旦那様は、貧乏学者?? ~男女間違えて転移させられたようです~

翠雨

第1話 夜のランニング

 テレビから、楽しげな声で騒ぎ立てる芸人の声が聞こえてくる。少し目を離したうちに話題が変わっていたようだ。

 楽しげな掛け合いに目を奪われて、テレビに見入ってしまいそうになる。気合いをいれてリモコンの電源ボタンを押すと、スマホをウエストポーチにしまう。そのままの勢いでランニングシューズを履き、玄関を抜けた。

 以前ランニングに挑戦しようと買っておいた靴に、真新しいスポーツウェアという出で立ちの倉本遥菜くらもとはるなは夜の町に歩を進めた。




 綺麗なままの靴に、苦いものがよみがえる。彼氏と付き合い始めたばかりの頃に買ったものだ。彼のためにも少しでも綺麗でいようと思ったのだが、ほとんど走ることはなかった。

 その彼とも少し前に別れた。

 別れる少し前から予兆はあった。会う回数が減っていき、連絡も来なくなっていたのだ。

 別れを告げられたその日は、悲しかった。それも一日だけのことだ。もう良い大人なのだから、社会人として、プライベートを仕事に持ち込むわけにはいかない。次の日にはいつもと変わらぬ様子で出社するしかなかった。

 連絡が減ってきたときに、彼を繋ぎ止める努力をしなかった。遥菜の気持ちも彼から遠ざかっていたのだろう。


 別れて十日位経った頃だろうか。同僚の早苗が元カレと後輩が二人で親密そうに歩いているところを目撃している。

 仕事に没頭することで悲しみを紛らせていた遥菜は、悲しみよりも怒りと諦めが勝ってしまった。


 結局、彼は、私のような女よりも、小柄で可愛らしい少女のような女性が好みだったのよ。


 綺麗と言われたことがあるが、可愛いとは言われた記憶のない自分の容姿を考える。身長も女性としては高いほうだ。派手めな顔つきとスレンダーな体型も相まって、きつめの印象を持たれるらしい。彼の好みに合わせようと服装にだって気を使ったし、彼の身長を越すことがないように靴にも気を付けていたのだが……。

 彼との時間が減り、持て余した時間で料理教室に通い始めた。習った料理を何度も作り直すような真面目な生徒ではなかったが、いくつかの発見と好みのレシピを手に入れることができた。

 彼と別れてしまっては、無駄な努力だった気もするが、今では自分磨きだと思っている。

 次の出会いがあればいいが、実はあまり期待していない。

 彼と別れてからも通っているのは、一人で生きていくことになったとしても役に立つと思ったからだ。




「はぁ~」

 大きなため息が、まだ熱を持った夜風に飛ばされていった。


 少し気合いを入れ、小走りになる。人通りの少なくなった路地を近所の公園に向かって進む。

 街灯と家から漏れる光で十分明るく、走る分には問題はないが、その暖かい光から目を逸らして星の少ない夜空を見上げた。




 独り暮らしの我が家ではテレビとスマホが話し相手で、遠方の実家には忙しいことを言い訳に久しく帰っていない。『便りがないのは元気な証拠』主義の親とは、しばらく連絡も取っていなかった。

 連絡くらいは、した方がいいかな。

 遠方にある実家に土日の二日間で帰るのは、正直厳しい。

 しばらくは、忙しいという理由で帰省を延期する予感しかしなかった。

 新商品企画のプロジェクトメンバーに選ばれたのだ。入社四年目の遥菜が、社運を賭けた新しいダイエット食品のプロジェクトに参加できるなんて、大抜擢だった。

 仕事は、真面目に頑張っている。それが功を奏したのかもしれない。大学で栄養学を学んだということも関係しているかもしれない。

 選ばれたことは嬉しかった。寂しさを紛らせるには、忙しいくらいがちょうど良い。




 近くの公園には、同じようにランニングやウォーキングをする人がチラホラ見受けられた。皆、それぞれのペースで遊歩道を進んでいる。

 遥菜は安心して自分のペースで走り始めた。

 普段から走り慣れていそうな出で立ちのランナーが、ものすごいスピードで遥菜を抜かしていく。遥菜も散歩の中年女性を抜かして、清々しい気持ちで走り続ける。




 昼休み、ご飯を買いにコンビニに行こうと席を立つと、同僚の早苗が、いつも通り隣で噂話を始めた。

「ねぇ~、遥菜のプロジェクトに上地先輩もいるらしいよ。上地先輩、超イケメンじゃん。でも、あの歳でフリーらしいよ。先輩のお眼鏡に叶う女性が、なかなかいないらしくてね~、なんたって、しっかりしている女性が好みなんだって~。私は、絶対に無理~。付き合っても、気を張り過ぎて上手くいかないやつ~? 遥菜だったら、ぴったりなんじゃない?? だって、遥菜、しっかりしてるし~。料理教室だって行き始めたんでしょ~。」

 どこで情報を仕入れてくるのか判らないが、色恋の噂にとにかく詳しい。他にも噂好きの女性社員はいるので、ネットワークがあるのだろうと思っている。

 いつもならコンビニに向かいながらイケメン探しに余念がないが、今日は私の恋路を心配してくれるようだ。

 大きなお世話という気もするが、遥菜だって色恋の噂が嫌いではない。彼女の情報は多岐にわたり、いつも楽しませてもらっているのだ。

 たまにであれば自分をネタにされたとしても、笑って誤魔化した。

「しっかりしているってものそうだけど、見た目は綺麗な人が好きらしいよ。アプローチしてみなよ~」

 上地先輩がイケメンなのは知っている。見たことだってある。ただ、話したこともない人に、恋心が抱けるかと言われれば否である。

「まだ、新しい恋は早いよ~。この前ので、懲り懲りだって」

 早苗からもたらされた色々な情報を整理すれば、元カレは私と付き合っているときから、後輩にアプローチしていたらしいのだから。

「え~! でも、プロジェクトは長いんだし、遥菜の気持ちが変わるかもしれないよね~。上地先輩に癒してもらいなよぉ。それに、上地先輩の方が惚れるって可能性もあるんだしね」

 「上地先輩の方が惚れる」の言葉に、そんな未来を想像してしまい、頬が緩みそうになった。

 欠伸が出たように装って、慌てて引き締める。噂好きの早苗にだけは、バレる訳にはいかなかった。

「まぁ、なるようにしかならないよ」

 そうは言ったものの、淡い期待をしてしまい、ランニングに繰り出したところだ。

 ただし、心の中では健康作りだと言い聞かせていた。




 走れると思っていた距離の半分ほど走ったところで、どっと疲れが襲ってきた。息が上がって辛く、歩き始める。

 吹き抜けていく生暖かい風が、体力のない私を嘲笑っているようだ。

 夜風に吹かれた木々がワサワサと音を立てる。


 はぁ、やっぱり年取ったなぁ~。

 学生時代は運動部で、それなりに走れたはずなのに。


 ランニングを続けていけば、体力がついてくるのはわかっているが、想像以上の体力のなさに愕然としてしまった。これでは、体力がついて引き締まるまでに、かなりの期間かかってしまう。

 新しい恋に向かうには、まだ時間がかかりそうだ。


 やっぱり、これは健康作りね。


 それならそれで、悪くないかもしれない。

 結婚や子供に憧れる気持ちはあるが、結婚だけが女の幸せとは言いきれない時代だ。

 そこらの男より男らしく、一人で生きるもの悪くはないんじゃないか。

 お金も時間も、自分だけのために使える。

 同じように結婚しない選択をした友達と旅行をしたり、結婚した友達の子供を我が子のように可愛がる。


 そんな未来も楽しいのではと思い始めたとき、犬をつれた男性とすれ違った。

 トイプードルだろうか。アーモンド型のクリクリした目で見つめられる。少し足元に寄ってきて、飼い主さんに止められて戻っていくのも、また可愛い。飼い主さんが会釈をしてくれたので、遥菜も会釈で返す。

 犬の散歩がてら、ウォーキングに来ているのかもしれない。飼い主さんは、スポーツウェアだった。

 ペットもいいな。

 小刻みに鳴る小さな足音が遠ざかっていくのを背後に感じながら考える。




 ふと、公園にいる人が減っていることに気がついた。遊歩道の一部しか見えないので、たまたま人の少ないところに来てしまったのだろうか。

 急に心細くなり、今日は無理をせずに帰ってシャワーを浴びよう、そう思い始めたときだった。

 足元が光り始めた。円を描くように淡く光る。

 とたんに表現しがたい体調不良が襲い、足を止める。

 だいぶ涼しくなったとはいえ、まだ昼間は暑く、今も夏の気配が残っている。少ししか走っていないと思っていたのだが、無理をしすぎたのだろうか? もしかして、熱中症?

 そうしている間にも、足元に光る円は増えていく。三角や四角、直線も加わり不思議な幾何学模様が出来上がる。


 なにこれ?


 足元を凝視していると、次々に記号のようなものが浮かび上がり、図形の空いた隙間が埋まっていく。

 強くなったり、弱くなったりと、強弱をつけて光り始めた。

 まるで鼓動しているようだ。

 右手が右に、左手が左に、頭は上に、足は下に引っ張られるような変な感覚がする。痛みはないのだが、得たいの知れない感覚が、強烈な不快感となって遥菜を襲う。堪らず目をつぶるとそのまま世界が反転した。





 周囲のざわめきが大きい。

 遥菜は、固い地面に寝転がっているようだ。

 倒れてしまったのだろうか。

 起き上がろうとするが、まだ身体に変な違和感が残っていて上手く動かせない。

 目の前もボヤけている。


「なぜ、女なのだ!?」


 何を騒いでいるんだろう??

 上手く働かない頭で必死に考えた。

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