女神に、容赦はなかった

扉が開くと、少し老いたメスの人間特有の甘い香りがした。


嗅覚の解像度が低さを自覚する。

犬だった頃は、ドアの向こうにいる人間の体臭は、個人が特定できるくらいに判別できたのに。

本当にこの体は犬じゃなく人間なんだな、という今考えなくて良い事は思考できているのに、肝心の言い訳は何も思いつかない。


結局何一つ有効なことをできずにいた僕の前に、この体の本来の持ち主の母が、立ってしまった。僕は、険しい顔の中年女性から目をそらした。


この暗い雰囲気。

やはりこの母親は、息子の体が乗っ取られたと気づいている。罵声が飛んでくることを覚悟し、目を伏せた。


だが、数秒経っても、罵声どころか物音1つも聞こえてこない。

恐る恐る視線を前に戻して見ると、女性は立ったまま完全に停止していた。手も足も、瞬きすらない。

僕の視界の外にいた瞬間に、マネキンにすり替わったみたいだ。


何か、僕が知らない自然現象なのか。

それとも何者かが意図的に引き起こした状態なのか。

とりあえず背伸びして、中年女性の肩越しに部屋の外を観察するが、変な気配はない。

次に視線を下げて、僕の体を観察するが、普通に動く。

ピンポイントで女性の時間だけが停止している。


周囲の全てに怯えているうちに、犬だったときの癖で「うー」という犬の威嚇が人間の口から出てしまう。


なぜ急に女性の動きが停止したのか。もっと根本的なことを言うと、どうして、僕の魂は人間の体の中に入っているのか。この体の本来の持ち主は、今、どこで何をしているのか。

緊張と考えすぎで、頭が痛くなった来た僕の背後に、突如ヒトの気配を感じた。


もちろん、ありえないことだ。


さっきまでこの部屋には僕しかいなかったし、この部屋の唯一の入口には、僕と中年女性が立っている。僕に気づかれずこの部屋に入れるわけがない。


しかし振り返ってみると、そんな理屈を全て超越して、僕の背後に美少女が立っていた。水野瀬名より数歳年上で、肌の色は色白な水野瀬名よりもさらに白い。表情はあまりに乏しく、快活な水野瀬名とは方向性が違う神聖さをもつようだ。


そんな美女は僕と目が合うと、開口一番に「こんにちは、私は女神です。私が犬のあなたの魂を死人の体にいれました」と名乗った。


いくつもの疑問がボコボコと胸の中で湧き上がった。


色々言いたいことはあったが僕はとりあえず「この女性に何をしてるんですか」と目の前で停止し続ける中年女性を指さした。


「あなたと大事な話をするうえで邪魔でしょう。人間1人くらいなら、動きを停止させることくらいできます。私は神なのですから」と、女神は微笑んだ。


「じゃあ、その大事な話って何です?女神さん」


「水野瀬名は、トラックにひかれて死亡した後、異世界に転生しましたが、行方不明になっています。今からあなたには異世界に行ってもらい、水野さんを探してほしいのです。なお、


もちろん女神を名乗る女性の言葉が真実である保証はない。だが現に今、女性の動きを停止させるという魔法を見せている以上、女神という名乗りには一定の真実味がある。


「女神」の言葉を信じるなら、水野瀬名は生きている。しかも、異世界で。僕の生き死になんかより、ずっと大事な情報だ。


「良かった」

安堵の言葉が口から洩れた。

続けて「。今すぐは、異世界に行きません」と女神に返答した。

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無酸素転生 ~転生して異世界行ったら酸素がなかった件~ 広河長綺 @hirokawanagaki

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