幕間:通りすがりの旅人のように
声を上げて笑った記憶はほとんど無い。王家の子供たちは物心付いた頃から本心を表に出さないように躾けられる。
とはいえ、すぐ上の兄は『人形じゃないから、そんなの無理だ』と平気で感情を露わにするので政治の世界へは進まず学者になった。もっと上の兄は完璧に表情を制御し『笑顔』だけで数十種類を使い分けて、宮廷の中枢で魔物のような力を振るっている。
とはいえ本心を抑え込む事が不健全だという事は、皆が心の底では分かっているのだろう。兄弟姉妹達が自ら選ぶ配偶者は皆、感情表現が豊かな人ばかりだ。
(そういう意味でもアイラは、大仰に愛を訴えるジリアム・グーデルトに惹かれてしまったのかもしれないな)
しかしまさか、自分も同じように感情表現が豊かな人に惹かれる事になるとは思っていなかった。
リリイナから『対等な立場』を要求された時には、強かに自らが有利になる条件交渉でもしてくるのかと思ったが、彼女はただ身分を忘れ、取り繕わずに素のままに振る舞う事を『対等な立場』と表現しているようだった。
感情を殺して命令に従う事を強要されて来たのだろう。自由に素の感情を表す事にすら相手の許可を得ようとうする姿は痛々しかった。屑の婚約者から解放してやりたいという気持ちは更に強まった。
そこに違う感情が混ざり始めたのは、いつ頃からだろう。俺自身、彼女といる事が楽しいと思い始めていた。俺が描いた魔獣の絵にリリイナが物語を書き、あれこれ言い合うのは楽しかった。兄弟以外の他人とあんな風に無邪気に時間を共有したのは初めてかもしれない。
森で植物を採取している時にも予想外の楽しみを貰う事が多い。あれはイタチのような魔獣を観察している時だった。
『兄ちゃん、兄ちゃん。あの木の実は苦かったよ』
『お前、まだ子供だな。兄ちゃんくらいになると、あの苦みをたまらなく美味しく感じるんだ』
『すごいや兄ちゃん、大人だな』
リリイナが隣で妙な声色を使って話し始めた。彼女は魔力が強い。魔獣の気配を察知することが出来るくらいだ。魔獣の感情も読み取れるのかと感心していると、衝撃的な事を告げられた。
「魔獣の感情なんて分かるはずないじゃない」
どうやら、完全に彼女の想像の話だったようだ。何でそんな事をと驚くと『そう思って観察した方が楽しいでしょう』と笑顔で妄想の会話を続けた。
不思議な事に彼女の妄想を聞いていると、本当にもう魔獣の兄弟にしか見えなくなってきた。その兄弟の会話は愉快で俺は思わず笑いそうになってしまう。
すると敏感にそれを察知した彼女は、してやったり、という得意げな顔をする。
リリイナは俺が笑いそうになるといつも『勝った』という顔を見せる。俺は悔しくなって、もう絶対に笑うものかと心に誓う。しかし数時間も経たないうちにすぐ笑わされてしまう。
翌日を楽しみにして眠る生活など想像した事も無かった。しかもジリアム・グーデルトが存在している地で憎しみの感情以外を持って生活するなんて、あり得ない事だと思っていた。
リリイナに惹かれている。
この気持ちを認めるのは難しかった。彼女には婚約者がいて、しかもそれはジリアム・グーデルトだ。そして彼女はこの屑を愛している。婚約者のいる女性に心を寄せる。そんな浅ましい真似を自分がする事になるなんて。
ジリアム・グーデルトの行状を彼女に伝えてもただ傷つけるだけだという事には早いうちに気が付いていた。彼女の事情が明らかになるにつれ、彼女には他に選択肢が無いのだと分かった。他の道を選べないなら、相手を憎むよりも愛せた方が幸せだろう。
俺には何も出来ない。それでも、彼女が傷つくのを見るのは苦しい。
彼女が実家に図鑑を取りに行った日、明らかに彼女の様子はおかしく、怪我までしているようだった。リリイナの義姉とジリアム・グーデルトが情を通じている事は最初に調べた時に分かっていた。恐らくそれにまつわる何かがあったのだと思う。
誰か人をやって図鑑を取りに行かせると思っていた。まさか彼女自身が行くとは思わなかった。配慮が足りなかった事を悔やむがもう遅い。
(彼女は婚約者の不貞を知ってしまったのだろうか)
どれほど傷ついた事だろう。心配する俺に彼女は現実を突きつけた。
「だって、あなたはいなくなるじゃない。調査が終わったら王都に帰ってしまうのに」
彼女にとって俺は、通りすがりの旅人に過ぎない。無責任に優しくされる事は傷を深めるだけだと拒絶された。
俺は無力さに打ちひしがれる。
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