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  • お札を納めるへの応援コメント

    都市伝説の自主企画に参加していただきありがとうございます。

    「通りゃんせ」は、私の大好きな童謡で個人的に歌詞の意味を調べたこともあります。
    作品の説が事実であるなら悲しいことですが、昔は生きることが精一杯の時代。
    きっと当たり前のように行われていたことだったのでしょうね…。
    日本の童謡は、紐解いていくと意外と恐ろしい事実が隠されていて驚きます。

    面白くも悲しい作品でした。
    ありがとうございます。

    作者からの返信

    梅田乙矢さん

    こんにちは、企画にお邪魔しております~。

    「通りゃんせ」お好きなのですか? 梅田さんの解釈とはきっと大幅に違っていたとは思いますが、よく知られている説をそのままもってくるのも詰まらないかなぁと、こちらの作品では想い切り想像の羽根をのばしました。信じちゃ駄目ですよ(笑)

    でも、似たようなことは実際にどこの村でもあったはずです。小さな村の中から一歩も出ることなく一生を過ごして死ぬ人が多かった時代ですから、きっと血も濃かったでしょう。

    都市伝説になるかどうかは分かりませんが、読んで下さって嬉しかったです。
    ありがとうございました。

  • お札を納めるへの応援コメント

    昭和、しかも戦後でもこういうことがあったと、東北の某所の方から伺いました。
    その方は「貧しかったですから」と言って笑ってらっしゃいましたが、重かったですね。言葉も空気も。

    通りゃんせの発祥は神奈川なんですね、知りませんでした。

    作者からの返信

    柴田恭太朗さん

    かなりの頻度で日常的にあった、と想っているのですが、語られるようなことでもないので、数も不明のままなんだろうなと。
    稲が改良される前の寒冷地の東北や、戦後直後なら当たり前のようにあったでしょう。戦後すぐでも、そのへんの溝に殺した赤子が捨ててあったようですから。
    産婆さんがいた頃の時代のはなしですよね。今だと病院に記録が残ります。

    神奈川県には、数か所、ここが発祥ですよという碑があって、正確な場所は分からないみたいです。

  • お札を納めるへの応援コメント

    読ませていただきました。
    読み終わったら雷が……、驚きながらコメント書いています(苦笑)
    福岡県博多駅の周辺の信号機が、自分が学生だった頃は「とおりゃんせ」が流れていたかと思います。人が多いのに、メロディーがゆっくりで印象に残っています。

    慣習や文化は、時代においては正しさや倫理観が全然違うものですよね。
    設定年齢などは全然違うのですが、蕨野行(わらびのこう)という映画を観たことを思い出しました。
    江戸時代くらいの、暗黙の掟。姥捨て山に自らの足で向かう老人たちの最期の生きる姿を描いた作品です(記憶では)。
    この映画はどちらかというと、前向きに生と向き合う姿を描いていましたが。

    今回の物語は、それすら選べない赤子や子供を、他の生きてきた慣習によって選ぶことから始まる。生きて幸せかの答えは、その時代でも現代でも、本人にしかない答えがないのでしょうが……。
    きっとあったであろう時代の果ての怪談だと思うと、切ないですね。
    堪能させていただきました。

    作者からの返信

    つくもせんぺいさん

    おおっ、♡のみの率が高いつくもさんから、☆とコメントが……!
    書いた甲斐がありました。
    大勢の方の作品を読まなければならないと云っておられたお忙しい身なのに、立ち寄って下さってありがとうございます。

    天神ときくと、地名があるだけに福岡と想ってしまいそうですが、「通りゃんせ」の発祥は神奈川とのこと。知らない人が多そう。
    昔は視覚障碍者のための合図として信号に使われていたのが、最近は鳥の声に変わっているので、「通りゃんせ」が鳴る信号はもはや淘汰されているかも。
    「通りゃんせ」のわらべ唄、いまの子どもたちは遊んだことがなくて、知らない子が多いかもですねー。

    姥捨山といったら、深沢七郎『楢山節考』のイメージが強いのです。『蕨野行』は、避けられない死に向かって自ら気分を上げていく老人たちの話でしょうか? 面白そうですね。

    老人殺し、子殺し、現実にあったかどうかは、「あった」でしょう。極限の飢餓になった時には、人間も共食いしますから。
    とくに子どもなど、小さな村の中では近親相姦に近い状態だったはずで、育てられないと判断される子もたくさん産まれていたと想います。
    たとえそうではなくとも、食べるものが潤沢にあったわけではありませんから。
    現代の尺度で「なんてひどいことを」とは云えないのは、戦争の時の殺し合いと同じでしょう。

    「通りゃんせ」の、行きはよいよい 帰りはこわい(行きも疲れた、帰りはさらに疲れた)と七五三から着想を得ましたが、怪談というよりは、幽霊の裏話みたいな。
    読んで下さってありがとうございました。

  • お札を納めるへの応援コメント

    ちょっと記憶の片隅に残されているかも知れませんが、16世紀に日本へ来たイエズス会の宣教師たちが残した書簡に、子殺しが日常的に行われていたと書かれています。それを見て悲しんだひとりの修道士が孤児院と病院を作ったわけですが。
    やはり怖いのは「日常的」になってしまう感覚でしょうね。理性のある人間であっても、「種の保存」という最大の目標のために本能が目を覚ます。法でさえ違法性阻却事由の緊急避難で大勢の命のためであれば個を犠牲にすることを認めている。
    生命について想いを馳せるとき「価値」という言葉が頭に浮かぶと「負け」な気がするのでした。

    作者からの返信

    西野ゆうさん

    究極の違法性阻却事由といえば、生き延びるために同じ人間を喰うということになり、「ひかりごけ事件」「ウルグアイ空軍機571便遭難事故」であったり、戦時下であったことなんかは、他の大勢を生かすためにそうなったという理由から無罪放免なのですよね。

    姥捨山があったのかなかったのかという話にもなるんですけど、天候によって食糧事情が大きく違っていた時代には、棄老も棄子も当たり前のようにあったはずです。
    共同体の判断でそうしただろうなと。
    こんなにも食べるものがないのに、あの家は畠を耕すには役にも立たん老人も子どももまだいるわ、ってなると、その村では生きてはいけなかったでしょう。

    江戸時代に来日した外国人なんかは「貧しくとも子どもたちがみんな笑顔で幸せそう」って書き残してますが、その頃でも、山に囲まれた僻地の貧しい村なんかでは、こっそりと、殺していたでしょうしね。
    飢饉になれば、「ひもじい想いをさせるのも可哀そうだから」という理由からも、幼い子どもから先に谷底に捨てたり殺しちゃってたと想います。

    あとは個人的な体験で、小学校に入った時、わたしを含めた春生まれの子たちが、何かとお世話係をさせられていたんです。
    紙に名前を書けと云われた時も、わたしは漢字で書けたんですが、ひらがなも書けなくて机の上にはみ出してしまうような子もいる。
    それで先生から頼まれて、付きっ切りで、『そ』はこうだよ、『ね』はこうだよって隣りの子に字を教えたりしていた。

    でも、九九も覚えられなかったような男の子なんかが、後から急激に伸びてきて学者になってたりしてました(笑)
    低学年ではまだ先が分からない子がいるんですよね。頭が良すぎてまだ頭の中が他のことへの興味で、混沌としてぱんぱんになっている。
    そういうことも書きたかったのかもしれません。