でねぼら

いぬかい

でねぼら

「チャンスは残り三回です」どこか楽しげに声は告げた。

 振り向くと船頭が立っていて、にやにやと餌入れの中身を覗いている。ああ、と生返事をすると、船頭は「だんなは落ち着いてらっしゃる」と関心したように言った。

「まあな」と俺は答えた。

 日が昇る少し前だった。空は朱と紫が混ざった複雑な色をしていて、雲の隙間に消えかけの一等星がいくつか見えた。笹の葉のような小さなボートは俺と船頭だけを乗せ、湖のほぼ中央で停泊している。さざ波すら立たないベタ凪ぎだ。

 俺はエンケラドス社製の高反発竿ロッドをボートの手摺に立てかけて、ツールボックスからフィッシングペンチを取り出した。餌落ちしないよう釣り針の先をちょっとだけ曲げ、空に透かして慎重に角度を確かめる。気休めにしかならないだろうが、やらないよりましだ。

 これはエウロパ人が作った特殊加工針だ。一度でも口に入れば口腔に深々と突き刺さり、専用工具を使わないと絶対に取り外せない。なのにアタリすら感じないまま、竿を上げると針先の餌はきれいさっぱり無くなっていた。奴に取られたのか、それとも何かの拍子に外れたのか、じっと見つめてもどっちだったのかよく分からない。

 俺は足下の餌入れに目を落とした。白っぽいような、黄色っぽいような、何かのミイラを思わせる干からびた肉が入っている。俺はそのうちの一つに手を伸ばした。こんな不味そうな肉の欠片が、少なく見積もって俺の年収の五年分とは未だに信じられない。

 デネボラの干し肉、一切れ十万クレジット。それがたった十五分かそこらで水底に消えた。

 残り、三切れ。

「まあ、次いきましょ次」と、禿頭を鈍く光らせながら船頭が言った。


◇◇◇


 デネボラのことを知ったのは、学生時代、たぶん歴史の本だったと思う。獅子座β星系の開拓史だ。

 その本によれば、獅子座βの第二惑星に人類が入植したのは今から八百年ぐらい前だといわれている。第四次テラフォーミングムーブメントの終わり頃だ。天候は安定しているものの、海ばかりで小さな陸地が一つあるだけのこの星にそれほど魅力があるとは思えなかったが、それでも食い詰めた連中からなる野良の開拓団が何度か訪れたと記録には残っている。

 開拓を進めていったある時、大陸唯一の中性湖であるバハラ湖の泥の中に、彼らは親指ぐらいの大きさの小さな水生生物を見つけた。そいつは魚に似た生き物で、頭部に環状に配列した九つの目を持ち、菱形の鱗が覆う胴体には背中から尾を回り込んで腹まで続く一続きの鰭がついていた。開拓民たちはこれに「泥濘ボラ」という名前をつけた。現在のデネボラという種名はここに由来する。ボラというのは地球テラに生息する海水魚のことで、もちろんこの星の生物との間に類縁関係などあるわけがないが、見た目なり行動なりで多少は似た部分があったのかもしれない。

 食物資源としての有用性には乏しかったとみられ、開拓史にはそれ以降の記述はほとんど見つからない。採集に相当の労力を要する割に、どう調理してもまともに食えないほど不味かったからだと考えられているが、一方で成熟した個体の肉はかなり美味だとする文献もあり、興味をひいた。

 その著者、宇宙生物学者A・H・オーストン博士は泥濘ボラについて生物学的な面から研究した唯一の科学者だった。博士は自ら現地調査に赴き、採集した標本をつぶさに検討してSolitus denebolaという学名で新種記載した。Solitusとは〝孤独〟を意味する古いラテン語だ。博士はバハラ湖以外にも深海や高山を含むあらゆる場所を調査したが、結局、この孤独な魚以外に一切の生物を見つけることができなかったからだという。


 船頭が煙草に火を付けた。

 俺は二切れ目の餌を針に刺し、細糸できつく縛った。何度か引っ張って外れそうにないのを確かめ、さっきと同じ場所を目がけて竿を振った。鏡のような湖面に同心円の波紋が広がる。水深は二十メートル位らしいが、湖の深部は水と泥が渦を巻いて混ざり合う対流層で、それがどこまで続くのか測った者は誰もいない。

 気づくと船頭が俺の隣にいた。ほとんど顔と顔がくっつくほどの距離だった。ゆらりと腕を上げ、煙草で竿の先を差す。

「分かりますか、水が動いています」

 俺は目を凝らした。煙草の先には紫色に染まる湖面があるばかりだ。

「分からない」

 船頭は小さく笑った。「無理もないです。でも長いこと住んでると、ちょっとした気配が分かるようになるもんですよ」

 そういうもんか――と口を開きかけた、次の瞬間だった。

 弛緩していた釣り糸がいきなりぎんと張りつめた。凄い力で竿が引っ張られ、水中に持っていかれそうになる。

 俺は慌てて竿を立てようとした。だが竿は横倒しのままびくともせず、腕は伸びきって曲げることもできない。カーボンナノチューブの剛性糸がリールの中で金切り声を上げている。これがデネボラなのか? だがとても魚の引きとは思えなかった。例えるなら魚竜か、海獣類の何か。水産資源調査員フィッシュハンターとして宇宙のあらゆる星の魚を相手にしてきた俺も、これほど強い引きは体験したことがなかった。

「堪えどころですぜ、だんな」

 船頭が嬉しそうに言う。手伝うつもりはないようだ。俺はどうにか竿をロッドホルダーに挿しこんで、そのまま暴れる竿を抱きかかえ、渾身の力で引きつけた。目前で竿が見たことのない角度でぐにゃりと曲がった。必死で竿を握りしめる指は真っ白に変わり、今にもちぎれそうだ。俺は歯を食いしばり、石になったようにただ力を込め続ける。湖面に踊る糸が次第に沖へ移動していく。

「くっそ、負けるか!」

 その時、一気に力が開放され、俺は弾かれたように後ろに倒れ込んだ。その拍子に背中をぶつけて息が止まった。竿が勢いよく跳ね上がり、波しぶきが船をしとどに濡らす。

 俺は倒れた姿勢のまま放心していた。竿先から伸びる糸がぶらぶらと揺れている。

 ――信じられない。あの強靱なカーボン糸が切れるなんて。

「大変よいファイトでした」

 俺の腕を取り、抱き起こしながら、船頭が満足そうに笑った。


 泥濘ボラ、すなわちデネボラについて、その生態に不可解な点が二つある。

 一つ、デネボラがこの星で唯一の生物(人が持ちこんだものを除き)だとすれば、彼らはいったい何を食べて生きてきたのか?

 状況から考えると、答えは一つしかない。彼らは共食いをする生物なのだ。一定の周期でオタマジャクシのような稚魚(開拓民が見つけたのはこれだった)が大量に生まれ、食ったり食われたりで数を減らしながら成長し、成熟し、やがて生き残った数匹のきょうだい同士が交尾をして次世代をつくるのだ。ライフサイクルが全て究明されたわけではないが、おそらくそういうことだろうとオーストン博士は推測している。

 二つ、この星には分解者となる微生物が全くいないのに、デネボラの排泄物はどう処理されているのだろうか?

 これは難問だった。というか、未だ結論は出ていない。湖の深部から採集された泥は完全に清浄で、糞やその他の代謝物質が堆積している形跡は全くなかった。オーストン博士もこの問題には相当悩んだようで、その著書『獅子座βの自然誌』でも結論は明示していない。デネボラは生物として当然あるべき代謝活動が欠落しているのではないか、永久機関のようにエントロピーの法則から逃れているのではないか、といういわば回答を放棄した形で考察を締めくくっている。

 とはいえ、デネボラが不死だという噂、ひいては、デネボラの肉は食した者に不死をもたらすという奇天烈な都市伝説は、おそらくこの考察から派生したものだ。近年においてデネボラがまず見かけることのない幻の魚になってしまったのは、この噂を信じたある種のマニアや、金持ち相手に一攫千金を狙った地元住民たちによる乱獲が原因なのはまず間違いない。実際、生きている個体が確認されたという報告は長期にわたって絶え、宇宙生物保護機構による正式な絶滅宣言こそ出ていないものの、事実上、デネボラは絶滅した可能性が高いと考えられていた。

 俺もずっとそう思っていた。


 空が白んできた。山裾に隠れてまだ見えないが、太陽が――獅子座βが上がってきたようだ。

微風すらなく、湖面は凍り付いたように微動だにしない。あの凄まじい引き――あれはデネボラだったのか? 本当にまだ生きているというのか? 水中に沈む糸を見つめながら、手のひらに残るあの感触を思い出す。

 湖面を見ながら船頭が言う。

「――きますよ」

 俺は頷いた。

 確かめなければならない。竿を握り締め、深呼吸を一つする。息を潜めてその時を待つ。


◇◇


 この惑星に来たのは三度目だが、一人で来たのは初めてだった。街に一軒しかない酒場で知り合った船頭は抜け目なさそうなじじいだったが、魚については詳しかった。デネボラの肉を探しているというと、船頭は俺の手をじっと眺め、「だんなは釣りをやるんですかい」と言った。

 そうだと答えると、船頭は慇懃な笑みを浮かべた。「そうでしょう。だんなの手は間違いなく釣り人の手だ。それもかなり上級の」

 俺はその世辞に微笑で返した。

 その夜は結局俺の金でしこたま飲み、そのままバハラ湖畔のほったて小屋まで連れていかれた。トイレがないので湖に放尿し、夜空を見上げた。天の川の傍らに妹のいる星が輝いていた。

 小屋に入ると、船頭に干からびた肉片を見せられた。彼がまだ若い頃に手に入れたデネボラの肉、その最後の四切れだという。

「食えば不老不死ってのはねえ、ありゃただの噂です」船頭は鼻を鳴らした。「でもね、あらゆる病気を癒やす力があるってのは本当」

 そうだ。デネボラの肉にはそういう力がある。開拓民たちが当初この魚のことを記録に残さなかったのは、それが門外不出の秘事だからだ。それがオーストン博士の著書によって誤った形で広まってしまった。その後この魚がどんな運命を辿ったのかは衆知のとおりだ。

「それは――」

「一切れ十万」船頭は俺を遮り、きっぱりと言った。「だんなはお詳しいようですから、こいつの価値が分かるでしょう。だからびた一文負けられねえです。こいつは正真正銘、デネボラの肉ですからね」

 俺は眉根を寄せる。信用できるわけがない。こんなもの、おそらくカノープス辺りから輸入したキロいくらの屑肉だ。だがそれを証明するすべはない。治る見込みのない病で苦しんでいる妹のために、今はもうどこにもないデネボラの肉を探しに来たというのに。

「あんたはその時見たんだな、あいつを――デネボラを」

「ええ、忘れもしません」

「それが、最後の一匹なんだな」

 船頭は俺を見据え、首を振った。「いえ、奴はまだいます。一匹だけ、とびっきりでかい、この湖の主みたいな奴がね」

 数秒、俺は船頭の顔を睨みつけ、それから波音一つしない窓の外を見た。

 デネボラがまだ生きている。その可能性は俺も考えていた。だとすれば証明する手段はある。この男の言葉が真実なら、湖の主はおそらく五十年はここにいることになる。この小さな湖の中で、たったひとりで、そいつはきっと長い間何も食べていないはずだ。デネボラは共食いをする生物だ。だから仲間の匂いを嗅ぎつければ、湖の主は間違いなくやってくるだろう。それで、これが本物かどうか分かる。

 時計を見ると日の出の二時間前だった。俺がここへ来たもう一つの理由を、今なら実現できるかもしれない。

「船を出してくれないか」

 そう言うと、船頭はにやりと笑った。


 くる――その感覚は俺にも分かった。

 いきなり突風を受けたような衝撃があった。俺は間髪を入れずに竿を立てた。

 竿尻は固定してあるが、凄まじい力が竿をぐにゃりと曲げ、俺を引きずり倒した。汗で手が滑った。竿の前に回り込み、全身の力で竿を押す。竿が肩に食い込んでみしみしと音を立てるのを歯を食いしばって堪え忍ぶ。

 太い腕がにゅっと現れた。見上げると、船頭がむんずと竿をつかんでいる。

「あそこに!」

 振り返ると船頭の視線の先で何かがぎらりと光った。一瞬だったが、俺は確信した。奴だ、デネボラだ! 

 咄嗟に俺は湖に飛び込んだ。考えていたわけではない。ウェットスーツなど着ていない。

 冷たい水が全身を刺し、体が痺れる。斜めから射しこむ光の柱が水中を貫き、暗闇に向かって溶けていく。有機物がないせいか透明度は高いが、粘り気が強くて体が思うように動かない。俺はがむしゃらに手足をもがき、糸の先を探す。

 いた――銀色に輝く流線型が水面の近くでゆらゆらと揺れている。

 一瞬、人魚だと思った。信じられないほど美しかった。博物館の標本でみた親指ほどの稚魚ではない。俺と同じ位の大きさがあり、それが立ち泳ぎのような姿勢でゆったりと鰭を揺らしている。

 幻の魚。不老不死をもたらす伝説の魚。それが今、俺の目の前にいる。朝日を反射して銀鱗は淡い虹色を帯び、細長の体を淫靡にくねらせて、まるでダンスを仕掛けるように俺を誘っている。

 捕らえなければ――と頭の片隅でぼんやりと思う。だが体が動かない。するとデネボラの方からひらひらと近づいてきた。そっと手を伸ばし、体表に触れる。鱗の体は人肌のように滑らかだった。抗おうとも、逃げようともせず、ただ一定のリズムで揺れるようにたゆたっている。俺は魚の腰に腕を回し、そっと抱き寄せた。瞬間、俺とデネボラの動きが同期した。俺たちはワルツを踊っていた。水中で絡み合う二つの影。音のないダンス。デネボラはゆらりと頭を傾げて俺を見た。冠のような眼列が一斉に瞬きをして、まるで微笑んでいるかのようだった。 

 頭の先端には洞窟のような口があり、そこから一条の糸が伸びていた。俺の釣り糸だった。デネボラはため息を吐くようにぷっくりと泡を吐くと、糸も一緒に吐き出され、そこにはまっさらな釣り針だけが残っていた。

 そしてデネボラは微かに身をよじらせた。猫のようにつるりと俺の腕から抜け出して、闇の奥へ泳ぎ去っていく。

 待ってくれ――と心の中で俺は叫ぶ。

 追いかけようとする情動をかろうじて理性が引き留めた。既に体は冷え切って、痺れは体の深いところまで達している。ふと妹の顔が浮かんだ。上下左右を失認し、冷たい闇に吸い込まれそうになりながら、ただ本能で明るい方を目指した。

 何度も気を失いかけ、やがて本当に気を失った。

 どれだけ時間がたったか分からず、つんとする胃液の匂いの中で目を開けると、青空の中で太陽と船頭の顔が並んでいた。

「見初められたみたいですねえ」と、楽しげな声が聞こえた。


 太陽は既に高く昇っていた。

 俺はびしょ濡れの服を脱ぎ、下着姿でボートの舳先に座っていた。

 朦朧とする頭でさっきの出来事を思い出す。まるで昨夜の夢のようにありありと浮かぶ虹色の鱗、透徹したような九つの眼差し。

 餌入れには干し肉が一切れだけ残っている。

 なるほど、確かにこれは正真正銘の本物だ。十万クレジットの価値がある。だからこそ、これを使うことはできない。妹のために持って帰らなければならない。

「餌はもう一切れ余ってますぜ、だんな」と船頭が言った。

「だめだ……使えない」

「なぜですか、あいつを釣ってそれで新しい肉を持って帰ればいいでしょう」

 俺は首を横に振る。今まであいつと対峙してきて、それが難しいと身にしみて分かっていた。

 ゲームオーバーだ。明日にはここを発たなければならない。学生時代にこの魚のことを知って以来、相見えることを夢見てきた。それは今、叶った。船頭の肉も本物だと分かった。肉はまだ一切れ残っている。妹は救われる。それでよいではないか。

 俺は顔を上げた。

「だいたいあんたはどうやってあれを釣ったんだ。釣り針は刺さらないし、なのに引きはとんでもなく強い。人の力で釣れる魚じゃないぞあれは」

「あたしじゃないです。あれはうちの母が釣ったんですよ」

 船頭は餌入れから最後の一切れを取り出し、釣り針に刺した。俺が見ている前で手際よく細糸を巻き付けていく。

 その顔はもう笑っていなかった。

「うちの母もだんなと同じようにあいつに魅入られたんです。何度も何度もあいつと向き合いました。そして最後の一切れで、あいつはやっと母のものになったんです」

 船頭は俺に竿を突き出した。

「さあこれで最後です。だんなならきっと大丈夫ですよ」



 ボートの周りで湖面がゆっくりと動いている。

「あたしには分かっていましたよ、だんながここに何をしにきたのか」

 船頭がまた楽しそうに表情を歪めた。

「だんなはね、あいつを食うためにここに来たんです。最後の一匹の、極上の味を求めて。そうでしょう? でも、それだけじゃない」

 船頭の言う通りだ。俺がここへ来たもう一つの理由は、俺自身がデネボラを食うためだった。

 仕事で訪れた様々な星であらゆる種類の魚を食べてきた。デネボラを食ったことがあるという古老の話も聞いた。曰く、稚魚は肉質が悪く、臭みがあってとても食えたものではなかったという。だが成熟した個体は違う。成長するに従い臭みは消え、豊潤な味わいに変化していく。だとすれば、共食いに共食いを重ね、無数の命を凝縮しながら長い年月を生き永らえた最後の一匹は、きっとこの上ない極上の旨みを蓄えていることだろう。

 もしかしたら、それ以上の奇跡さえ――。

「だんなが本当に欲しいものはちゃんと分かってますよ」

 満面の笑みで船頭が言う。気づくと、俺はまた竿を握っていた。自分が愚かなことをしていることは理解していた。失敗すれば妹はもう助からない。こんなギャンブルに妹の命を賭ける価値などないはずなのに。

 けれどすぐ傍にあいつの気配をはっきりと感じる。

 震える手で鉛色の湖面に向かって竿を振る。

 船頭が俺の耳に口を寄せた。

「目を瞑って、イメージするんです」

 俺は頷き、言われるままに目を閉じた。

 息を吸い、息を吐く。自分の心臓の鼓動が聞こえる。あいつのことを考える。どこにいる? 泥の中か、それとも水面近くか。俺は糸づたいに意識を飛ばす。あの粘度の高い水の中へ、光と闇の狭間をたゆたう夢の中へ。

 何かがさっと横切った。意識を集中する。あいつがすぐ傍にいる。滑らかな肌。虹の煌めき。

「だんな」と声が聞こえた。「――連れていかれないように」

 肌が触れあい、心が溶けあう。九つに重なるモノクロームの視界が俺自身を映している。

 俺はあいつと一緒に泳いでいるのか? 違う。あいつになっているのだ。

 ――その時、ぱっと視界が開けた。俺は――私は、宇宙に浮かんでいた。

 遠くで太陽が揺れている。近くで星々が瞬いている。砂粒が日射しを浴びて光り輝き、渦を巻いている。その中心に私はいる。そう、私は宇宙の中心で孤独に回り続ける〈永久機関〉だ。

 遥かな昔、この泥濘の渦から私は生まれた。命をもらい、命を繋ぎ、自身の尾を食らう蛇のように悠久の時間を生きてきた。けれどそれももう終わる。そしてまた始まる。どこかで仲間の匂いがする。私自身の匂い。懐かしい匂い。私は体をくねらせてそこを目指す。罠であることは分かっている。恍惚を覚えるほどの甘やかな痛み。気まぐれにほんの少し身をよじり、太陽と重なる小さな影をぐらぐらと揺らす。ごめんなさい、今のはちょっとふざけただけ。遥か昔に産んだあなたがけらけらと笑っている。私もまろやかな笑みを浮かべる。力を抜き、光射す方へ喜びの泡を吐く。それがあなたに届く時、その時こそ、私は新しい命に生まれ変わるでしょう。

 さあ私を見よ、継ぐ者よ。

 私は――俺は、ゆっくりと薄目を開ける。

 光が目に沁み入ってくる。水が肌を滑り落ちる。

 俺は小さく呻く。

 虹色に輝く湖の主が、俺の目の前で静かにその身を横たえている。


  

 解体は船頭がやるというので、俺は隣で様子を見ていた。

 まな板には乗らないので床にシートを敷いて作業した。丁寧に鱗をとり、包丁で腹を割いてぬめぬめとした内臓を引き抜く。ほとんど血は出なかったが、冷水で洗うと鶏の胸肉に似た艶やかな薄桃色の白身が現れた。船頭は肉を切り分け、余りは冷蔵庫にしまった。野菜と一緒に沸騰した湯に放り込むと、すぐに乳白色の出汁が沁み出した。程よく火が通り、鍋から漂う旨そうな匂いが鼻をついた。

 肉は甘く、とろけるようだった。数珠のように繋がった肉の粒にあらゆる旨みが絡みつき、それが絢爛豪華な味の小宇宙を作りだしていた。

「どうぞたくさん召し上がって下さい」と船頭が満足そうに言った。「選ばれた者しか味わえない肉なのですから」

 船頭は一升瓶を持ってきた。テラの中でも限られた地方でのみ作られている古酒だという。勧められるまま飲んでは食べ、食べては飲み、鍋の中身はどんどん減っていった。疲れもあってかすぐに酔いが回った。残り汁から立ち上る豊潤な香りに包まれて、俺はそのまま眠ってしまったらしい。

 そして気づいたら、この体に変わっていた。

 目の前に、船頭が立っていた。

 とにかく体中が痒かった。朦朧としながらシャツをめくると、皮膚は変色してささくれ立ち、銀の鱗に変わりつつあった。手足は萎えたように力が入らず、尻の骨が尾のように長く伸びて、何より息が苦しかった。

「湖はすぐそこです。歩けますか」と船頭は言った。

「おえは、とうなっちまったんた」と答える。喉がおかしい。ちゃんと発声できない。

「すぐ終わります。母の時もそうでしたから」

 俺は船頭を見上げた。何を言っているのか分からなかった。

 船頭がちらりと俺を見た。

「あたしの母は昔、ここでデネボラの研究をしてましてね、自分のせいでこの生物が絶滅するのをたいそう嘆いていたんです。だから、たった一匹になってもこの素晴らしい種が存続できるよう、母は苦労してあいつの体を作り替えたんですよ」

「……おーすとんあかせ」

「ええ、よくご存じで」

 俺は少し考え、何が起きたのかを理解した。怒り、後悔、そんな感情はすぐ泥のように沈殿し、代わりに不思議な多幸感が沸き上がる。

「この宇宙で、これまで不死を実現した生物はいません。デネボラも例外ではないのです。どんなに長命であろうといずれは時の審判を受けることになります。でもね、命はリレーされるんです。それが自分の子として受け継がれるのか、自分を食った者に受け継がれるのか、どちらだろうと本質的には何も変わりはないはずです」

 そうとも、永遠とはそういうことだ。全て当然のことだと今なら分かる。痕跡となった足が波打ち際を越える。あれほど冷たかった湖の水が、今は温かい。

「だんなは母に気に入られたんですよ。たぶん、だんなが父に似ているからです。息子であるあたしにはそれがよく分かりました。餌を取られても取り乱さず、力比べにも諦めず、水の中でも決して無礼な態度は取らなかった。母もあたしも、だんなのような方を待っていました。だんなのような方こそ、母が命を託すに相応しい方だったんです」

 そうか、あれは面接だったんだな。俺はぼんやりと思った。俺たちはダンスを踊り、互いの体温を認め合った。確かに俺は、あのひと時を楽しんでいた。

 大事なことを思い出す。俺は僅かに残った短い指をほんの少し咬みちぎり、船頭に渡した。痛みはない。自分の体が何をもたらすかは分かっている。たったこれだけでも百年は健やかでいられるだろう。

「こえお――いおうおに」

 船頭は頷き、俺は九つの目で礼をいう。

 もう妹に会うことはない。だが俺は永遠を手に入れた。そのためにここに来たのだ。オーストン博士の魂が、夥しい稚魚たちの魂が、確かに俺の中にあるのを感じる。連綿と続く命の鎖を引き連れて、俺はゆっくりと湖水に分け入っていく。船頭が俺の背中をさすっている。彼がここで過ごした気が遠くなるほどの時を思う。あの小屋にはトイレがなかった。彼がいつ生きることを止めたのかは分からない。けれど百年後か、五百年後か、彼は後継者を連れてくるだろう。俺に似た後継者を、デネボラを継ぐ者を――きっと。


 空を仰ぐ。

 夜明けの空は湖面と同じ紫に染まり、山裾に紅い雲がたなびいている。

 俺が人間として見たこの最後の景色を、誰かが見るだろうこの光景を――そう、私も、いつかここで見たのですよ。 了


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