第6話 幼妃・木蘭様
「失礼いたします。白蛇妃様はいらっしゃいますでしょうか」
水星宮の扉を叩く音が聞こえる。寝台の上で数多の木蘭ぬいぐるみに埋もれて眠っていた苺苺は、「ハッ」と飛び起きた。
(徹夜でぬい様を製作しているうちに、いつの間にか意識を失っていました……。ああでも、たくさんのぬい様に囲まれて眠ったおかげか、睡眠時間は短いはずなのに超回復している気がします)
ふっふっふ、まるで禁断の仙薬をキメた気持ちです! と、苺苺は寝ぼけた頭でおかしなことを口走る。
「もし。水星宮の女官の皆様? いらっしゃいませんか?」
「は、はい、います! 少々お待ちくださいませ!」
窓の外を見るに、尚食の女官が来る時間にはまだ早い。
(後宮の朝餉はほとんど昼餉という感じですものね)
そう思っているのは実は苺苺だけなのだが、彼女はそれを知らない。
苺苺の朝餉が遅いのは、尚食の女官たちが互いに仕事を押し付け合っているためである。それで朝餉の時間が終わるギリギリの頃に、冷め切った御膳を持って、嫌々ながらしぶしぶやってくるのだ。
(どなたでしょうか? この声、どこかで聞いたことのあるような、ないような……? と、その前に着替えなくては)
苺苺は慌てて寝台を降り、簡素な衣装に手早く着替えて、扉を開ける。
そこには昨日見た顔があった。
朱色を基調とした衣をまとった、木蘭付きの上級女官だ。
「白蛇妃様……?」
上級女官は出てきたのが妃本人だったことに驚いた様子で一瞬ぽかんとすると、すっと礼のかたちを取った。
「前触れも出さずに突然のご訪問、申し訳ございません。わたくしは朱貴姫の女官、朱
(皇帝陛下の後宮では〝貴妃〟に相当する貴姫の冠をいただく最上級妃、木蘭様の上級女官……。それも木蘭様と同じ血筋の)
瞠目した苺苺は、無礼に当たらぬよう即座に礼を取る。
「若麗様。白 苺苺でございます」
家格は同等か、いや、朱皇后陛下の縁者なのだから彼女の方が上になる。
それに朱家の若麗姫と言えば、朱州を治める朱家当主の三の姫に違いない。二胡の名手と名高い、高貴な血筋の姫君だ。
もしも木蘭が後宮に上がらなければ、現在十八歳の若麗が後宮に上がり貴姫となっていただろう。齢六の木蘭と比べて、皇太子殿下との年齢も近く釣り合いが取れている。
「まあ、苺苺様。今の私めは一介の女官、本当に気にしないでください。どうか若麗とお呼びくださいね」
若麗は苺苺に気を使わせぬようにか、優しく微笑みながらそう言った。
苺苺を忌避している様子はまったくない。物腰も柔らかく、話していると〝姉〟のような親しみやすささえ感じられる。
「わたくしったら、お客様にお茶もお出しせずに申し訳ありません。ささ、お上がりくださいませ」
人との会話に飢えていた苺苺は、木蘭のこぼれ話など聞きたさに、若麗を部屋の中に招き入れた。
円卓の前にあるひとつしかない椅子を彼女に勧め、それからいそいそと、水星宮の女官さながらにお茶を出す。
実家ならば姫様がお茶を出すなど言語道断、と彼女付きの侍女に咎められそうな光景だが、ここに苺苺の侍女はいない。
若麗に至っては、今は女官という立場から驚きつつも、水星宮の主のもてなしを断ろうなどとはしなかった。どちらもお人好しなのである。
ふたりはお気に入りのお茶などを語らいながら意気投合すると、しばし和んだ。
「あの、それでどうして若麗様がこちらに?」
「そうでした。こちら、苺苺様宛に木蘭様がしたためた文にございます」
「まあ! 木蘭様からの文!? さっそく額縁に入れて家宝にいたしますわ!」
苺苺は若麗から受け取った文を、胸にぎゅうっと抱きしめる。
「苺苺様!? まずはどうかご一読御くださいませ」
「はっ。わたくしとしたことが、つい高ぶってしまいました……」
木蘭が白州の実家に訪問する際に届いた文は、その痕跡を消すために、父がすべて燃やしてしまった。なので、『推し直筆の文は燃やされる前に全部保存しておきたい欲』が、人前にも関わらず暴れてしまったのである。
「な、なんと書いてあるのでしょうか……?」
「文の内容は確認しておりませんので、私にはちょっと」
「そうなのですね。ああ、なんだかドキドキして手に汗握ってしまいますわ。……すーぅぅ、はーぁぁぁ。……よ、読みます」
深呼吸をして、浅く早かった呼吸を整えてから、上質な手触りの紙を広げる。
苺苺はそこに記された内容を見て、「ええぇぇ!?」と素っ頓狂な声を上げた。
その後。苺苺は本日も遅めにやってきた朝餉を食べ、急いで身支度を整えた。
「大変です、大変です、これは大変なことになりました……!」
苺苺は衣装箪笥から
「ままままさか、木蘭様の宮にお呼ばれされるとは。夢のようです……!!」
推しである木蘭様が――最上級妃が開くお茶会に呼ばたのだから、散策時のような気軽な襦裙で伺うことはできない。
鏡の前で薄く化粧をしてから着付けを終えると、最近は手慣れてきた髪結いに取り掛かる。結った部分にいくつかの簪をさしたら完成だ。
大きく長い袂にはいつもの簡易裁縫道具を忍ばせる。さらに、徹夜で作ったくさんのぬい様を籠の中に全部詰めて、水星宮を出た。
そして昼下がりの今――苺苺は木蘭の住まう紅玉宮に来ていた。
苺苺は紅玉宮の女官長である若麗に案内され、紅玉宮の一室に通される。
水星宮の十倍は広い妃の私室には、雛鳥のように可憐な朱色の衣装を着て、黒髪を鬼のツノのような尖ったお団子に結い上げた木蘭が待っていた。
「白家の姫君。妾の宮に、わざわざ来てもらってすまない」
「こちらこそ、本日はお招きいただきありありがとうございます」
「格式張った場ではないので、どうか楽に過ごしてほしい」
(ふぁぁあっ! 本日も大変お可愛らしいです、木蘭様……! それに、なんだか良い匂いがします! これは紫木蓮の花の香り……っ。きっとお庭で手ずから育てられた紫木蓮を、毎日頑張って花瓶に活けられているのですね。おもてなしのお気持ちのこもった、素敵なお部屋です!!)
幼い彼女の完璧な気遣いから『木蘭様の一日』の妄想が捗り、苺苺はぱぁぁっと、とろけるような笑顔を浮かべながら答える。
対して、昨日よりもいくらか顔色の良い木蘭は、しゅんとした様子で頭を下げた。
「あやかしから守ってくれたこと、誠に感謝している。あの時は妾の力が及ばず、宦官の投獄を止めることができなくて申し訳なかった」
「そんな、頭をお上げください。もう本当に、あの、胸がいっぱいです……っ」
苺苺は大好きな木蘭の前で頑張って取り繕っていた。が、初めて推しの宮に招待された緊張と興奮で頭がどんどん混乱してきて、段々とわけがわからなくなってきていた。
胸が熱くて、目がぐるぐると回る。
「白家の姫君」
「ど、どうか苺苺とお呼びくださいまし!!」
「では、苺苺と」
(はうぅぅ! 木蘭様に名前を呼んでいただけるなんて、わたくしもう死んでもいいですわぁああっ)
勢いで『後宮へ上がる以前より、ずっと推しております!!』と口走り言いそうになるのをぐっと堪えて、真っ赤に染めた頬を隠すように団扇で顔を隠す。
「……っ! その、木蘭様にお怪我なくて何よりでした。昨日はあれから大丈夫でしたか?」
「ああ。妾の心配よりも、苺苺の方だ。宦官に打たれ、縄をかけられて投獄されたというのに……。怪我はないのか?」
「怪我は……す、少し、青あざになった程度でしたので、ええ、その、すぐに治ると思いますわ!」
苺苺は団扇で顔を隠しながら推しを心配させまいと嘘をついた。
本当はかなり痛くて、青あざもひどい。糸切り鋏で切った手のひらは、血が滲んでいたのでここへ来る前に包帯を取り替えてきた。
手のひらに関しては自分でやったものだが、幼い木蘭に余計な心配や責任を感じてほしくはないので、袖の中から指先以外が見えないように気をつけている。
「だったらいいが……。痛ければすぐに言うように。妾が皇太子殿下に
「お気遣いありがとうございます」
部屋に紅玉宮付きの女官たちが入室し、お茶や茶菓子を円卓の上に並べていく。木蘭はそれを見届けると、「皆、退がるように」と女官長の若麗とともに全員を退出させた。
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