第32話 雨と、

 夜は屋上レストランでの豪華な夕食を済ませ、その後は露天風呂つきの温泉を楽しんだ。


「あーいい湯だった~」


 天国のような心地で部屋のドアをくぐった途端、桃果の不満そうな声が聞こえてきた。


「もう信じらんない!」


 窓際のソファーに寝そべってスマホをにらんでいる。何かあったんだろうか。


「そっち行くぞ。……なにが信じられないんだ?」


「海上の打ち上げ花火。楽しみにしてたのに運営都合で今夜は中止なんだって。ナイトプールで見たかったのにぃ。絶対映えるのにぃ」


 バタバタと足を動かしている。

 子どもか。


「花火って夏休み中は毎晩上がるんじゃなかったか?」


「そーだけど?」


「じゃあ明日観られるじゃないか」


「でも今夜みたかったのっ!」


 スマホを放り投げてごろりと寝転んだ。子どもか(二度目)。


「文句言っても花火が上がるわけじゃないんだから諦めろ」


「ぶー」


「暇ならテレビつけるか? それともスマホゲームでもするか?」


「どっちもいらない。……なにさ急に兄貴風吹かして、むかつく」


 相変わらずの口の悪さ。


 でも少しだけホッとしている。

 昼間みたいな態度とられたらどうしようと思ってた。次あんなふうに迫られたら……いや、想像するのはやめよう。 


「そういえば明日、マユマユと近くのショッピングモール行くんだ。限定スペシャルなパフェ食べるの。おにいも行く? ついてきてもいいよ」


「遠慮する。どうせ荷物持ちだろ」


「ちっ、バレたか」


「あからさますぎるんだよ。おれはもう寝るぞ」


 時刻は九時前。まだまだ寝る時間じゃないけどなんだか頭が重い。今日は早く寝よう。


 洗面所で歯磨きして戻ってくると「ねーぇ」と甘えた声で話しかけてきた。


「おにい。のお願い聞きたくない?」


 ぎくっ。ヤな予感。


「桃、この『とろぴかるフルーツティー』が飲みたいなぁ」


 手にしたスマホにはある飲み物が映っている。

 細かく切ったフルーツが詰め込まれ、全体的にピンク色がかっている。これが『とろぴかるフルーツティー』。季節限定なんだそうだ。


「でもホテルの売店もう閉まってるぞ?」


「ホテル前の大通りにコンビニあったじゃん」


 たしかに来るとき車で通りかかった。

 徒歩だと十分ほどかかるだろうか。


 はぁ、とため息をつく。


「……分かったよ。頼まれてやる」


「え? マジ?」


 言った本人がいちばんビックリしてる。


「ああ。約束してた誕プレのかわりだ」


「誕プレ……あれ本気だったの?」


「もちろん。じゃあちょっと行ってくるから大人しく兄ちゃんのこと待ってろよ、妹よ」


「なにそのドヤ顔、ムカつく……! なかったら別にいいからね!」


「分かった分かった。てきとうに他のおやつも買ってくるから」


「は、早く帰ってきてね!」


 すぐ戻る、と伝えてホテルをでた。


 昼間とは打って変わって空気が涼しい。

 十時近くなって辺りはすっかり暗闇に包まれているけど、道沿いのホテルの灯りが賑やかだ。街灯も多いから不安な感じはしない。



 目的のコンビニに入るとすぐに『とろぴかるフルーツティー』を見つけた。


「お、これだな」

「これいいですね」


 伸ばした手に別の手が重なってくる。


「あれ真結?」


「橙輔さん? どうしたんですか、こんなところで」


 互いに顔を見合わせた。


「おれは桃果に買い物頼まれて」


「私はコンビニスイーツを買いに来たんです。飲み物も欲しくて」


 真結の買い物カゴにはスナック菓子やペットボトルがぎゅうぎゅうに詰め込まれていた。ずいぶんな量だ。


「あ、これは、その」


 おれの目線に気づいてさっと後ろへ隠すが時すでに遅し。


「お恥ずかしい話ですが小腹が空いてしまって……こんなに買ったこと比奈には内緒ですよ?」


 頬を赤くして恥ずかしがってる。

 必死な様子に思わず笑いがこぼれた。


「わかった、黙っとくよ。ところで比奈は?」


「部屋にいます。私、最初はホテルの売店に行ったのですが閉まっていたので、ここまで一人で来たんです。比奈にはメールで散歩と伝えてあります」


「そっか。じゃあホテルまで一緒に戻ろうぜ。その前におれも桃果の誕プレ買わないと」


 ひとまず『とろぴかるフルーツティー』をカゴに入れる。


「抹茶アイスもお勧めですよ。どら焼きや葛餅も。桃ちゃんさんは和スイーツがお好きなんです」


「そうか、クリームあんみつ好きだもんな。さすが真結。桃果のことよく知ってるな」


「桃ちゃんさんとは中学でずっと同じクラスだったんです。私、抜けているところがあるので何度も助けていただきました」


 中学時代の真結と桃果。

 もしかしておれも面識があるのだろうか?



 それぞれ会計を済ませてコンビニを出た。真結と二人、肩を並べてホテルへの帰り道を歩く。

 周囲はしんと静まり返り、夜が一層深くなったような気がした。


「そういえばさ、真結っていつおれのこと知ったんだ?」


「え? なにか思い出したんですか?」


 急に歩みが遅くなる。おれも合わせて速度を落とした。


「いやなにも。比奈から聞いて気になっただけ。再婚する前におれと真結が一緒に歩いているところを見たって言うんだ。桃果が紹介したとは思えないし、どんなつながりがあったのかなと思って」


 不意に。

 ごろごろと空が鳴った。雲行きがあやしい。


「――その前に走った方がいいかもしれない。雨降るかも」


「雨……」


 ふと脳裏によぎった言葉。


 ――雨と、やわらかいもの。

 ――私は魔女なんです。



 ポツ、と頬が濡れた。


 次の瞬間、雷鳴とともに滝のような雨が降り注ぐ。とっさに真結の腕を掴んで近くの店の軒先に駆け込んだ。閉店後の店内はひっそりと静まり返っており、人影はない。ここでしばらく雨宿りしよう。


「すげぇスコールだな、まるで滝――……いっ」


「ふえ?」


 真結の服はぐっしょりと濡れて透けていた。街灯にぼんやりと浮かび上がる下着の印影。……見ちゃダメだ……!


「どうしました?」


「あ、あの、か、風邪ひくと大変だからこれ」


 急いで上着を脱いで肩にかけてやった。

 濃紺のパーカーを着てきて正解だった。


「でも橙輔さんが」


「へーきだから! まじ! 頼むから!」


「ではお言葉に甘えて。ふふ、やはり大きいですね。橙輔さんの匂いがします」


 無邪気に喜ぶもんだから目のやり場に困ったからとは言えない。



 ピカッ、と空が光った。



「ひゃうっ」


 真結が飛びついてくる。子どものように震えていた。


「ごめんなさい。もう少しだけ、近くにいてもいいでしょうか……きゃっ!」


 また空が光る。


「じゃあやむまで」


「ありがとうございます……」


 真結は泣きそうな顔で腕にしがみついてきた。

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