第一部 第三章 動き出す歯車

第一話 桃色の嵐、襲来

 聖歴二十五にじゅうご年 エメラルド月二十八にじゅうはち日。


 聖地巡礼ペレグリヌスの開始、教皇聖下きょうこうせいか歓迎式典かんげいしきてんが開かれるまで残すところ後二日。


 グランベル公爵邸の執務室で、ルーカスは持ち帰った仕事をこなしていた。


 部屋の窓際に設置された木目の執務机の上には、書類が山積している。


 任務の報告書やルーカスの決裁が必要な書類、はたまた上層部へ上げる物など、多岐に渡る内容の書類だ。


 ルーカスは一枚ずつ活字に目を通して内容を確認し、必要なものにはサインと団のおさに与えられる印章の判を押していった。


 一枚、終わったところで、机の端の方へ置かれたティーカップへとルーカスの手が伸びる。


 新しい書類を片手に、口元へカップを運んだ。

 だがその中身はいつの間にか空になっており、赤茶色の湯がわずかに底に残っているだけだった。


 すっと、前方から人の気配がして、ルーカスは視線を上げる。

 そこには、薄紅うすべにに色付いた唇がえがき、勿忘草わすれなぐさ色の瞳の目尻をゆるませ、微笑をたたえて銀の髪を揺らす彼女——イリアの姿があった。



「ルーカスさん、お茶のおかわりは如何いかがですか?」

「……ん、もらおう」



 ルーカスがティーカップをソーサーごと差し出せば、イリアは慣れた手付きでそれを受け取った。


 そのかたわらには、と銀細工で装飾された押し運び出来るお洒落しゃれなポットワゴンがあり、紅茶をれるのに必要な道具が取り揃えられている。


 薬缶ケトルは保温と湯を沸かす効果のあるマナ機関の上へ乗っていた。

 マナ機関の形状は薬缶ケトルより一回り大きく、黒くて丸いデザインだ。


 起動するためのスイッチがあり、オンオフの操作が簡単に出来る。

 それのお陰でいつでも紅茶をれるのに最適な温度の湯を用意出来るのだから、便利なマナ機関だ。


 イリアは流れるような動きで道具を駆使くしし紅茶をれると、カップにそそぎ入れソーサーへ置く。

 それを両手で持ってルーカスの横へ移動すると、そっと机の上に置いて寄せた。



「助かるよ」

「どういたしまして。お仕事頑張って下さいね」



 イリアがにこりと微笑んだ。



「こうしてながめてると仲良しな恋人みたいですね」

「わかるわ、あの二人は無自覚だけど」

「お兄様も早く自覚なさるといいのですけどね」



 背の低い長机を挟んだ、ゆったりとした造りの対面ソファへ座する三人の視線がこちらへ集まっていた。


 桃色の髪にくれないの瞳と、白を基調とした布地に赤と金のラインと装飾を施した軍服の、うり二つな双子の姉妹シャノンとシェリル。


 黒瑪瑙オニキスの瞳に亜麻色あまいろのショートボブ、赤と金の装飾が施された純白の祭服を身にまとった、治癒術師のリシア。


 彼女達はイリアの護衛だ。

 本棚から選んだ本を片手に、何やら雑談している。


 紅茶の給仕を終えて三人の元へ歩むイリアに、彼女らの含みある視線が送られ、イリアがこてんと可愛らしく首をかしげた。



「どうしたんですか?」

「ううん。先は長そうだけど、お兄様を見捨てないでね」

「イリアさん、お兄様をよろしくお願いしますね」



 イリアは話が見えずきょとんとしている。



(何の話をしているのやら……)



 れ聞こえてくる会話に、ルーカスは苦笑いを浮かべた。


 黒いローブの少女が街中で暴れた騒動そうどう以来、ルーカスは邸宅で過ごす時間を増やした。


 双子の姉妹とリシアの護衛がき、イリア自身も戦い方を思い出したとは言え、女神の使徒アポストロスが表立って動いた事は脅威きょういだ。


 いつまた襲撃があるかわからない。


 イリアの騎士として——彼女を守る為、出来る限り傍にいていざという時に備えようと思った。

 

 幸いと言えばいいのか、歓迎式典の当日、警備に当たる予定の人員は魔獣討伐任務から外れていた。


 そのため書類仕事が主になり、持ち帰れる仕事を家へ持ち込んで執務室でこなす日々を送っている。


 とは言え緊急をようする有事には、現場へ出向かなければならない事もあるのだが——ここ数日はそう言った事案もなく、救援要請も少なく平和なものだった。


 一方でイリアはと言うと、戦い方を思い出して以来、時折双子の姉妹と剣の鍛錬たんれんをする姿が見られた。


 そしてルーカスが執務室で仕事中は、同じ部屋で読書をして過ごした。

 きっかけは「少しでも私に出来る事はありませんか? 何でもいいので役に立ちたいんです」と言うイリアの言葉だ。


 「なら、君のれたお茶が飲みたいな」と言ったルーカスにこたえる形で、給仕の真似事を始めた。



(気付けば、執務室で一緒に過ごすのが当たり前になっているな)



 時折、いらぬお節介を焼く双子の姉妹とリシアのせいで、イリアと二人きりになる事もあった。



(……正直、二人きりは気まずい)



 彼女といるのが嫌なのではない。

 変に緊張してしまって、仕事に身が入らないのだ。


 周囲が自分とイリアの仲を取り持とうとしたり、登城する度にゼノンが揶揄って来たり——と、何だかんだあるが、襲撃のあった事が嘘の様におだやかな日常が流れていた。


 ルーカスは四人が談笑する姿を時折眺めながら書類仕事を進め、一段落が着いたところで窓の外へ目を向ける。


 陽が高い位置にのぼっている。

 もうすぐお昼時だ。



(一旦、休憩にするか)



 ルーカスは一息入れようと椅子から立ち上がった。


 そんな時だった。

 「コンコン」とノック音が響き、「ルーカス様、お嬢様方」と扉越しに執事長の声が聞こえたのは。


 音を聞いたシェリルが読んでいた本を置いて立ち上がる。

 そして扉を開けて、燕尾服に身を包んだ白髪緑眼の年配の男性を招き入れた。


 彼は長年公爵家に仕えている執事長しつじちょう

 名はフランツと言う。

 屋敷では執事長と呼ばれるためその名を聞く事はあまりない。


 執事長は頬に汗を伝わせ、何やら焦った様子だった。



「何があった?」



 ルーカスが声をかけると、執事長はごくり、と息をんだ。



「今しがた、奥様がお戻りになられました」



 執事長が奥様と呼ぶのは一人。

 公爵夫人、つまりはルーカスと双子の姉妹の母親である。


 ルーカス達の母は、王都から東のリエゾンよりも更に東にある、グランベル公爵家の領地ラツィエルで領主の務めにはげんでいたのだが——聖地巡礼ペレグリヌスの開始に合わせ戻って来る事になっていた。



「母上が?」



 戻るのは確か明日と聞いていたので、情報の齟齬そごに首をひねる。



「それが……途中で供の者を置き、早馬で来られたそうで」



 汗をぬぐいながら話す執事長と会話していると、部屋の外が何やらざわついてさわがしくなる。


 そうして、「奥様!」と侍女の制止する声が聞こえたと思えば、次の瞬間には「バン!」と扉が乱暴に開かれた。



「ルーカス! シャノン! シェリル!」



 良く通る高い声を響かせて執務室へ乱入したのは、桃色のウェーブがかった髪を揺らした、淡いくれないの瞳の女性。


 白と赤を基調とした布地の、金の勲章が輝く儀礼服に身を包んでおり、その容姿は双子の姉妹によく似ている。


 彼女はユリエル・フォン・グランベル。

 ルーカスと双子の姉妹の母親で、グランベル公爵夫人その人だった。

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