第35話 リゾート地『マルセル』

 王都パトリーは、日差しが強くなり、暖かく感じられる日が多くなってきた。しかし、650kmも南に位置しているマルセルでは、既に本格的な夏が、もう目の前だった。


 フィンは早速浮かれ気分ではしゃいだ。「夏のマルセルだ!いいね!理由なく楽しくなってこないか?騒ぎたい気分って感じ」


「そうでしょうか、ただ暖かいだけのように感じますが」


「何言ってんだ、夏のバカンスと言えばマルセルだろ。金持ち連中はみんなここに来て、夏のひと時を楽しむんだ。見ろよ、この燦々と降り注ぐ太陽!青い海!白い砂浜!そして水着のマドモアゼル!」


「水着ですか」ミュリエルは呆れた顔をした。


「だからってミュリエルは水着になっちゃ駄目だよ。その美貌で肌なんて出したら、男どもの目が眩んでしまう。でも、俺だけに見せてくれるなら、いつでも大歓迎だよ」フィンはミュリエルの髪に口付け、耳まで赤くなったミュリエルを堪能した。


 最初、ミュリエルはこういった性的な接触に反応しなかった。なぜだろうと考えたフィンは、ある仮説に辿り着いた。


 今までミュリエルに触れるのはモーリスやジゼルだけで、下心のある男から触れられた経験が無い。


 ミュリエルは、これが性的な接触だと理解していないのではないだろうか、それならばと、言葉と接触を組み合わせて、ミュリエルがフィンに、異性としての関心を向けるよう仕向けた。


 少しずつ慣らしてきた甲斐あって、最近では、フィンが触れるだけで、ミュリエルは顔を赤らめるようになった。


 最近フィンからのこういったスキンシップがやたらと多い、ミュリエルは、そんなフィンの意図をはかりかねていた。


「時間が惜しいのですから、急いでオートゥイユ邸に行きますよ」


「はーい。ねえ、ミュリエル。モーリスさんやジゼルさんやシャンタルさん、ギャビー一家と、エドガーさんとソーニャさん、みんなを誘ってビーチに遊びに来ようよ、俺、憧れなんだよね。ザイドリッツは南の海に面してない国だからさ、海で遊ぶことってあんまり無いんだ。病院の運営で忙しくなる前に、バーベキューとかしてさ、親睦を深めるのもいいんじゃないかな」


 ミュリエルとフィンは辻馬車に乗り込んだ。


「オートゥイユ邸までお願いします」ミュリエルは御者に行き先を告げた。「フィンさんは遊びたいだけでしょう?」


「夏は遊ばないと!ミュリエルに夏の遊びを教えてあげるよ。絶対楽しいって思わせるからさ。それに、きっとみんな喜ぶと思うよ」


「帰ったら考えてみます」旅行には行ってみたいし、モーリスやジゼル、ギャビーも喜んでくれるかもしれないと思うと、ミュリエルは少し心が躍った。


 心なしか嬉しそうにしているミュリエルを見て、フィンも嬉しくなった。


 ミュリエルにとって、モーリスとジゼルは昔から親も同然だった。この3人の間には、入っていけない強固な絆があると、フィンは感じていた。


 一方でギャビー一家は最近知り合った関係、とはいえ、不器用ながらも、ギャビーの母イザベルを姉のように慕い、ギャビーを妹のように、ユーグとティボーを弟のように可愛がっているミュリエルを、微笑ましく思っていた。


 そして、願わくば、自分を夫として受け入れてくれたら、どんなに良いだろうかと思っていた。


 馬車がオートゥイユ邸に着いて、フィンが来訪の目的を門番に告げると、すんなりと通された。


 ミュリエルは事前に、マドゥレーヌとギャスパー宛に、マルセルを訪れた際、尊宅へ伺わせて頂きたいと、手紙を書いて送っていた。

 ギャスパーはミュリエルたちが、マルセル領に到着したら、すぐに来訪を知らせるよう、マルセル領のゲートハウスに指示していたようだ。


 この対応の早さは、ミュリエルとフィンが馬車に乗り、オートゥイユ邸へ向かっていることを、既に知っていたに違いない。


 ミュリエルとフィンは、オートゥイユ邸のエントランスポーチに降り立った。2人を出迎えたのは、ギャスパーと執事や使用人たちだけで、マドゥレーヌや、その娘であろう幼子はいなかった。


「私はフィリップ・グライナーと申します。マルセル子爵オートゥイユ卿、お会いできて光栄に存じます。こちらはミュリエル薬師です」


「こちらこそ、今話題のお2人に会えて嬉しく思います。どうぞ、私のことはオートゥイユとお呼びください。パトリーから遠いマルセルまで、ようこそお越しくださいました」


 40代前半のギャスパーは、マルセルの日差しで、こんがりと焼かれた肌に、有名な美食家らしく、腹の突き出た体型をしている。


 明るく笑う彼を、朗らかな人なのだろうとミュリエルは思った。マドゥレーヌの朗らかさは遺伝のようだ。


 ミュリエルとフィンはドローイングルームに通され、2人並んでソファに座った。


「素晴らしい邸宅ですね。ザイドリッツやパトリーの建築やインテリアとも違って、温もりのある魅力的な佇まいで、自然との調和が、緩やかな時間を感じさせてくれる。まさに楽園ですね」フィンが言った。


「年中温暖な気候ですから、晴れた日に、テラスでランチをとる領民たちの光景は、マルセル名物とも言えます。美しい海を、いつでも見られるマルセルは、至高の街ですよ」ギャスパーは南部特有の方言で、弾むように喋った。


「移住したくなりますね」


「是非とも!ミュリエル薬師殿と、恋人のグライナー卿が移り住んでいただけるなら、マルセルにとって、どれほど光栄なことでしょうか」


 セレブレーションパーティーで、フィンがミュリエルをエスコートしたことで、フランクールは然ることながら、周辺諸国でも2人は恋愛関係にあると噂され、連日新聞の一面を飾っている。


 フランクールへ旅行に来ていたザイドリッツの伯爵令息と、王子に振られ、家を追い出された傷心の元侯爵令嬢が、フランクールの街で偶然出会った経緯は、劇的に誇張され、『永遠の愛をあなたに』というオペラが上演されるほどに人々を熱狂させた。


 慈愛の天使を振った王子を、大馬鹿者だと嘲る声が、囁かれていると知ったフィンは、にやりと唇の端を吊り上げて喜んだ。


 ミュリエルの名声が広まり注目されたことで、彼女の美貌に群がってくる男たちを蹴散らすため、フィンはこの噂を利用しようと思い、必要以上に体を寄せ、人前に出る時は、必ずミュリエルの腰に手を回して歩いた。


「私は恋人候補です。今はミュリエル薬師の助手の立場に甘んじていますけど、いつか彼女の心に寄り添う許可を得るつもりです」


 フィンからミュリエルを魅了するような、うっとりとした笑顔を向けられ、ミュリエルは頬を赤く染めた。


「おや、噂では相思相愛だと聞いていましたが、少し違うようですな。しかし、これは時間の問題なのだろう、お2人は、とてもお似合いだ」


「ありがとうございます。実はミュリエルと私は、友人を招いて、マルセルでちょっとした食事会を開こうと思っていましてね、どこか、良さそうな会場を、ご紹介して頂けたらと思っているのですよ」


「それは良いですな。レストランでしたら美味しいシーフードを出すレストランが、海沿いにありますよ。解放的なテラスもありますので、ご友人たちも楽しめるでしょう。船で島へ渡るのも良いですな、マリンスポーツも楽しめますし、1日遊べますからな。それにその島には小さいながら、若いカップルに人気の教会があるのですよ」


「それは良いことを聞きました。ミュリエル、私たちの結婚式場は決まったね」


 ミュリエルは肘で小さくフィンを小突いた。


「可愛い抵抗だな、無駄だよミュリエル。私は君から離れるつもりはないからね」フィンはミュリエルの手にそっと口づけた。


 からかわれているだけだと思っていたのに、最近になって、露骨に愛の言葉を囁くようになったフィンに対して、ミュリエルは恥ずかしいような、くすぐったいような気持ちになった。


 フィンは陽気で好奇心旺盛な人で、一緒にいると楽しかったし、ミュリエルの微小な表情の変化だけで、感情をみ取ってくれる彼と話すことは、ミュリエルに安らぎを与えた。


 多分、自分は彼に惹かれているのだろうという自覚はあったが、『好き』という言葉を出そうとすると、胸がいっぱいになり、上手く出てこなかった。


「オートゥイユ子爵には、とても良い情報を教えて頂いたので、お礼をしなければならないなミュリエル」


「ええ、私で力になれることがあれば——と言いましても、私はただの薬師ですから、お力になれることと言えば、お身体の不調だけでしょうね。例えば未婚のレディにあってはならない傷の治癒……とかですね」少し演技じみた言い方になってしまっただろうかと、ミュリエルは不安に思った。


 ギャスパーの朗らかな顔が一瞬で険しい表情になった。「それは、どういった意味でしょうか?」


「実直に申し上げて、失礼ですが、マルセル子爵令嬢は、お産の経験がおありではありませんか?お産を経験した女性というのは、体型が変わるものです」


 ギャスパーは怒りに震えた。「あり得ませんな、ドレスを着ているのですから、体型など分かりはしないでしょう。滅多なことを言わないで頂きたい」


 マドゥレーヌは、ゆったりとしたシルクのドレスを好んで着ているので、当然体型など分かりはしない。


 マジックワンドで診察すれば出産の経験があるかどうかは分かるのだが、ミュリエルはマドゥレーヌを診察したことがない。正直に話したところで、鳥が教えてくれましたなんて荒唐無稽な話を、誰が信じるというのか。体型で気がついたという無理な言い分を押し通すしかない。


「無礼をお許しください。仮に、そうであるならば、お助けすることができると思ったのです。私のポーションは、処女膜を再生するといった、不可能と思えるような治療も、可能にするのです」今度はごく自然に言えたと思いミュリエルは満足した。


「ミュリエルは困っている人を無視できない性格なんですよ。彼女のそういった、利他の心が暴走してしまったようですね、オートゥイユ子爵の気分を害してしまったようだ、本日はお暇いたしましょう」


 ギャスパーは平静を装い言った。「ハハッ!予想もしていなかった事に驚いてしまったようだ。年甲斐もなく声を荒げて申し訳なかった。お恥ずかしい限りだ」


「では今回のことは、お互い様ということで、いずれお食事でも、ご一緒いたしましょう」フィンが提案した。


「それが良いですな。日程を調整して、お誘いいたしますよ」


「お待ちしています」


 ミュリエルとフィンは席を立ち、執事に案内され邸宅を出ると、乗ってきた馬車に乗り込んだ。


「種はきました。後はオートゥイユ子爵の出方を待つだけです」


「それなら、今晩は海辺のロマンチックなレストランで食事をしよう」フィンはミュリエルの耳に指を這わせた。


 顔を赤らめ俯いているミュリエルを、フィンはくすくすと笑った。

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