2話 Daily bread 日々の糧
市の北側に富裕層が集まる一方で、所得層が幅広く入り混じる南側は、治安が悪い傾向にある。
とりわけ、その南側にある市内最大の繁華街「ミナミ」とその周辺は、場所によっては犯罪に巻き込まれやすい箇所が点在していた。
地元住民の生活は、そういった場所を避けて展開している。所得が低ければ華やかな表通りだけで生活できるものではない。賃料の安さと安全面を秤にかけつつ、たくましく生活の基盤をととのえていた。
夜間はともかく、明るいうちなら賑わっているミナミ周縁の一角。トニーのアパートから、さほど離れていない場所に、その店はあった。
人付き合いの悪いトニーでも足しげく通うベーカリーは、店内に五人も入れば満員になる広さしかない。
そこに足を踏み入れるなりソニが一変する。カウンターにいる人物を見た瞬間、身を固くした。
髪をバンダナでおさえた女が、カウンターに積み上げた鉄板を拭いている。ソニの反応など気にもせず、手もとめないまま、柔らかい声をかけてきた。
「いらっしゃい。初めましてだね」
なお固まったままのソニに、
「この店の人は大丈夫。仲間? みたいなもんだから」
「疑問形をまぜないでよ、アントニア。お嬢さんの顔、見せてもらっていい?」
帽子を目深にかぶっているソニに微笑みかける。
目元と髪色を隠すために、トニーは来る途中、アウトドアキャップを買い与えていた。これならソニの活動的な服との違和感もない。
プレゼント主が頷くのを待ってから、ソニが帽子をとった。
「おお、美人さんだ」
そうして今度は物言いたげな目でトニーに、
「また、ずいぶん年下のコを囲ったね」
「いま、銃はないけどナイフは持ってるよ?」
つくった笑顔を見せつつ、カウンターに身をのりだすと、
「嗅覚がいい子ね」
自然に距離がつまったタイミングで、声をひそめて言った。スマイルは消えている。店に入った途端、同業者であることにソニが勘づき、警戒心を発揮したことを褒めていた。
「〝育てる〟なら、あんたも自重しないと。その子に悪いクセが付くよ」
「育てながら自分も成長しろってやつ?」
「最近のアントニアと組んでると肝が冷えるって、ルブリが言ってた。豪胆っていうより、雑になってるって」
「ああ……まあ」
「意地になって否定しないところは、まだ救いがあるか」
一瞥を投げると、それ以上追求しなかった。苦言も受け入れて立て直すか、なあなあで進んで崩れてしまうか。あとは本人次第だと割り切り、余計な口出しはしない。
営業用ではないスマイルを復活させた店員は、あらためて初めての客に身体の向きをかえた。
「わたしはノヴァク
ソニがトニーをうかがう。
「いちいち、あたしの許可いらないから」
「ベリシャ」
「ファミリーネームじゃなくて、な・ま・え。ファースト・ネームはおしえてくれないの?」
「ソニです。ソニ・ベリシャ」
「ソニ、ね。わかった。ソニはパンづくりに興味あるの?」
さきほどからリザヴェータの背後、レジカウンターの後ろにある工房が気になるのか、リザヴェータを気にしながらも視線を注いでいた。
「パン、違います。なかの小さい人、顔、悪そうです」
リザヴェータがカウンターに手をつき顔を伏せた。
「そういう表現したの、ソニが初めてだよ」
肩が震えているところを見ると、声を殺して笑っている。
さすがにトニーはたしなめた。
「ソニ……言葉がストレートすぎる」
これはこれで失礼だったか。
「言葉、間違いましたか? ストレート……あ、はっきり言う、だめです」
いたって真面目にリザヴェータに向き直った。
「ごめんなさい。顔、痛そう見えました。気になりました」
「悪気で言ったんじゃないの、わかってるから大丈夫。傷痕のせいで、すごい悪人ヅラになってるもんね」
工房のなか、ひとりで調理台と窯の間を行ったり来たりしている
「あと小っちゃいけど力持ちなんだよ、うちのダーリンは。パン生地全部、手ごねでつくっちゃうんだから」
「機械でやればいいのに。買うぐらいの財力あるでしょ」
聞くたびに胸焼けするダーリン呼びには、もう突っ込まない。趣味でやっているような店でありながら、あえて楽をしない訳をたずねた。
「道楽でやってるからこそ、好きにやるの。生地こねてるときが一番楽しいんだって。楽しいって、生きてくうえで大事だもんね。パン作ったことある?」
話を向けられたソニが、首を横にふると、
「酵母が働いてる生地って、ほんのりあったかくて気持ちいいよ。今度さわってみない?」
「構わなくていいよ。忙しいのに」
「お店の時間、短いです。なのに、忙しい……?」
ソニの目は抜け目なく、レジ横に貼ってある開店時間をチェクしていた。営業時間は六時間ほど、売り切れ次第閉店、休みは不定休。
「仕事は見えてるところだけじゃない。店は閉めていても奥で準備してるとか、店以外での仕事もある」
トニーは、自分たちの仕事でたとえた。狙う相手が大きいほど、事前の下調べや監視時間が長くなる。こう説明すると、わかりやすいらしい。
「まあ店開けてる時間が短いのは、イレギュラーな仕事に応えなきゃいけないせいでもあるんだけど」
「……別の仕事、ありますか?」
「そのうちまた会うだろうから、そのときわかるよ」
あまり長居すると、じゃまになる。トニーはいとまを告げた。
「わざわざ寄ってくれて、ありがとね」
店を出ようとして、はたと足を止めた。リザヴェータに視線を戻す。
「ん? ソニのお披露目に来てくれたんでしょ?」
慌てて身体も店内に戻した。明日のパン《糧》を買い忘れるところだった。
トニーが店を出ると、小麦粉でTシャツを装った流花が工房から出てきた。
「アントニアの様子、どうだった?」
傷痕が頬の皮膚を引っ張るせいか、発音に少し不明瞭なところがあった。
「持ち直してる感じかな。あと、かわいい子だね、ソニって。ルカも話せばよかったのに」
「怯えると思って」
「いやあ、ソニちゃんは傷痕ぐらいじゃ動じないと思うよ。子どもだからって
リザヴェータは、壁際においてあるスツールをパートナーの前においた。自分はカウンターにもたれて一休みする。
「
「アントニアが聞いたら否定しそう」
「だよね」
笑ったリザヴェータだが、すぐに笑みを引っ込めた。
「でもソニのこれからを思うと、気楽にみてるだけの気分じゃないよね」
流花もうなずく。
「バイロンの選別眼に、素直に賛辞を贈る気にはなれないよ」
頬の傷痕にさわった。
ボスとしての力量は認めていた。ときに個人の感情を無視して、組織の利益を優先させる冷徹なところも。
だからまだリザヴェータも流花も、<ジュエムゥレェン>から離れられないでいる。
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