第29話 アンドレの失敗
「アンドレ王子殿下、報告します。ミュリエル嬢が、野戦病院を開院されたそうです」アンドレの従者エクトル・ジュベールが報告した。
エクトルは、朝からアンドレの命令により、ミュリエル薬店まで出かけていた。
こっそりと偵察に行っても、どうせバレてしまうのだろうから、正面から訪ねて行って、ミュリエルと少し話をするのも悪くないと思い、ミュリエル薬店まで馬を走らせて来たのはいいが、ミュリエル薬店は閉まっていて、ドアに張り紙がしてあった。
張り紙には野戦病院の案内と、当面薬店を閉めることへの詫びと、クリストフ薬店へ引き継ぎをしているので、再診の患者はポーションをそちらで受け取ることができる、ということが書いてあった。
「野戦病院だと!そんな危険なことは、すぐに止めさせなければ!市井に降りるぞ」アンドレは、来月のシンポジウムの資料作成を放り出し、市井へ出かける準備を始めた。
王子のままで市井に行けば、目立ってしまうので、商人アンドレに変装する必要がある。
「何で野戦病院なんだ、野戦病院がどんな所か、ミュリエルは知らないのか?エクトル、ミュリエルに護衛は何人ついてる?」
「ミュリエル嬢は既に平民ですから、護衛はいません。モーリスという男と、以前お会いしたフィン、それから、アタナーズ商会の男衆が、護衛のようなことをしているようです」
「兵士の護衛がいないのか⁉︎男衆など側にいたら、余計に危険ではないか!あの美貌に目が眩んだ下衆どもが、彼女に襲いかかったらどうする!」着替えの手伝いに、もたもたした侍女をアンドレが叱った。「何やってる急げ!早くミュリエルを保護しなければならないんだ。私の妃になっていれば、こんな苦労をさせなかったのに!」
(クソッ!追い出したのは自分じゃないか)アンドレは自分が間抜けになった気がした。
ミュリエルに会いに行くために買った——裕福な商人が利用しそうな——馬車にアンドレは乗り込み、
「ミュリエルは何で野戦病院なんかを開設したんだ?」
「ミュリエル嬢は優しいですから、少しでも多くの命を救いたいと、思ったのではないでしょうか?」向かいに、礼儀正しく座るエクトルが答えた。
そうだ、ミュリエルは優しい女性だ。なのに私は、ずっとそれに気が付かずにいた。彼女を手元に置いて守らなければとアンドレは思った。
「フィンは何故止めなかったんだ。ミュリエルが危険に
馬車を引くノロマな馬に、殺意を覚えるほど苛立ったアンドレは、野戦病院に降り立ち、行列をなした平民たちを
「彼らはなぜこんなに並んでるんだ?こんなに大勢の人々が、並んでまでミュリエルに診てもらいたいほどの病気とは何なんだ」
エクトルが答えた。「冬ですから、流感ではないでしょうか?」
「流感ごときで、こんなに並んでるのか?きっとアタナーズ商会の奴らの仕業だろう、天使の異名を持つミュリエルを騙して、金儲けしているに違いない。これだから商人は卑しいと言われるんだ。金儲けのためなら、何をしても許されると思っていやがる。こんな野戦病院、叩き潰してやる」
アンドレは列の脇を通ってずんずん前に進んだ。
「ちょっと!お兄さんたち、困りますよ、列に並んでくれなきゃ。みんなミュリエル薬師の診察を、長い時間並んで待ってるんですよ。身分を笠に着たって無駄ですからね、ミュリエル薬師は平等な方ですから、身分は通じませんよ」
アンドレの行く手を
それは、他の者たちも同じ気持ちで、数人の、岩のような肉体の男たちが、ジャメルの横に立ち、アンドレの行く手を阻んだ。
「私はミュリエルの婚約者だ。そこを退きたまえ」アンドレも一歩も引いてなるものかと、声に威厳を滲ませた。
猪のようなジャメルと、眉目秀麗なアンドレの睨めっこが10分ほど続いたところで、ミュリエルの耳に入った。野戦病院に嫌がらせをしに来た商人がいるとのことだった。
金を持っている者ほど順番を守らない、ミュリエルは大きなため息をつき、自分が対処すると言って、診察用のテントを出た。
このひと月で、順調にミュリエルとの距離を縮めてきたフィンが、慌ててついていった。「ミュリエル、危ないから下がってて、俺が話をつけてやるから」
「アンドレ様……」ミュリエルは思いがけない来客に唖然とした。
「ミュリエル!無事なのか?どこも怪我はしていないか?」アンドレはミュリエルに駆け寄り、体をあちこち調べた。
「ちょっと!やめてもらえますか、うちの薬師にベタベタ触らないでください!」
フィンはミュリエルの腕を引っ張り、アンドレの手から遠ざけた。
「ええ、私は何とも——アンドレ様は、なぜ野戦病院に?……まさか感染されたのですか?」一国の王子が流行り病に感染し、命を落としたとなっては一大事だと、ミュリエルは青ざめた。
ミュリエルが自分を心配してくれた事実に、アンドレは嬉しくなり頬が緩んだ。「私は大丈夫だ。流感ごとき、かかっても問題はない」
「ご存知無いのですか?モーリスさんが度々、保健所に訴えてくれていたのに、やはり、国には伝わっていないのですね——」ミュリエルは悲しそうに力を落とした。
「ミュリエル、落ち込まないで、俺たちはミュリエルの味方だ。国が何もしてくれなくても、みんなで力を合わせれば、きっと乗り越えられる」フィンは失意に沈むミュリエルの腕を慰めるようにさすった。
「フィンさん。ありがとうございます」ミュリエルはフィンに体を寄せた。それはごく自然で、無意識的だった。
「ところで、アンドレさんは、何か用があってきたのですか?診察を希望しているなら、たとえ知り合いとはいえ、ルールを守って、受け付けを通ってもらわないと困りますね」フィンは嫌味ったらしく言った。
前回会った時、ミュリエルとフィンは店主と従業員でしかない間柄だったはずだ。それなのに、ミュリエルと、まるで、親しい友人のように振る舞っているフィンの態度が、アンドレの
「フィンさんは、ミュリエルが野戦病院などで働くことを容認しているようだが、野戦病院など、彼女に相応しくない。今すぐに連れて帰らせてもらおう」アンドレはミュリエルの手を引っ張ったが、ミュリエルは応じなかった。「ミュリエル?君は知らないだろうが、野戦病院は危険なところなんだ。こんな野蛮なところに君はいてはいけない。野戦病院は男に任せるべきだ」
ミュリエルはアンドレの手をそっと押しやり、腕を握っていたフィンの手を撫でて落ち着かせた。
フィンはミュリエルの腕を離したくなかったが、彼女がそれを望むならと、仕方なく離した。
「アンドレ様、ご心配いただき、有り難く思っております。ですが、野戦病院を設立したいと言い出したのは私なのです。フィンさんにも、モーリスさんにも、アタナーズ商会の皆さんにも、お力をお貸しいただき、ようやく開院することができました。今年の流感は例年通りではありません。何度か、手紙を出しましたが、やはり、届いていなかったようですね」
ミュリエルは平民の嘆願書など、王子に届くわけがないと分かっていたが、根気よく書き続ければ、誰かの目に止まるかもしれないと思って、現状を
「お力添えいただきたく思っておりましたが、過分なお願いだったようです。どうぞ、お引き取りください」いつもは伏し目がちなミュリエルが、真っ直ぐにアンドレを見つめ、
「奪うだなんて——私は君を助けにきたんだ」アンドレはミュリエルの予想外の反応にたじろいだ。
我らの天使を虐めるな!ミュリエル薬師の病院を奪うな!と言った罵声を、受診に来た患者たちはアンドレに浴びせた。
「どうやら、誤解があるようです。次回改めて、正式に訪問させて頂くということで、いかがでしょうか?」エクトルが場を納めるために提案した。
「診療に支障をきたさないのであれば、いつ来ていただいても構いません」ミュリエルは答えた。
アンドレは、その声に微かな怒りを感じ、ミュリエルを怒らせてしまったのだと気づいた。
何も言えなくなってしまったアンドレは、
その一部始終を見ていた群衆から、歓声が上がった。まるで、いちゃもんをつけてきた悪人を、ミュリエルが追い払ったようだった。
オフィスに戻ってきたアンドレは荒々しく机を殴った。無性に腹が立って何かを叩きのめしたい気分だった。
嫌味ったらしいフィンも、自分を拒絶したミュリエルにも腹が立った。
「エクトル!一体全体どういうことだ!なぜ救いに行ったはずの私が悪者になるのだ!ミュリエルは洗脳されてしまったのか?保健所への訴えと、彼女の私宛の手紙を一つ残らず持ってこい!」
「承知いたしました」エクトルが答えた。
「なぜミュリエルの手紙が、私のところへ届かなかったのだ!関係者は全員処罰だ!」
「お怒りをお静めください、アンドレ王子殿下、平民の嘆願書は、行政区が処理します。王子殿下まで上がってくることはありません」
「私の婚約者だぞ!」
「元、婚約者です。王子殿下の恋人に嫉妬して、捨てられたマリオネット侯爵令嬢は、娼婦に成り下がった。ミュリエル嬢は今、そう言われています」
「何だと!私はミュリエルを捨ててなどいない!」
「王子殿下!あなたはミュリエル嬢を婚約者の座から引きずり下ろし、平民にしたのです!あのクソ女のために!」エクトルが珍しく声を荒げた。
「何だと?もう一度言ってみろ!」アンドレは机の上にあったペーパーウェイトを、エクトルめがけて投げつけた。
第1親衛隊として、厳しい訓練を積んできたエクトルは、軽々と避けたが、背後の壁は無事では済まなかった。べこりとへこんだ壁が、アンドレの怒りを表していた。
「失言でした。マドゥレーヌ嬢が子爵令嬢だから、王子殿下の正妃となることを、問題視させれている訳ではありません。あの方が人々から嫌われているからです」
「エクトル卿!」外出先で何があったのか分からず、発言を控えていたデクランは、年若いエクトルの度を越して、行き過ぎた発言を
「しかし、デクラン卿、私はなぜ、ミュリエル嬢が、こんなに酷い言われかたをしなければならないのか、まるで分かりません。あの方は、誰に対しても分け隔てなく接しておられました。それに比べ、マドゥレーヌ嬢はどうですか、伯爵以下をゴミのように扱う。何度唾を吐きかけられたことか、僕はもう我慢なりません」エクトルは足音荒くオフィスを出て行った。
「デクラン?これは、どういうことだ?」
「マドゥレーヌ嬢は
「私に対して、そんな態度をとったことはないぞ、何か誤解があったのではないか?」
「私は伯爵位ですから、私に対しても何もありませんが、マドゥレーヌ嬢の行動を
「あり得ない、マドゥレーヌは孤児を気にかけるような優しい女だ。私の婚約者候補だということで妬まれ、悪口を言われているのだろう——エクトルとの不仲はよく分からないが」
ミュリエルが悪く言われるのは気に入らない、この婚約解消は、アンドレがミュリエルを気遣ってやれていなかった事と、ミュリエルの薬師になりたいという願いを、叶えてあげる為だった。何とかして、ミュリエルの悪評を払拭しなければならないが、慈愛の天使の異名を使えば、貴族たちは黙るだろうかとアンドレは考えた。
マドゥレーヌに対する訴えは、片隅に追いやられ、アンドレの頭の中の80%がミュリエルで占められている事に、アンドレ自身、気が付いていなかった。
翌日、王室から報告を求められ、慌てた保健所から、新型の流感ウイルスが発見されたと報せがあり、ミュリエルがアンドレ宛に書いたとされる——ゴミ箱に捨てられた物を拾ってきたのだろう——くしゃくしゃになった手紙が、アンドレのオフィスに届けられた。
アンドレは、その手紙を見て激怒し、届けにきた保健所の所長を、危うく殴り殺すところだったが、エクトルと数人の親衛隊が、束になって止めた。
手紙には新型のウイルスが、猛威を振るうであろうこと、野戦病院を設置したいが、保健所や警察から門前払いを受けていること、図々しい願いだと分かっているが、ほんの少しだけでいいから、力を貸して欲しいと懇願する内容が、流れるような書体で、美しく丁寧に書かれていた。
アンドレはふと思った。署名以外でミュリエルが書いた字を見るのは、これが初めてではないだろうか?
婚約していたときには、手紙をやりとりしたことなど、一度もなかったのに。別れて初めて手紙をもらうなど、間抜けな婚約者だなと、アンドレは自嘲した。
「陛下へ内密に謁見を願い出てくれ、今年の疫病に関して、重要な話があると言ってくれ」
「承知しました」デクランは国王陛下の執事に、謁見の申し入れをするために出て行った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます