3−5 燃える酒とふたりの夜
クァッレとヴァヅラの交替に先立ち、ちらほら冬に連なる星たちが空を彩り始めた、とある夜。リヴェレークは晩酌をしないかと伴侶からの誘いを受けた。
新品の寝間着に袖を通す。薄明の空を映す水面の色をしたそれはもちろん、夫婦の夜を過ごすための気合いを示しているわけではない。おまけのつもりか、糸屑拾いが去ったあとのベッドにふたりぶん置かれていたものだ。
込められた要素が相変わらず強力な代物であったため、夜間――とくに寝所での場面が描かれた書の迷い路対策として保管していたのだが、寝間着が一周したところで、リヴェレークがベッドの上で揃いにするつもりはないのだと知ったルフカレドが残念がったのである。
それはわずかな表情の変化だったが、家の中で彼が不便をしていないか気にかけていたため、気づいたのだ。
言葉にすることが重要だといっても、そこにこだわりすぎてすれ違ってしまうのでは意味がない。ここは小粋に揃えてやるのが年長者というものだろう。
(少し肩のところが大きい。でも魔法がしっかり効いていて、暖かい)
聖人はゆっくり風呂に浸かるのが好みらしい。読書をして待ちたいところではあるが、ここはぐっと堪え、魔女は寝室のテーブルを整え始めた。
グラスの中でとろりと蝋燭のように揺れるのは火夜鳥の酒だ。
時おり爆ぜるかたちは羽毛模様で、新鮮さの証でもあるその温もりにリヴェレークは口もとを緩める。いい酒が手に入ったと帰宅するなり晩酌の提案をしてきたルフカレドは相当にご機嫌であったので、これは期待できるぞとリヴェレークも楽しみにしていたのである。
顔を近づければ
「美味しいです。まるで砂糖を焦がしたのを逆さに辿っているような……――そしてこれはなんでしょう」
作法に則ってまずは酒に手をつけたが、実は先ほどからリヴェレークの視線を奪い続けているものがある。そんな小鉢について言及すれば、隣に座る伴侶の興味がどこへ向いているか気づいていたルフカレドは、いくらか苦みを含む笑みを浮かべた。
リヴェレークと揃いの寝間着は色あいだけが異なっており、沈む陽の、水面の縁をなぞっていくよう。
「ただ炙ったくらいで、クァッレの料理みたいに凝ったものでもないんだが……ちょうどこのまえ、葉を落とした樹牛を見つけたからな、漬けておいたんだ」
樹牛とはその名の通り、樹木に似た牛だ。葉のような形の体毛が吸収した陽光の要素は、落葉――年に一度の換毛期にいっきに体内へ取り込まれ、冬のあいだの養分となる。これからの季節が旬なのである。
「黄卵は秋酔いのものですか? 濃厚と濃厚がこんなにもうまく掛けあうなんて……とても、美味しいです」
「それはよかった」
ルフカレドは人間に紛れる際、軍人として生活をすることもある。本人は食べることにこだわりを持たないようだが、手軽さが求められる簡単な料理を基本にし、その場で食材を調達して作る季節の料理も得意であるらしい。
魔女は聖人に期待の目を向けた。
もちろん古くからの友人が作る料理がいちばん好きであることに変わりはないが、自分で作れない以上、美味しい料理はいつだって大歓迎なのである。
互いに酒には強い質だ。会話は滑らかに進み、長い夜は更けていく。
近頃は骨董品の収集に興味を持ち始めたのか、寝室にはルフカレドによってさまざまな国の照明器具が持ち込まれていた。いくつもの光源からなる輝きは複雑な角度で影を折りかさね、見慣れたはずの壁はどこか色めいて見える。
聖人が何度めかの酒瓶を持ち出してくる頃あい、そういえばと魔女が訊ねるのは先日作った魔法具についてであった。
「鱗粉印鑑は、うまく機能していますか?」
「ああ、かなり評判がいい。妖精の個体によって契約の種類に向き不向きがあるんだが、鱗粉を混ぜることでより最適な組み合わせを作れるようにもなったんだ。君が考えたような楔の代わりとしてのみならず、幅広い契約に対して効力を発揮するようになったから、多方面に喜ばれているな」
ついでに戦のための仕込みもしやすくなったと、苛烈を含んだルフカレドの笑みは重なる光のなかでも異彩を放つ。
それにしても――リヴェレークは思考のかさを増した。
(楔だった妖精姫は)
「あの妖精は、今……リヴェレーク?」
「いえ……ちょうど、わたしも同じことを考えていたのです」
沈みそうになっていた思考を掬いあげるような声。そんな彼の選択に感謝を込めれば、先ほどとは打って変わり、やわらかく頬が緩められた。
国すらも燃やし尽くす火の色は、今ばかりは温もりだけを灯している。
「君が救った妖精なら、大丈夫さ」
王族としての役割をめぐり、心を崩しかけた囚われの妖精姫。
あれから彼女は、「百年……は長すぎると思いますけれど、ゆっくり世界を周りながら、わたくしが心から育みたいと思える契約を見つけようと思います」と告げて一族のもとを離れたという。
「たしかに魔法具は役に立ったようです。けれど、そもそもあの妖精姫を楔から解放しようと思ったのは、わたしが他人の幸せを知りたかったからなので」
「自分の利益を求めたゆえのあの印鑑は、善意の表れではないと?」
「これは魔女の傲慢なのでしょう。もしかすると、わたしは、自分が想像した結末を辿らなかったことに不満を抱いているのかもしれません」
どこか曖昧を切り取るようになった魔女の言葉に、聖人が気がつかないはずもなく。
軸のない会話の流れを断ち切るように彼は息を吐いた。
「……リヴェレーク。君は、なにを気にしている?」
この聖人の本質は、真実、火であった。
ゆら、と翳りは絶えずかたちを変え、触れてもよいと思わせるような融食を見せたかと思えば、次の瞬間には静謐すら飲み込む深淵を見せる。
たったいま、リヴェレークが縫い留められたように。
「自分を、善人だと思ったことはありません。わたしが気にしているのは――」
そんなルフカレドに話してよいものかと逡巡し、それでもこの積み重ねこそがと信じるがゆえに。
リヴェレークはまっすぐ、熱の灯る瞳を見返した。
「代替物を作ったことが――楔の妖精姫にも代わりがいるのだと教えたことが……彼女の幸せに繋がるのか、確信を持てなくて」
契約魔術の光よりも、広げた羽に透かした陽光の似合う妖精だった。そんなささやかさを、かの王族らは厭うてきたのだろう。
しかしそこにはなんの災いもなかったのだと思えばこそ、契約妖精の従姉妹の会話にあった「あなたらしく」という言葉の残酷さが際だつというもの。
(物語ではよく、「あなたにしかできないことがある」と励ます場面が出てくるけれど)
リヴェレークはそういった善意に懐疑的だ。代わりがいるからこそ踏ん張れることだってあるだろうし、実際にはいくらでも代わりのきく彼らを羨ましく思ってすらいた。
やはりこれは魔女の傲慢なのだろう。
「代わり、か」
「自分の代わりがいる状況なんて、わたしたちなら、誰かとの関係性のなかでしか得られないでしょう」
「俺たち夫婦のように、か?」
「はい。ルフカレドはわたしに対し、ちょうどよかったのだと言いました。あなたの妻という役割において、わたしには代わりがあり得ました」
魔女と聖人にとって、代わることはすなわち命を終わりを示す。
ひとつの要素につき、ひとりだけ。
自分の生において代わりはおらず、つねに一意のものとして扱われる。その重責はいかほどか。かけがえのないものと尊ばれ、それゆえに心を壊してきた長命の生き物を、リヴェレークは幾度となく見てきた。
あなただけ、などという付加価値の重さを、よく知っているのだ。
おもむろにルフカレドの手が伸びてきて、そっとリヴェレークの髪に触れる。丁寧に触れられれば触れられるほど、ふたりの、今はまだ歪な夫婦の輪郭が浮かびあがるよう。
「かけがえのない家族、友人、崇拝の向く先。それらは心や言葉、あるいは時間を重ねてできるものです。作れるものなのです」
たとえば明星黒竜の友人をリヴェレークはかけがえのない存在であると考えているが、あのとき声をかけてきたのが別の者であれば、大事な友人はその者だったかもしれない。あるいは心を通わせる前に別れ、孤独のままだったかもしれない。
(でも、トーン・クァッレだった)
別の誰かだったかもしれないからこそ、大事に思えるものだ。代わりがいないからと生みだされる好意を信じられない程度に、リヴェレークは潔癖であった。
「代わりがあり得たからこそ、わたしは友人をいっとう大事にします。あなたのことも、そうしてゆきたいのです」
はっと息を呑む音がして、髪に触れていた手が離される。
「…………君は……そうか、そういうふうに考えるんだな」
隣から見上げたルフカレドの瞳は、静かに酒が揺れるのを捉えていた。
(このひとの在りかたは、どこか静謐と似ている)
自身の要素の拡がりに満足しては、その大きさを知って途方に暮れて。ふとした翳りに無防備なほど揺らぐ。
孤独に掠れた者や愛情に飢えた者の心は、たいてい砂漠にたとえられる。彼らは求めていたものを得ることができたなら、乾いた砂のようにたちまち水を吸収し、豊かになるものだと。
しかしリヴェレークのそれは違う。
ひたひたに満たされた水の中で、それらはぴんと張り詰めていて、こちらとあちら、見えない境だけがただ在り続けた。
(悲しかったのだ)
孤独のかたちを異にしていることが。すぐそこにあるはずの幸福を掴む方法すら、わからないということが。
「わたしは幸せになることを望みながら、自分の幸せのかたちを知らないのです」
けれどそれが物語にあるようなものだけに限らないのだと知っている。
あるいは自分には適用されないものと思い込んでいただけで、自分事にできる物語もあるのかもしれない。
婚姻に繋がる愛情がどのようなものか、リヴェレークの理解は知識の段階に留まる。それでも、ともに幸福へ歩んでいくというかたちなら、実現できるのではないだろうか。
「ルフカレドは知っていますか? 自分の幸せがどういうものか」
覗き込むように見上げれば、聖人は一瞬目を泳がせ、それから、ふっと笑った。
「この家がそれを許してくれるなら、すぐにでも手に入れられる気がするな」
「それは……わたしも教えてもらえるのでしょうか」
「ああ、そうだな。君はよく話をしようと言うが、俺の場合、手が先に出てしまうから――」
いつの間にかグラスを置いていたルフカレド。
火の気配はたやすく静謐の領域へ踏み込み、ひとりと口づけが落とされる。
触れたところから広がる熱は酒がもたらす酩酊よりもずっと甘く、腰に回された手は、前よりずっと深いところにあった。
緩急をつけ、角度を変えて唇が触れあわさる。
ふたりの呼吸は境を失くしていく。
火の色の中ではち切れそうに輝く青に、リヴェレークの青色が映り込んでいた。
こちらを射抜くような視線さえ熱を持ち、しかしそこにあるのは窺いの意。先へ進んでもよいのか。問いかける余地を、彼は残していた。
言葉に、できない。
気づけば視線は逸らされていて。
「……いや、まだやめておこうな」
拒むだけの理由など、もうなかったはずだ。
(だけど、もし)
それは恐怖だろうか。
――もし、わたしの色を垂らしてみても、彼が少しも染まらなかったら。
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