怪物の哀歌 - Lamentation des Monstres

倉石ティア

第1話 -前-

 黒煙が漂い、死の匂いが強まっている。

 戦場だった。虐殺の現場と言い換えてもいい。

 ひび割れたヘルメットを脱いで、私は額の汗を拭う。

 国が総力を挙げて結成した軍隊も、過去に例のない規模の被害を受けた。私の他に生き残った人間がいるのだろうか? 直接の連絡を取り合っていた仲間も、死んだに違いない。

 繰り返す応答の要請に、誰も反応しない。舌打ちしても収まらなかった怒りのままに、ヘルメットを地面へ叩きつけた。防弾仕様の強化ガラスは打ちどころが悪かったのか、粉々になって割れた。

「粗悪品を寄越しやがって」

 八つ当たりだと分かっている。それでも、誰かを恨まずにはいられなかった。

 どうやら、私の仲間は全員死んだらしい。装備のほとんどを失った私は、最後の生き残りとして怪物に対峙していた。

「化け物め」

 犬とワニ蜥蜴トカゲ蜈蚣ムカデ。怪物は、様々な生物が無節操に融合したような、グロテスクな見た目をしていた。数十発のミサイルを浴びても死ななかった怪物は、私が乗っていた戦闘機の自爆特攻によって地に伏した。使う予定のなかった緊急脱出装置によって機外に放り出された私は、本来ならここに立ってないはずの存在だ。

「こいつを殺すために、いったい、何人が犠牲に――」

 考えて、諦めて、首を横に振った。

 人智の及ばない怪物との戦いは、私が生まれた頃から続いている。戦いに理由を求めるより、結果に救いを見出す方が容易い。私は、そうやって生きてきた。

 巨躯を横たえた怪物が本当に死んだのか、体力の回復を図っているのか。唯一、手元に残っているナイフを構えて、ゆっくりと近づく。超巨大な怪物を前にして、根源的恐怖が私の足を竦ませた。

「怯えるな、私。進め、私」

 自分に言い聞かせながら、ゆっくりと歩く。

 私と怪物の体格差は、まさにアリと巨象だった。スナック菓子みたいに戦闘機を砕き、バターのように戦車を裂いた怪物が、血塗れになった巨体を横たえている。私達が勝てたのは奇跡か、それとも更なる災禍への前祝いか。

 臭気に顔をしかめながら、怪物の元へと辿り着いた。怪物の体表は高熱を保っていて、手袋越しに触れても火傷しそうだった。分かっていたことだが、確かめずにはいられない。こいつは本当に死んでいるのだろうか?

「……死亡の確認は難しいな」

 心臓の位置すら定かではない。突如として地上に現れ、瞬く間に世界の敵となった怪物は、個体による差異が激しい。生物学者は匙を投げては拾い直し、日夜研究を続けている。死ぬからには生物だろう、と軍人達は口を揃えるが、それが分かったところで何も解決はしないのだ。

 怪物を滅ぼすための戦いは、世代を跨いで続いている。

「どちらかが滅びるまで、殺し続けるしかない」

 上官が何度も繰り返す言葉を、静かに反芻した。

 本当にそうか? そうなんだろう。だって、既に多くの同胞が死んでいる。貧弱な装備では死体撃ちをすることも叶わず、私はナイフを仕舞う。死んだ仲間のことを考えると、忸怩たる思いだった。

「まずは基地に連絡を入れないと……」

 命を惜しむわけではないが、救援を要請する必要がある。戦闘時の状況を正確に把握しているのは、生き残った人間だけだ。今は、私が唯一の該当者になる。状況を開始してすぐ通信が途絶したせいで、部隊の連携も酷い有様だった。いや、どちらにせよ、人類が被害なく倒せるような相手ではないことは確かだったけれど。

 通信が復活するまでの間、迂闊に行動して命を落とすのは避けなくてはいけない。拓けた場所で救助を待とう。そう思った矢先、肉と肉が擦れあう音が聞こえた。不吉で、不快な音だ。音の発生源へと振り返る。そこには、死んだはずの怪物しかいなかった。

「…………ッ」

 どくん、どくん、と音が聞こえる。

 自分の心臓の音、だけじゃない。怪物の心音か? 拍を重ねるように、ふたつの鼓動が私の鼓膜に届く。助けてと誰かが呼ぶ声が聞こえた気がして、気付けば私は走り出していた。

「ちくしょう」

 引き抜いたナイフを構えて、怪物へと突撃する。怪物にとっての私は、コバエにも満たない矮小な存在だ。だからこそ、先制攻撃を仕掛けるしかない。微かなキズでもいい、それがいつかの致命傷に繋がれば。

 逃げたところで、私に居場所などないのだ。

「ッ、くそっ」

 熱気に耐えて怪物に近付く。無防備に晒された怪物の腹部へとナイフを振り下ろす。硬い。熱い。何度も振り下ろすうちに、ナイフが欠けた。心臓の位置は不明だが、怪物の体内から聞こえてくる音だけを頼りに暴力を振るい続けた。もし心肺蘇生機能を持つ器官が存在していたなら、数百を超える犠牲が無駄になるかもしれない。

 それだけは避けなければいけない。

 死んだ仲間のためにも。

「届け、届け、届けっ!」

 無我夢中でナイフを振り下ろす。

 訓練では、想定もしていなかった事態だ。

 傷ついた体表から滲む怪物の血が、白い煙を上げている。それが有害なガスによるものか、熱による蒸気なのかを判断する必要はない。今の私に出来ることは、ただ、怪物の死を確実なものにして世界の秩序を保つことだ。

 死んでもいい。だから殺す。

 世界に、平和が訪れるなら。

 亀裂に指をかけ、熱に耐えながら怪物の体表を引き裂く。赤い肉が見えた。このまま肉を切り進んで、臓器を探そう。そして心臓を――。ミサイルすら防いだはずの表皮に私が傷をつけられること。その違和感に気付いた瞬間、私の身体は吹き飛んでいた。地面に背中から叩きつけられ、呻き声が漏れる。浜辺に打ち上げられた鯨が腐敗によるガスで爆発したのを見たことがあるが、それに近い現象でも起きていたのだろうか。本当に? まだ、死後数十分のはずだが――。

 必死になって身体を起こした私が見たのは、怪物の腹から白髪の少女が這い出してくる場面だった。身体の痛みも忘れて、少女の元へと駆け寄る。助け起こそうと手を伸ばし、そして、少女がただの人間じゃないはずだ、と気付く。

 人間が、怪物の胎内で生存できるのか?

 丸腰の彼女は、どうやって体表まで肉を切り裂いたんだ?

 無数の疑問が水泡のように浮かんでは消えていく。怪物の血で汚れているものの、美しい少女だった。真っ白な髪、透明感のある肌。深紅の潤んだ瞳が、私を捉えて離そうとしない。トドメを刺したのは、少女の喉から絞り出すような声だった。

「……ェ……テク……サ」

 助けを求めている。

 その直感だけが、私の心に働きかけた。

 微かに残っていた理性が、彼女を怪物の娘だと認識する。ナイフを振り降ろそうとして、しかし何も握っていなかった手のひらは虚空を彷徨う。迷い、悩み、最後には少女を助け起こしていた。

 なぜ?

 理由を問い詰めても、答えは出ない。

「……私は」

 私は、どうすればいいのだろう。

 高い体温を持つ怪物の胎から生まれた少女は、ひどく冷たい身体をしている。私の腕に抱かれ、少女は静かに呼吸を繰り返している。縋るように私に触れた彼女が、無防備に身体を預けてくる。一度は殺意を向けたはずの相手に頼られて、私は対処法も思い浮かばない。

 強大な人類の敵、その胎から這い出た少女を前に困惑は深まるばかりだ。この怪物の娘を、私はどうすればよいのだろう。

 思考を打ち切るように、腰に提げていた通信機器が鳴った。どうやら、通信が回復したらしい。耳を澄ませば微かに聞こえる音から、仲間達の死体の位置も分かる。そこに、もはや応答する人間がいなくなった通信機があるはずだ。

 刹那、脳裏に浮かぶのは惨憺たる光景だった。仲間の死体ばかりが浮かぶ妄想を振りほどいて、通信機のスイッチを押す。通信状況は芳しくなく、ノイズに紛れて男達の声が聞こえた。

「こちら、対特三課の矢矧です」

『矢矧大尉か。明智だ。状況を説明してくれ』

「明智大佐! 散々ですよ。実は――」

『部隊は、対象はどうなった!』

 割り込んできたのは、知らない男の声だった。

 悲鳴にも似た、悲しげな声に淡々と事実を告げる。

「……対象は死亡し、目標は達成しました。まだ確認は終わっていませんが、恐らく、部隊は私を除いて全滅です」

 簡潔な報告を終えると、管制室が静まり返ったのが分かる。怪物を倒した歓喜よりも、被害の甚大さを嘆く哀悼の意が強いらしい。私達がただの駒ではなく、彼らの仲間だったことの証左でもある。そう思うことにして、平静を保った。

 命を賭けたのは現場の私達だ。管制室にいる、あなた達ではない。

 再び聞こえた知らない男の声は、覇気を失っていた。

『そうか。ご苦労。……回収班を向かわせる』

「座標は分かりますか」

『辛うじてな。西に移動してくれ。拓けた場所があるはずだ』

「了解。大佐、あとで報告したいことが」

『分かった。まずは無事に帰って来い』

 明智大佐の声には陰りがない。心の強い人だ。

 通信を終えると、私は眠ったままの少女を抱いて立ち上がった。驚くほど軽い。怪物の腹から出てきたこの少女は、殺処分か、少なくとも研究対象になるはずだ。生きたまま解剖を受ける姿を想像して、身震いした。

 どうせ苦しむ運命にあるのなら、眠っているこの瞬間に命を奪われる方が幸せなはずだ。痛みも苦しみも、すべては夢の中での出来事に出来るなら――。

「…………」

 だが、この子が世界を救う鍵になる可能性も捨てきれない。体細胞を摂取するもよし、内臓の配置や機能を調査するもよし。怪物を殺すために、骨の一片までも利用させてもらおう。だが、もしも、この子を和睦の使者とすることが出来たなら。

「……無理か。無理だよな」

 そんな夢物語を捨てきれないから、私は仲間を失うのだろう。

 引退しよう。こんな甘っちょろい私は、もう戦場には立ってはいけないのだ。少女を抱えたまま西へ移動する。歩き始めてから少女が裸であることに気付いて、慌てて脱いだ上着を羽織らせた。

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