8話 彼女のボーダーライン

 バスの一件から<アクイラ>に加入させられたソニは、ルジェタ・ホッジャの指導を本格的に受けるようになった。

 ルジェタに付き従うか、死ぬか。

 選択肢がどちらかにしかない非合法組織の実地訓練に、ソニはただ必死になってついていく。最初は雑用と監視役からはじまり、すぐに実行のサポート役が加わった。

 仕事での使われ方は、トニーと動いている現在と重なるものがある。子どものほうが目立たなかったり、油断させることができる役をした。

 早い段階から、そういった仕事をしていたのは、ルジェタのお気に入りになった影響が大きい。将来の右腕候補として育てることを幹部に承諾させ、特別扱いに異を唱えるメンバーには行動成果で黙らせていた。

 こうしてルジェタが、ソニが<アクイラ>という社会の中で生きるための〝先生〟になった。

 ルジェタが庇護者になったわけだが、安心なことばかりではなかった。課したトレーニングがこなせなければ、仕事でミスをすれば、食事も与えられない毎日になった。

 ——死んでも構わないなら楽をすればいい。でも、わたしはソニに死んでほしくない。

 ルジェタの鞭とアメは絶妙だった。鞭が多くてアメは少ないが、たまにしか与えられないからこそ、痺れるような甘さになった。

 ——ソニは、これからもっと成長する。わたしにその姿を見せて。そのために、わたしのスキルのすべてをソニに教えてやる。わたしと一緒にいこう。

 怪我が大きいと訓練を中止せざるを得なくなるので、そこは加減されていたようだが、身体に生傷がない日はない。

 苦痛ではなかった。これをマスターすれば、先生と一緒にいられる——。

 ルジェタはシビアなメニューでソニを鍛え、大人の構成員に勝るとも劣らない身体能力を引きだす。これにさらに語学の訓練を加えた。

 文法も発音もまったく異なる言葉にソニは苦戦する。悪戦苦闘しながらも、新しい言葉を覚えていくと別の人間になれる気がしてきて、いちばん楽しみな訓練になった。

 思えばこのときからルジェタは、国外の仕事についてこれるように準備をととのえていた。

 ソニはルジェタのもとで、堅実に経験を重ねていく。

 片付ける対象については、いつも何も知らされないままだった。ソニも知りたくなかった。

 知ってしまったら、何もできなくなる気がした。

 ——仕事の最中に思考や身体が止まれば、死ぬのは自分だ。だから片付ける相手のことは「目標」や「対象」と呼べ。

 先生の言うとおりにしたら、楽になった気がした。決して名前で呼ばず、無機的にあつかうことで、気持ちの負担が減ったのだと思った。

 そうするうちにバイロンが言ったとおり、残虐性を習い修めて生まれ変わったのだと思う。

 仕事で目標を追いかけていると、気持ちの昂ぶりを感じている自分に気づいた。

 人として許されないことをしているのだと、わかっている。民話の本で読んだ、人間を捕まえて食べるというボラ竜人にでもなった気分だった。

 同時に、安堵も感じていた。

 興奮にとらわれていれば、ボラになっている罪悪感を感じずにすんだ。当たり前を感じないでいることで、心へのダメージを減らした。

 それでも限界はおとずれる。

 ルジェタについての国外での仕事。サポート役として目標を追いかけている最中だった。

 このとき、ルジェタが別の仕事でいなかったことで分岐点があらわれた。



 異国の夜の人混みで、構成員たちが見失った目標をソニだけが補足した。低い視線の位置から、乱れたステップを踏む足を見つけ出し、先導してあとを追った。

 それでも飛び込んだ裏小路で、また取り逃しそうになった。

「ベリシャ、撃て! 逃すな! 殺せ‼︎」

 組んでいた構成員の怒声に、考えることなく身体が反応する。

 発砲音が重奏した。ソニと構成員、目標のものと。

 狂気をはらんだ形相の目標が、死に物狂いの反撃をかけてくる。

 互いが続けざまに発砲する。狭い路地で行き交う銃弾のうち何発かが、跳弾となって思いがけない動きをする。思わず伏せた数瞬の間で、目標の後ろ姿が再び小さくなった。構成員が追う。ソニも続こうとした。が、足が止まった。

 ゴミ箱の向こうに、人の手がのぞいていた。

 目標を追うより、倒れている人影に足が向いた。

 いつもなら、そんなことは絶対しない。不要な行動は、かならず懲らしめをうけることになる。皆の前で殴りつけられる仲間を何度か見ていた。

 しかし、ホームレスになった人が寝ているだけ——そんな都合のいい解釈をするには、その手は小さく、華奢すぎた。

 組んだ構成員が目標を仕留めることにしか眼中になく、ソニの行動に構っていなかったことが作用した。そしてなにより、この場に先生がいなかった。見過ごしてはいけない気持ちを抑え込むことなく駆けよった。

 倒れている全身を目にしたソニは愕然となる。

 自分が倒れているのかと思った。

 女の子だった。同い年ぐらいの子が、路上に横たわっていた。銃弾はどれも、壁を削ったものだと思っていたが違ったのだ。

 ハンドガンの反動で興奮していた身体の熱が醒める。一気に氷点下の水の中に飛び込んだような冷たさが全身を襲った。

 人殺しをしているリアルがそこにあった。

 腹部からのおびただしい量の出血が、反対側の路の端へと、赤くのびる川をつくっている。

 命令を実行している最中ということは頭からとんでいた。彼女のそばにひざまずいた。

 清潔なタオルなどない。パーカーを脱いで、圧迫止血をやってみる。声をかけ、意識を引きとめようとした。

「しっかり! いま、血、止めます!」

 うっすらと開いていた瞳が反応する。ソニに視線を合わせると、弱々しい声で訴えてきた。

「トニーに伝え……」

 消え入りそうなほど声が細い。耳を口元に近づけた。

「わたしの気持ちは『わたしは、あなたを忘れない』の……メッセージとは違う。『わたしは……あなたに会いた……い』のだ……と」

 途切れがちな言葉をどうにか聞き取る。聞いた言葉を復唱し、記憶に刻み込んだ。

 ブックマーカーを手渡された。

「渡す、ですか?」

 おそらく、これを贈ってくれた人への、お返しの言葉なのだと理解する。

 しかし、これだけでは足りない。ソニは焦った。瞼を閉じかけている彼女に必死になって呼びかけた。

「ファミリーネーム、教えるです! 家、どこありますか⁉︎」

 女の子の唇が弱々しく動く。どうにか勤め先らしい会社名を聞き取れた。

 やがて沈黙しか返ってこなくなった。

 ソニは呆然として女の子を見る。

 非合法な自分たちが通り合わせなければ、彼女が死ぬことはなかった。そんな自分に、最期の言葉を託して逝った。

 銃弾に倒れた姿が、実感をともなってソニ自身に入れ替わる。

 明日は自分かもしれない。

 ソニが追う目標は、いつも大人だった。大人の死だけを目にして、子どもの自分とは関係ない、異次元の出来事のように感じていたのかもしれない。

 逃げていただけだった。

 可能性はいつも紙一重のところにあり、ちょっとしたきっかけで、死の闇に覆われる。

 心の隅にありながら、普段は考えないようにしていた危惧が、はっきりとした恐れの形となってあらわれた。

 このままではいられない。彼女が、逃げ出す決心をくれたのだと感じた。

 銃を手にして昂る気持ちに慣れてきていた。人間に銃口をむけることに慣れてはいけないはずだった。

 善いことと悪いことの境界はどこなのか、ソニにはもうわからない。

 許される限界は、すでに越えてしまったのかもしれないけれど、せめて、これ以上は進みたくなかった。

 おかしいと感じられる今が限界点で、これ以上いったら後戻りできなくなる気がした。

 組織から抜けられるのは、死体になったときだけといわれている。

 といって、このまま組織にいれば、確実の最後の一線を越えてしまう。ただ生きてさえいればいいという考え方はできそうにない。

 先生の顔が脳裏にちらついた。

 先生と離れ離れになりたくなかった。

 けれど先生についていることは、唯唯諾々と命令に服したまま生きていくことでもある。

 そこに〝自分〟はいるんだろうか?

 自分は何をいちばんに求めるか……

 ソニは初めて能動的に動いた。

 この市の人口は40万人ぐらいだと聞いていた。目当ての人物が市内にいたとしても、名前だけを頼りに探し出すなんて無理な話だった。

 頼みを果たせないかもしれない。けれど、生きる目的にはなる。生き残ることが賭けなら、駄目でもともとで探してみるのもいい。

 自分が生き残るために、他の人を踏み台にしてきた。

 これで、ひとつぐらいは良いことができるかもしれない——。

 異変に気付いたらしい通行人が、ざわついている気配がする。これ以上、とどまっていられなかった。

 ソニは、走り出した。

 組織を抜けようとした者が、どんな目に遭うか知っている。それでも足は止まらなかった。

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