第25話 治療法がない
ミュリエルは心臓疾患によいとされるホーソンと、体を温める効果のあるエルダーフラワーと、代謝を促すルイボスを火にかけ煎じた。
「保健所のやつときたら、なんであんなにも分からず屋なんだ」憤慨したモーリスが荒々しく台所に入ってきた。
「上手くいきませんでしたか」
「新型のウイルスだってことすら、それがどうしたって言いたげに、突っぱねられた。どうせいつもの流感だ、春になれば終わると思ってやがる」
「春になれば終わるでしょうが、それまでに何人の人が亡くなるか、気にも留めないのでしょうね」
「死者がどのくらい出ると思う?」
「新型のウイルスに対応したポーションが無いと仮定して、重症化しやすい基礎疾患のある人の数を予測すると、パトリーだけでも10万を超えるのではないでしょうか、更に貧困層を数に入れると20万を超えると思います」
「20万か……かつてない数字だな」
「保健所の協力が得られないのなら、我々だけでこの局面を乗り切るしかありません。今に、この教会は病人で溢れかえるでしょう」
ミュリエルは出来上がったポーションを小瓶に注いだ。
「それは?」流感のポーションでもなく、解熱薬でもないポーションを、モーリスは指差して訊いた。
「ソーニャさんが流感を発症してしまいました。診察したところ、原因不明の心筋疾患を患っているようです。これで効くかどうか分かりませんが、流感を乗り切るための、手助けになればと思って作りました」
シャンタルの時のように、原因が分かっていれば、魔法で応急処置を施すことも可能だが、原因不明とあっては、何をどうすれば良いのか皆目見当もつかないので、手の施しようが無い。
「原因不明か、運が悪いな」モーリスは顔色が悪そうなミュリエルの頭を撫でた。「それが終わったら少し休め、もう1時だ。フィンはどうした?ミュリエルを頼んだってのは、目を離すなって意味だったんだけどな」
「フィンさんには、ソーニャさんへ、解熱鎮痛薬と、栄養ドリンクを持っていってもらっています。エドガーさんとセルジュさんの様子をみてから少し休みます。そういえば、セルジュさんは意識が戻りましたよ」ミュリエルとモーリスはソーニャの病室へ向かって並んで歩いた。
「若いだけあって回復が早いな」
「奥様の愛も一役買ったようです。問診して分かったのですが、日頃から奥様は、旦那様の健康を、気遣っていたようです。少し羨ましいと思いました」
「ミュリエルも恋をしてみたくなったか?」
「モーリスさんとジゼルさんのように、心から愛し合っている夫婦が他にもいるんだと知って、私もいつか、そんな相手と出会えたらいいなと、夢を見てしまいました」
「いつかミュリエルにも、生涯の伴侶が見つかるさ、もしかするともう出会ってるかもしれないぞ、フィンとかな」
「最初フィンさんを嫌っていたのでは?」
「気づいてたのか——まあ、女好きなところは気に食わないが、ミュリエルに対しては誠実に見えるからな。それに、浮気でもしようもんなら、俺とジゼルに殺されて魚の餌にされてしまうって分かってるだろうし、あいつはそこまで馬鹿じゃない」
「気に入ったということですね」ミュリエルは微笑んだ。
モーリスは諦めて認めることにした。「そんなところだ、お前の良さが分からない王子よりずっといい」
「アンドレ王子殿下は、子供の頃は頑張ってくれたのですよ、私が未熟で応えられなかっただけです」
「だからって、お前に対する態度は酷すぎる。婚約者ってのは、結婚したも同然なんだ。蔑ろにしていい関係じゃないんだぞ、それなのに、俺のいない時に未練がましく訪ねてきやがって」
以前、アンドレが休診日に訪ねて来たのだと、ミュリエルから聞かされたときは、あの間抜けな王子が、婚約解消はなかったことにしたい、なんて言い出すのではないかと思い、大事な娘の身が、危険に晒されていると不安になったが、そこにフィンもいたというのだから、怒って当然だ。
フィンがいてくれたおかげで、ミュリエルが無事だったのだから、大目に見るべきだというジゼルの言葉がなければ、フィンの足を一本くらい折ってやる勢いだった。
女の扱いに慣れているフィンが、ジゼルとシャンタルを早々に味方につけてしまったことは腹立たしいが、フィンが間抜け王子を撃退してくれたことは事実なので、ミュリエルの護衛役を任せてやることにした。
「アンドレ王子殿下は、心配して訪ねて来て下さっただけです。最後に謝ってもらいましたから、もう良いのです」
ミュリエルがドアをノックすると、クラリスがドアを開けた。
「ミュリエル薬師、ソーニャさんは少し熱が上がって、今は38度7分です。先程はスープを少しだけ、召し上がられましたが、具は残されました。疲れていたのか、その後すぐにお休みになられました」
ミュリエルはクラリスに分かったと頷いた。
「ソーニャさん、起きられますか?ポーションを飲んでいただきたいのです」
ソーニャは、
眠そうな目をミュリエルに向けた。
「あら、私眠ってしまっていたのね。エドガーはどうしてるかしら、そろそろ、あの人のところに戻らなければ」
ミュリエルは、立ちあがろうとしたソーニャの肩を掴んで、押し留めた。「エドガーさんのことは、私が後で見てきます。ですので、ソーニャさんは、これを飲んで、安静にしていてください。あなたも感染しているのですから、病気を治すことに専念してください」
「こんな時に病気だなんて、若い頃は女遊びで、家を外にしてばかりで、うんざりさせられたけど、あの人、最後には私のところに戻ってくるの、私がいないと駄目なのよ。ミュリエル薬師、あの人を、エドガーをよろしくお願いします」
ミュリエルはソーニャにゆっくりとポーションを飲ませた。「見捨てたりしません。私の患者さんになったからには、
ミュリエルは、ポーションを飲み終わったソーニャを、ベッドに寝かせて布団を掛けた。
すぐに、眠りに落ちていったソーニャを見届けてから、部屋を出た。
「下が騒がしいな」モーリスが言った。
「先程、マルタンさんが、アタナーズ商会の方たちを連れて来られたようで、フィンさんが様子を見に行かれました」クラリスが答えた。
「感染者の確認と隔離が必要ですね」
「ああ、人数が多そうだ。診察を手伝う」
「助かります」
ミュリエルはモーリスと階下に降りていった。
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