第二十話 心寄せて≪prénom≫


「……イリア。それが、君の名前」



 少女が首を縦に振る。さらり、と流れる銀糸が動きに合わせて揺れた。



(名を明かしてくれた事が嬉しかった)



 ルーカスは教えられた名を胸に刻んで「綺麗な響きだな」と笑った。神秘的な雰囲気を持つ彼女にピッタリだ。


 すると、レーシュ——イリアが「あ……ありがとう」と言葉をすぼませながら、頬を赤らめた。

 賛辞に慣れていないのだろう。またもこちらまで気恥ずかしくなってしまう。


 ルーカスは気恥ずかしさを抱えたまま席へと戻り、イリアが淹れてくれた三杯目の紅茶に手を付けた。三杯目もやはり美味しい。


 対面の彼女も、お菓子とお茶を頂いている。だが、頬は赤いまま。視線が合うと照れ隠しなのか不自然に逸らされてしまった。


 何というか、落ち着かない。心がそわそわして、お茶請けにつまんだお菓子のような甘さが広がって行く。妙な空気が彼女との間に流れていた。


 よくよく考えると、女の子と部屋に二人きりというのも不味い気がした。封印部屋では拘束具で鎖に繋がれていたからいいが、今は違う。



(……話題。何か、気を紛らわす話題を……!)



 黙っているとよからぬ事を考えてしまいそうで、ルーカスは必死に思考を回転させた。


 けれど、こういう時に限って話題が出て来ない。


 こうなったら幼い頃父に教わった心頭滅却の方法、セントシエド和国に伝わる念仏でも唱えてやり過ごすしかないか——とルーカスが考え始めていると。


 彼女が外した仮面を、元の位置に戻そうとしていた。



「——それ、着けないとダメか?」



 瞳が隠れてしまうのはもったいない。そう思ったら、自然と言葉が出ていた。


 彼女は動きを止めて、何やら考え込んでいる。

 名前を尋ねた時と同じく、不躾ぶしつけだったか、とルーカスは発言を後悔したが。



「ルーカスなら、大丈夫……かな」



 イリアは静かに告げて、仮面をテーブルの上へ置いた。


 「大丈夫」とは、どういう意味か。ルーカスは尋ねたかったが、口は災いの元である。

 余計な事を口走ってしまいそうな気がした。口をつぐむ。


 また沈黙が流れる。けれど先ほどまでの妙な空気は、幾分ましになっているように感じた。


 その後はお互いに会話も少なく、でも決して居心地が悪い訳ではない、穏やかな時間を過ごした。


 彼女とこうしていると、自分の置かれた状況や、ほんの数か月前にあった悲劇を忘れてしまいそうになる。


 そんな一時だった。






 お茶会がお開きになったのは、完全に日が落ちた後。



「レーシュ様、まだこちらにいらしたのですか? もうそろそろ、夕の祈りの時間です。猊下げいかがお探しですよ」



 と、枢機卿団カーディナルに呼ばれて退出したカフが、再び部屋にやって来た。


 窓を見やると空に月が浮かんでおり、ポール状の魔術器が真っ暗闇を照らしている。いつの間にか結構な時間が経っていたようだ。


 少し慌てた様子のイリアが仮面を被って立ち上がり、広げたままの茶器類へ手を伸ばす。ルーカスはそれを制した。



「いいよ、片付けは俺がする」


「でも……」


「君は行かないとだろ? 気にしなくていいからさ」



 あの手の人間は機嫌を損ねたら後が怖い。片付けはさしたる負担ではないし、彼女が咎めを受ける方が嫌だ。



「もらいっぱなしは性に合わないんだ。俺もそれくらいはしないと。な?」


「…………ん、わかった」



 イリアは渋々と部屋の扉へ向かい、ドアノブに手を掛けて振り返った。



「……ごめんね。次は、片付けまでちゃんとするから……」


「だから、気にしなくていいって。……その、イリア……またな。今日はありがとう」


「うん、また……ね。……ルーカス」



 また呼び慣れぬ名を呼んで、呼ばれて。暖かい気持ちになった。


 別れの挨拶を済まると、余韻に浸る間もなく扉が開かれた。彼女は純白の衣裳をひるがえし、銀糸をなびかせ駆けて行く。


 靴音が廊下に反響している。廊下を走るのも、彼女が女神の使徒アポストロスでなければ咎められそうだな、と苦笑いをこぼした。



「——で、補佐官殿は、行かなくていいのか?」



 ルーカスは扉の横に佇むカフへ視線を送る。彼がイリアを追う素振りはない。問い掛けにも答えず、色のない表情でじっとこちらを見つめていた。


 本当に、何を考えているのか分からない人物だ。


 ひとまず、後片付けをしようとルーカスは思った。

 視線を感じながら、屈んでテーブルの上を片付けて行く。


 ……監視されているようで何ともやりにくい。


 言いたい事でもあるのか。なら、さっさと言ってくれればいいのに。と、心の中で独りごちていると。



「イリア様は、おまえに心を許しているのだな」



 ぼそりと彼が呟いた。しかし、声が小さくて聞き取れず、反射的に見上げる。

 紅い瞳孔の開いた翡翠ジェダイトの瞳が、変わらず自分を見つめていた。にらんでいるようにも見える。



「なあ、カフ。俺に言いたい事があるなら——」


「フェイヴァ・アルディスだ。使徒名で呼ばれるのは、本意ではない」


「そう、なのか。珍しいな」


「……オレのあるじは、イリア様ただ一人」



 またしても聞こえない声音で呟かれた。きっと、元から聞かせるつもりはないのだろう。

 彼にも複雑な事情があるんだろうな、とルーカスは思慮した。



「なら、フェイヴァでいいか? 俺に何か用があるんだろ?」


「ああ。ルーカス・フォン・グランベル。明日の早朝、いつもの鍛錬場に来い」


「力の制御訓練なら、言われずともちゃんとやるさ」


「違う。神秘アルカナ抜きの純粋な戦闘訓練だ。……おまえは、弱すぎる。だから守れなかった」



 ルーカスの心臓が脈打った。容赦のないフェイヴァの言葉に、傷をえぐられる。

 返す言葉などない。カレンを守れなかったのは事実だ。



「自覚があるなら、逃げずに来い」



 彼はそう言い残して去った。

 言葉は重しとなり、イリアとの一時で浮いたルーカスの気持ちが、沈んでいく。



「……俺は……」



 己がいかに無力であったか、改めて現実を突き付けられて。ルーカスは悔しさと共に唇を噛み締めた。

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