第2話 決して忘れません
部屋の中は、水が打ったような静けさに包まれた。
あ…この後どうしよう。何も考えていなかった。
でも、もう引くに引けない
『私は記憶喪失。私は記憶喪失。私は記憶喪失。私は…』
自己暗示をかけるように何度も同じ言葉を頭の中で繰り返した。
「セイシェル…今…なんて?」
「…セイシェルって…私の事ですか? あなた様は私をご存じなのですか?」
私はルパート様の瞳を見ながら…はできなかったので、ルパート様の手元を見ながら答えた。
「
お父様が不安そうに
「急な高熱によるのものでしょう。ただ…いつ記憶が戻るかは…今は何とも…。しばらくはゆっくり休ませてあげて下さい」
そう
医師って結構いい加減なのね…と私は心の中で呆れていた。
すると家族が次々に私に話しかけてきた。
「セイシェル! 私の事はわかるか?」
「…どちら様でしょう」
お父様…そんなに真剣な目で見ないで下さい。
たまらず、視線を逸らした
「セイシェルっ」
「…どちら様でしょう」
お母様…そんな潤んだ目で見ないで下さい。
耐えられず、俯くしかない。
「セイ…?」
お姉様…何か…じっと見てません?
私はぎゅっと目を瞑った
「「「「……」」」」
お父様、お母様、お姉様、ルパート様が顔を見合わせた。
しばしの静寂の中、四人で何やらひそひそ話を始めた。
ひそひそすぎて聞こえないんですけどっ
話し終えたのか、皆がベッドの周りに集まってきた。
「
そう言うとお父様は私の頭を優しく撫でてくれた。
「今夜は私がおりますから、みんなはもうおやすみになって。ルパート様も大変なご迷惑をおかけして、申し訳ございませんでした」
お母様がルパート様に丁寧にお辞儀をした。
「いえ、とんでもないことです。それよりセイシェルが目を覚ましてくれて本当に安心しました。また明日お見舞いに伺わせて頂きます。おやすみ、セイシェル」
そう言うと私に優しい微笑みを向けて下さった。
「…おやすみなさい」
罪悪感で胸が痛い…。
部屋を出るまで、ルパート様の背中を見送った。
「おやすみ。セイ」
お姉様が私のおでこにキスを落として、お父様と一緒に部屋を出て行った。
「さぁ、あなたもおやすみなさい。セイシェル」
お母様はおでこにキスをすると、優しく頬を撫でてくれた。
「おやすみなさい…」
突然記憶喪失なんて…みんなに心配かけているわよね。
ごめんなさい…ごめんなさい。
でも、ルパート様のためなの。
心の中で何度も謝りながら、私は深い眠りについた。
◆◆◆◆
「おはよう、セイシェル。体調はどう?」
「…お、おはようございます。はい、もうすっかりっ」
「よかった。これ、お見舞い」
「ありがとうございます!」
ルパート様は朝一番にお見舞いに来て下さった。
私の大好きなクロッカン・オ・アマンドを持って。
さっそく一口…
「ん~っ 美味しいっ」
ルパート様が嬉しそうに見てらっしゃるのは…
「召し上がります?」
クロッカン・オ・アマンドが入った箱をルパート様に差し出した。
「ありがとう。けど、セイシェルのために買ってきたから、君が食べて」
「…はい」
あら、欲しいのかと思ったのに。
さて、それよりどうやって婚約破棄の流れに持っていけばいいのかしら?
婚約者が記憶喪失になった時点で、ルパート様の方から破棄の申し出があると思ったのだけど。
だって普通、記憶喪失になった嫌っている女性と結婚したいと思います?
ルパート様のご両親も、そんな不安な嫁は受け入れがたいのではないのかしら?
それにルパート様なら引く手あまただから、きっとすぐに素敵な人と良縁を結ばれるわ。
少なくとも私のように嫌われるような人ではないでしょう…。
「あ…あのぅ…あれからいろいろお話を聞きまして…あなたと私が婚約していると聞いたのですが…」
「うん、そうだよ。君は僕の大事な婚約者だよ」
そう言うとルパート様は、満面の笑顔を見せて下さった。
〈ずっきゅゅゅゅゅん!!!〉
はうっ!!
パタッ
前のめりに倒れた私。
「セイシェルっ 大丈夫? 医者を呼ぼうか!?」
あわてて私を支えて下さったルパート様
「だ、大丈夫です」
そんな事言うの、反則です~っ!
ルパート様の本音を聞いていなければ、真に受けていたわ。
ダメよっ しっかりして、私!
こんな三文芝居をしているのはルパート様のためでしょ?
「そ…それで婚約の事ですが…破棄された方がよろしいかと思いまして…」
「……………何だって?」
ゾクリ。ん? 一瞬悪寒が走った気がしたのだけれど。
それにルパート様の声が…いつもよりトーンが…低いような…。
「あ…私、記憶を失くして…こんな不安定な私が伯爵令息でいらっしゃるあなた様と結婚するのは如何なものかと思いまして…」
なんだかすごく悪い事言っているような気がして胸がドキドキします
「本気で言ってるの?」
初めて見るルパート様の冷たい瞳。初めて聞くルパート様の冷たい声。
こ…怖い。え…ルパート様…怒って…らっしゃる…? え…なんで…!?
「あ、あの…」
「他に好きな男ができたの?」
「…っ! そんな人、ルパート様以外いる訳ないです!」
「じゃあ、僕の事が嫌いになったの?」
「ルパート様を嫌いになるなんて、永遠にありえません!」
ハッとなり、手で口を押えた。
今のやりとり…記憶喪失の設定で答えていい会話ではない…ような…。
チラリとルパート様を見ると、
「みんな知っていたよ。記憶喪失が嘘だって事は」
そういって面白そうに笑っていた。
「え! な、何で分かったんですか?」
「ふはっ、気づかないはずないよ。ずっと目が泳いでんだから。それに君は嘘をつける人ではないしね」
み、みんなって…みんな!? 最初から分かっていたの!? なのに私ってば記憶がないふりを続けて…わーっっ 恥ずかしいーーーーー!
思わず両手で顔を覆った。
「…まさか婚約破棄を望んでいたなんてね…」
そう言うとルパート様は悲しそうに眉を顰めた。
な…んでそんなお顔をされるの…?
私はルパート様が喜ばれると思ったから…ルパート様の幸せのためと思ったから…。
私のした事はルパート様を悲しませたの…?
いつの間にか両手を握りしめていた。掌が痛い…。
何か間違ったの? 何を間違えたのかわからない…っ
「…って…だって、ルパート様…仰っていたじゃないですか…。私の事…イライラするって…いつも我慢しているって…一緒にいるとつ…疲れるって…だから私…ひっく…」
あ…やだ。お話したらまた思い出して悲しくなってきた…。
涙があとからあとから零れてきた。
「え? 待ってセイシェル。ぼ、僕が? いつ?」
私の言葉と涙に戸惑っているルパート様。
あわててご自分のハンカチを私に差し出して下さった。
「ずび…っ…あの…雨が降った日…お姉様と庭園を歩いていて…雨が降ってきて、お姉様に上着を掛けて差し上げていた…」
ハンカチで鼻を押さえながら、思い出したくない情景を思い出しながら説明した。
しばし思案するルパート様。「あ!」と一言。
…思い出されたようです。
「あ〜……」
右手で頭を押さえながら、がくんと
「あれは…ごめん。本当にごめん。でも決して、決して! 君の事が嫌いで言ったんじゃないんだよっ そんな事ありえない!」
「で、でもどう聞いてもあの会話は私の事を嫌っているようにしか…」
「そうだよね。僕が悪かった。あんな会話を聞いたら誤解されるのは仕方ないよね。けど本当に本当にそういう意味じゃないんだよっ」
「じゃあ…どういう意味で…」
「…君が好きだから。大好きだからっ」
そう言うとルパート様の両手が私の頬を包み、私の唇にそっと口づけた。
ひゃーーーーーーー!!!
わ、私の事が好きだから、あんな話をしたって…全く理解できないんですけど!
でもっ…もう…どうでもいいかなっ。
けど、これだけは…
「じゃ、じゃあ、私の事を厭わしく思っていたわけでは…」
「厭わしい…愛おしいの間違いでしょ?」
そう言うといつもの美しく優しい笑顔を見せて下さった。
この日の事は、何があっても未来永劫忘れませんっ
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