その日、妻が猫になった理由

那智 風太郎

 朝、目覚めると妻が猫になっていた。

 

「あら、おはよう、あにゃた」


 ご機嫌な声に振り向くと、キッチンにエプロン姿の大きな三毛猫が立っている。


「あの、えっと、その、おはよう」


 寝ぼけているのかもしれない。

 目を瞬いた僕に猫はその三角の耳をパタパタとさせた。


「休日にゃんだから、もうちょっと寝てても良かったのにゃあ」


 彼女は金色の瞳を糸のように細め、それからガスレンジに向き直ってフライパンを軽く揺すった。


「朝ごはん、もうすぐできるにゃ」

「え、ああ、うん」


 あまり腹は空いてない、というかそれどころではない。

 僕は目をギュッと瞑り、夢なら醒めよと念じる。

 けれど願い虚しく、目を開いても妻と思しき三毛猫はそこにいた。


「とりあえず顔を洗ってきたら」


 云われるまま洗面所に向かい、鏡を覗き込むと青ざめた自分の顔がそこに映っていた。そしてざらざらした顎ヒゲを撫でると昨夜の顛末が甦る。

 

 サブスクで洋画を観ていると後ろから肩を叩かれた。

 振り返るとパジャマ姿の妻がいて、夜更かしは良くないと注意された。

 明日は休日なんだから少しくらいは構わないだろう。

 けれどその反論が僕の口から出ることはなかった。


 僕は素直に映画鑑賞を打ち切り、歯を磨いてベッドに潜り込んだ。

 そして羽毛布団を被って深いため息を付き、こう呟いたような気がする。


「……いっそ彼女が猫なら良かったのに」


 猫なら僕にそんな干渉はしないはずだ。

 そんな単純な発想からつい出てしまった言葉だったように思う。


 でもまさか、それで……。

 いやいや、ありえない。


 僕はブンブンと首を振り、冷水で何度も顔を洗った。


 キッチンに戻ってみると三毛猫はダイニングテーブルの席に着いていた。


 よく焼けたトーストにサニーサイドアップの目玉焼き。

 自家製ドレッシングが掛けられたレタスとプチトマトのサラダ。

 そしてマグカップのコーヒー。


 僕はおずおずと差し向かいの席に座る。


「ねえ、今日にゃんか用事ある」


 そう切り出した妻はマグカップの取っ手に三日月のような爪を引っ掛けて口もとに運んだ。

 本当は気晴らしに一人でどこかに出かけようと思っていたが、なんとなく言い出せなかった。

 

「いや、別ににゃい……あ、いや、ない」


 そう答えて上目遣いを向けると縦長に窄んでいた彼女の瞳がまん丸になった。


「にゃあさ、久しぶりに公園に行ってみにゃい。桜が見頃らしいよ」


 マジマジと見詰められ、僕は気圧されたようにうなずいてしまう。


「ま、まあ、いいけど」


 すると彼女は嬉しそうに両頬から突き出た長いヒゲをピンと張った。

 

 動揺を鎮めようとコーヒーを啜ると生温かった。

 そして彼女と同じようにトーストにジャムを塗り、無造作に齧り付くとたちまち口いっぱいに妙に魚臭い風味が広がって僕は顔を歪める。


「なに、これ」

「にゃにって、ちゅーるにゃ」


 目線を手許に落とすと、絞り出して平らになったチューブがテーブルにあり、マグロのイラストが描かれていた。

 三毛猫妻はさも当然といった様子で大きな口に齧りかけのトーストを放り込んだ。


 


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