8話 Ass-kisser ルブリの戦術

 鎖骨を打たれたダメージで右手が動かせない。右脚も刺されている。移動は二ブロックで限界がきた。

 ルジェタ・ホッジャは、壁面がスクラッチタイルでおおわれた古いビルまでくると、半地下になっている出入り口におりて倒れ込んだ。

 とりあえず風をしのげる。人通りはほとんどないが、人目につかないスペースが必要だった。多少とも安心感をえられる。

「な、な、なんだ、おまっおまえは!」

 誰もいないと思っていたが、一人いた。奥まった場所で汚れた毛布にくるまった男が、目を見開き、酸素がたりない金魚みたいに口をパクパクさせている。

 わからないでもなかった。ルジェタは片脚から流血している満身創痍だ。殺気立った凶徒の風貌の女が転がり込んでくれば、背中をかけ上がるのは怖気でしかない。

 とはいえ、ここで黙っていては、寝る場所をとられると考えたらしい。男が、毛布を握りしめながら震えた声をあげた。

「こ、ここは、お、おれがいつも寝てる場所だ、寝るんならよそよそ……⁉︎」

 ルジェタは無言で、紙幣を男の鼻先に突き出した。

 男の目が、黒い冠にしゃくを持った姿が描かれた札をとらえる。

 クレームが途切れた。

 ルジェタの手から素早く金をとると、すぐに毛布をまとめた。所持品をつめこんだ大きなボストンバッグを抱える。一〇秒後にはルジェタひとりになった。

 ルジェタは壁を背にして、もたれかかった。受けた傷を確かめようと、動く左手をのばす。ダメージを受けた鎖骨の周囲が腫れていた。皮膚をなぞるだけで痛い。これは折れたかも。

 右脚は、金属製の棒状のものが突き刺さったままになっている。

 細いから、抜いてもたいした失血にはならないはず。反撃に利用された「武器」を引き抜いて投げつけた。

 半地下の壁に跳ね返り、そばに戻ってきた。忌々しい。

 独断専行にくわえ、少なくない部下を失ったことで、今度は自分が消されそうだった。

 ソニ・ベリシャに目をつけたのが、不運のはじまりだったのか。

 告別式に出ている知人を訪ねた仲間が、葬儀社のホールでソニ・ベリシャを見かけたと聞いた。ここから断ちかけていたソニへの未練が生き返った。

 持ちかけられたゲームにのったことにしても、感情が計画性を眠らせてしまったのか。

 ソニを自分の後継として育てたかった。

 男の構成員が圧倒的に多い<アクイラ>にあって、女というだけで軽くみられ、成果を上げれば妬みを買った。

 そういう輩は通じて、作戦に柔軟性がなかったり、先を見通す視点が欠けていたりする。さしあたっては、よけいな軋轢を大きくしない程度に無視していた。

 自分が上になり、そういった人間を排除していけばいい話だと思った。そうすれば組織もよくなる。

 仕事の区切りがついたときに思う存分呑む酒だけを楽しみにして、あとは仕事に尽力した。その甲斐あって、いまの地位に這い上がった。

 そうして後継を考える段になると、自分と同性を選びたかった。

 偏見といった無駄な障害がない場で仕事に専念できれば、どれだけのびるのか、みてみたかったのだが……。

 ここまでか。

 目指すものを失うと、身体を動かす気力がなくなった。ひととき休むだけのつもりが、このまま眠ってもいい気がしてくる。

「まだ寝るな。おれの話にのるなら助けてやるぞ」

 声はすぐそばから聞こえた。

 ここまで接近を許すとは、いよいよ本気で駄目なようだ。主導権を握る相手を確かめようと落ちかけていた瞼を上げた。

 中背で痩せ気味のやつが見下ろしてきていた。

 薄暗い中でも、金融機関のカウンターにいそうな男の容貌がうかがえる。背中を丸め、寒そうに足踏みしているところから、銀行員というより高利貸しの番頭といった風情だった。

「支払うローンなんてない。人違いよ。うせろ」

「軽口を叩く余裕があるなら、おれの話、聞けるよな?」

 膝を折り、こちらとの距離を縮めた。はっきり見えるようになった顔つきを見ると、やっぱり銀行員だった。

「聞こえただろ。動けないと思ってなめてんの?」

「そういきりたつな。追いかけてきたが、とどめを刺しにきたわけじゃない」

「……おまえ、フーバイロン婉月ワンユェの? どういうつもり」

「とりあえず鎮痛剤どうだ? 落ち着いて話を聞いてもらいたいんだよ」

 寒さで肩と脚の痛みが倍増している。気持ちが動いたが、苦痛だけを和らげても無意味だった。

「いらない。殺したいなら、さっさとやればいい。もう動きようがない」

 戻る組織は失ったも同然だった。時間と労苦をかけて得た自分のポストは、すでになくなった。

類沢るいさわルーシャン。ルブリでいい。潤滑剤みたいな役割もやってるから、仲間内ではそう呼ばれてる」

ルブリカント潤滑油? 二つ名か。よかったな、カッコいいぞ」

 投げやりな返答にかまわず、ルブリが話を続けた。

「あんたが相手をしてたやつ、おれの相棒なんだが、ソニ・ベリシャに肩入れし過ぎて、おかしくなっちまった。ボスは最初こそベリシャを利用するつもりでいたが、相棒が使い物にならなくなるんじゃ話は別だ。波風立てずに排除する算段だったが、優秀な仲間がボスの想定外の状況に展開させた。そこでプランBだ」

 ルブリが膝を折り、声を落とした。

「ベリシャを始末してくれ。おれもボスと意向は同じだ。相棒のためにベリシャを排除したい。ただ、相棒の目と耳が届かないところで片付けたい。おれじゃ表立って動けないんだ」

「で、外注すると」

「あんた、手ぶらのままじゃ組織に帰れないだろ。手土産にベリシャの死体でもあればどうなんだ?」

「…………」

「おれがサポートに入る。心付け程度だが、報酬もだす」

 ルジェタは胸中で算段する。金ができれば組織に戻らなくても、しばらくはしのげる。

「こいつで刺されたのか?」

 さっき投げつけた凶器を、ルブリがペンで引っかけ上げて眺めていた。交渉相手の背中を押してくる。

「見た感じ、肩もやられてるよな? 治療を遅らせると、あとあと面倒になる。そっちの手配もしてやろう」

 悪くないか……。ルジェタは手のひらを上に向けて出した。

「よこせ。痛くてたまらない」

「じゃあ、取り引き成立ってことで」

 鎮痛剤を二錠出された。

「ケチくさいことするな」

 ルジェタはPTP包装されたシートごと奪う。明らかに用量オーバーな錠剤をとりだすと口に放り込み、キャンディーのように噛み砕いた。

「鎮痛剤を持ち歩いてる理由は……いまは見なかったことにしておく」

「誤解するな。代用品ドラッグじゃない」

「なら、いい」

 普段どれほど優秀でも、クスリをやる人間は信用できなかった。クスリのために作戦を破綻させ、窮地に追い込むことも気にしなくなる。

「話がまとまったところで医者に連れていく。闇治療だから先に連絡を入れてくる。もうしばらくここで待っててくれ」

「それはいいけど、さっきから気になってることがある」

 公衆電話を探しに行こうとしたルブリが足をとめた。

「治療費はボスが出してくれるぞ?」

「ありがとうとでも言っておいて。で、おまえなんで磯臭いの?」

「優しさを恵んでくれる気があるなら訊かないでくれ」



 なんとしてでもルジェタを取り込む必要があった。

 そのためなら、尻にキスする「おべっか使い」にだってなれる。

 ひとまず成功させたルブリは通りに上がると、最初のビルの角を曲がった。背後をそれとなく確かめる。問題なし。

 それから街灯の下にいき、ハンカチにくるんでいた〝凶器〟をあらためた。

 ルジェタの右脚を裂くという無理な力がかかったせいで、いびつに曲がっているのが生々しかった。

 このブックマーカーでトニーは窮地を脱したのかと想像する。

 妹にブックマーカーをプレゼントしたと言っていた。贈ったブックマーカーと同じものをトニーも持っていたのか、手元にあった事情はわからない。

 ただ、挨拶をかわした程度——トニーがそれ以上、近寄らせてくれなかった——の妹が、こんな形でトニーを救ってくれるとは思いもしなかった。

 ルブリは捨てずに持ち帰ることにする。<テオス・サービス葬儀社>の設備を使えば、血を洗い流して滅菌することができる。

 大事に扱いたかった。

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