」
「ジリアムと一緒にいたくない」
即答すると、オズロが少し目元を緩ませて頷いた。ユリアに配慮するのを忘れてしまった、そう思ったけれどユリアは気にしていないようだった。
「時間がないの。取り敢えず、ここを出るわよ」
手を引かれて家を出る途中で、何人かの使用人が長椅子に寝ているのが見えた。思わずユリアの顔を見ると、得意気な顔をする。
「大丈夫。少しだけ休んでもらってるの。痛くしてないわよ、こういうの得意なんだから」
使用人には、本当にお世話になった。心の中でお詫びとお別れを告げる。
門を警備していた使用人も、壁に寄り掛かって座っていた。誰にも咎められる事なく外に出て、少し離れた所に停めてある馬車に乗った。すぐに馬車が走り出す。オズロとユリアが小声で何かを相談している。
街を出て少し走った所の木立で馬車が止まる。そこには男が待っていて、オズロに荷物と3頭の馬を引き渡した。代わりに男は馬車に乗って去る。
「こっちに来て」
ユリアが小さめの荷物を受け取って私を木陰に引っ張って行く。そこで、服を渡されて着替えをする。着替えながら、ユリアが私の健康状態について色々と質問する。
「旅人みたい!」
「そう、私たちは今から旅人よ」
言われてみると、ユリアもオズロも旅人みたいな服装をしている。
着替えると馬に乗り、馬車が向かった方向とは違う道を進む。
「暗くなる前に着きたい。悪いが急ぐぞ」
乗馬は得意だ。久しぶりだったけど馬の気性も穏やかで扱いやすい。二人に遅れずに付いて行くことが出来た。
途中で休憩しながら半日駆けて、大きな街に着く。門番にユリアが何かの紙を見せながら話しかけて、私たちは街の中に入ることが出来た。
1軒の宿屋に入り、部屋の中に入った所でユリアが大きく息をついた。
「ここまでたどり着けたら大丈夫なはずだけど」
質問はたくさんある。でも何から聞けばいいか分からなくて、私はひとまずユリアにぎゅっと抱き着いた。安心すると分かる。私はずっと怖かったのだ。
「連れ出してくれてありがとう」
涙が出てきそうになるのを我慢する。
ジリアムの気分一つで、もっと暗く狭い牢獄のような所に閉じ込められてもおかしくなかった。命を落としても誰に気づかれる事もない、薄氷の上を歩くような生活だった。考えると気持ちが折れそうだったから、大した事じゃない、一生懸命に自分に言い聞かせていた。
「まさかお兄様が、あそこまでするとは思わなかったの。本当にごめんなさい。リリイナはもう、あの男とは二度と関わってはいけない。私が関わらせない。それは安心して」
ユリアは抱きつく私を離すと、私の両頬を押さえてほほ笑んだ。
「詳しい事はハインクライス子爵に聞いて。私は他にする事があるから、ちょっと外に出て来るわ」
もう一度、私をぎゅっと抱きしめてから、ユリアは部屋を出て行った。
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