思い切り泣ける場所
とぼとぼと、ゴドブゥールの森に向かった。墓参りをして図鑑を借りて来るという目的は果たしたけれど心は石を詰めたように重い。興奮が少し冷めると涙があふれて止まらなくなった。
「すごく腕が痛い」
見ると袖が割けて血が流れていた。思ったよりも傷が深い。私は小屋に向かう事にした。あそこには怪我に備えて簡単な治療の道具が置いてある。
切れた傷も砂糖壺が当たった所も、ひどく痛む。私は本を落とさないように気を付けて痛くない方の腕を使って小屋の重い扉を開けた。
ここ数日は小屋を訪れていなかった。秋なのに中に籠った熱気が私を包む。本をテーブルに置き、まず最初に窓を開けた。風が流れ込み小屋の中の花の香りと混ざって少しだけ私の心を軽くする。
(お茶でも飲もう)
自分を奮い立たせて外の井戸で水を汲む。腕がとても痛い。
とっておきのお茶を取り出した。オズロがここで飲む為に持ってきたものだけど頂いてしまおうと思う。魔道具を使って火を起こしてお湯を沸かす。
(ごめんなさい。頂きます)
濃いめに淹れて香りを楽しむ。でもオズロが淹れたお茶の方が美味しい。今はオズロが描いた魔獣ギード猫やその他の絵を見たり、くだらない話がしたい。
このまま身動きしたくない。でも腕から流れる血が止まらない。服も汚れてしまった。私は仕方なく立ち上がって腕の手当を始めた。どうせ誰も来ないからと服を脱いで下着姿になる。
本を抱えていた為、肘の少し下に深めの切り傷が出来ていた。薬草を貼って清潔な布を巻く。片腕で巻くのは難しく少し不格好になってしまったけど、服を着れば目立たないだろう。砂糖壺が当たった所は赤く腫れあがってしまっている。手当が面倒だ。今はこのままにしておくことにする。
(夏じゃなくて良かった)
秋に入って気温は下がっている。薄手とはいえ長袖の季節なのが救いだ。
服についた血液の染みがなかなか取れない。膝に広がったお茶の染みも同じように取れない。今日は義姉の所に行ったのでいつも森で過ごすような洗いやすい素材ではない。私は諦めて湿ったままの服に袖を通した。
義姉が私を憎む恐ろしい顔、耳に残る金切り声、何度も香った記憶のある香水の香り。
私は頭から振り払う。あまり戻りが遅いとお義母様が気にするかもしれない。私は重い腰を上げた。
「これでいいかな」
棚から、こういう時のために保管しておいた小さめの魔獣鹿の角を取り出す。今日の収穫として渡せば機嫌が良くなって細かい事を追及されないだろう。
城に戻ってのろのろと着替え、お義母様の所に報告に行くと、予想通り魔獣鹿の角に夢中になってくれて何も聞かれなかった。本当は今日はもう何もしたくない。少し迷ったけれどオズロに図鑑を渡しに行く事にした。少しだけ、ほんの少しだけ森の相棒と話をしたいと思った
「リリイナ、戻っていたのか」
途中で執務中のジリアムに会った。私が抱える図鑑を見てほほ笑む。
「無事に図鑑が見つかったみたいだね。⋯⋯お義姉さんはお変わり無かったかな」
「はい、元気そうでした」
ジリアムは、ほっと息をついた。
「舞踏会の時も夏祭りの時もご挨拶出来なかったから気になっていたんだ」
香水の香りが頭をよぎる。幼いながらに領主として頑張る甥ではなく、義姉の事を気にするのか。
余計な考えを頭から追い払う。
「では、私は図鑑を届けに行ってきますね」
何か言いたそうなジリアムに背を向けてオズロの家に向かった。
◇
持ってきた図鑑を渡すと、思った以上に喜んでくれた。
「これは王都では見たことが無い。知らなかったな」
熱心に目を通している。今日は40冊あるうちの3冊だけ持って来た。確認したところ、この領内の本屋で手に入りそうだった。ぜひ欲しいとの事だったので購入の手配をする約束をした。
「あの、森の小屋にあなたが持ち込んだお茶を頂いてしまいました。申し訳ありません。今度、同じとは参りませんけどお返しします」
勝手に飲んでしまったことを詫びる。見たことが無い銘柄だったので王都でしか手に入らない物かもしれない。この領内で手に入る美味しいお茶でお返ししようと思う。
「いや、それは気にしないでくれ。特にこだわっている物ではないし、ここにはまだたくさんあるから」
オズロは何か気になるのか、私を観察するような視線を向けてくる。今日は触れて欲しくない事が多いので、さっさと退散する事にした。
「ありがとうございます。⋯⋯では図鑑の手配はしておきます。今日はこれで失礼します」
背を向けて扉に向かったところで、後ろから声がかかる。
「腕を、どうかしたのか?」
なぜ分かったのか、思わず振り向いてしまう。とっさに理由を言えず目が泳いでしまう。城に戻った時に使用人に丁寧に布を巻いてもらったので、服の上からは分からないはずなのに。
「どうして⋯⋯」
オズロの目元が少し険しくなる。
「本の持ち方が不自然だったから」
私は深呼吸をした。言い訳はちゃんと思いついた。
「ぼんやりしていて、森で転んで怪我をしてしまいました。みっともないので隠していたのですが分かってしまいましたか」
へへ、と笑ってみる。オズロの目元はまだ険しい。
「怪我をして、落ち着くために小屋でお茶を飲んだと」
「小屋には怪我の手当をする道具がありますから」
「涙を流して泣くほど、痛い思いをする怪我だったと」
私はあわてて目元を手で確認する。着替えるときに顔を洗った。涙の痕跡はなかったはずだ。
オズロが大きく息をついた。
「分かりやすいな。大丈夫だ、涙の跡は残っていない。様子がおかしいから、泣くほどの事があったんじゃないか。君の実家で何かがあったんじゃないか、そう思っただけだ」
「ひっかけたのね!」
悔しさで顔が熱くなる。
(悔しい?)
違う、ジリアムも気づかない私の様子に気づいてくれた事が嬉しいのかもしれない。
義姉の私を憎む顔、投げつけられたお茶、香水の香り、怪我を負い汚れた服で森を歩くみじめさ、義姉を気にするジリアム、一気に頭に浮かんできて、また涙があふれてくる。
「何があったんだ?」
見上げたオズロの目には私を心配する色が見える。
(だめ、だめ、だめ。絶対に泣いちゃ駄目)
私は必死に涙がこぼれないように目元に力を入れる。
「何も、ありません」
「リリイナ」
背中を向けて扉に向かうと、痛くない方の腕を掴まれた。
「リリイナ、何があった?」
涙は目からあふれてこぼれてしまっている。
「心配したり、優しくしたりしないで下さい。あなたが舞踏会の日の嫌な人のままだったら良かったのに」
腕を掴む力が強くなる。涙が止まらない。せめて嗚咽が出ないようにお腹に力を入れる。
「何で、そんな事を言う」
「だって、あなたはいなくなるじゃない。調査が終わったら王都に帰ってしまうのに」
腕の力が緩んだ。私は思い切り腕を振り払うと、振り返らないまま扉を開けて外に出た。
そのまま塔に駆ける。一番上の灯りまで登り壁を背にして座り込んだ。そのまま思い切り声を上げて泣いた。
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