第3話 別れは突然に
翌朝、ミュリエルは毎週恒例の義務となっている、アンドレとのアフタヌーンティーへ行くために王城を訪れた。
最初のころは、景色の良いガゼボだったり、ドローイングルームだったり、招かれる場所は季節や天候に合わせて違う場所だったが、今ではアンドレの個人オフィスに向かうだけとなっている。
いつものように、アンドレの従者エクトル・ジュベール——183㎝、25歳の筋骨隆々な第1親衛隊だ——に案内され、オフィスの前の椅子に腰掛け待っていると、中から執事のダニエル・ケクラン——176㎝、54歳の角ばった顔の痩せた男——が出てきて、招き入れてくれた。
「アンドレ第3王子殿下、お招きいただきありがとうございます」
「ああ、入ってくれ、ちょっと仕事が立て込んでるから、適当に座って茶を飲んでいてくれ」
すっと伸びた形のいい鼻、柔らかく口角が上がった唇は、全ての女性を虜にするほどに恵まれた面立ちで、窓から差し込む陽の光が、耳にかかるブロンドの髪を、キラキラと輝かせ、尊いまでに美しい。
1時間のアフタヌーンティーの間アンドレは黙々と執務を行い、ミュリエルはただ静かに茶を飲むだけ、アンドレはミュリエルの顔を見ようともしない。いつからか、決まり事のようになってしまった。
「本日はご相談があって参りました。手を止める必要はございませんので、そのままお聞きください」
「いいぞ、話せ」アンドレは書類から目を離さず、上の空で言った。
「婚約を破棄していただきたいのです」
「——なんだって?」アンドレは驚いて書類から目を離し、顔をあげた。
「アンドレ王子殿下とマドゥレーヌ嬢のお噂は、私も聞き及んでおります」
アンドレはバツが悪そうに言った。「それは違う、ただの噂で彼女とは何でもないんだ、偶然ばったり会ったところを、誰かに見られてしまっただけなんだ」
「アンドレ王子殿下が、他のご令嬢を、妃にお選びになられたとしても、私は構いません。むしろ、その方が嬉しいのです」
「は?君は自分が何を言っているのか分かっているのか?」
侯爵家の1人娘とはいえ、王子妃に選ばれなければミュリエルは
「はい、理解しています。アンドレ王子殿下との婚約が破談となれば、令嬢としての価値がなくなります。私はカルヴァン家から除籍されるでしょう。私は侯爵令嬢という肩書きを捨てたいのです」
「それは平民になるということだぞ、平民になってどうするんだ?」アンドレはミュリエルと向かいあって座った。彼女の顔を見て話すのは、いつぶりだろうかとアンドレは考えた、もう思い出せない。
ミュリエルのこの鬱屈とした顔が嫌いだった。あまりに無表情なせいで、ついた
「実は随分前から計画していたことだったのですが、問題は資金不足でした。アンドレ王子殿下には、私個人に、婚約破棄の慰謝料として、300万トレールの支援を、お願いしたいのです」
「たった300万トレールで何をする気だ?それだけでは一生遊んで暮らせはしないぞ」
「市井で、モーリスという男が経営している店を、買い取るための資金です。私は薬師になりたいのです」
「貴族をやめて働きたいと言うのか?」馬鹿も休み休み言えとアンドレは思った。どこに好き好んで、貴族をやめて働きたいなどと、馬鹿げたことを考える奴がいるというのだ。
「はい、私の境遇はご存知でしょう?もう、息を潜めて暮らすのには、うんざりなのです。アンドレ王子殿下、たった300万でマドゥレーヌ嬢との結婚が叶い、私は大手を振ってカルヴァン家を出て行けます。これは互いに利のある取引です」
「だが、婚約破棄と言ったって、陛下が決めた婚約だ。そう簡単に破棄にはできない」アンドレは呆れた顔をして言った。
「私がマドゥレーヌ嬢に、毒を盛ろうとしたとなればどうでしょうか?アンドレ王子殿下が毒に気づいて未遂に終わる。そして、長年婚約者だった私に、温情をかけてくださり、罪には問わないけれども、婚約は破棄せざるを得ないとする」
「私が罪を問わないと言ったからといって、陛下がそれを聞き入れてくださるかは分からない」
「毒を盛るような女を、王家に迎え入れようとは、陛下も思われないのではないでしょうか?カルヴァン侯も過ちを犯した私を、切り捨てるでしょうし、最善の策かと存じます。私も少々怪我をするくらいの覚悟はしております」どのみち、軽い怪我くらいなら、魔法で簡単に治癒できると、ミュリエルは思った。
「少々だと!怪我などさせるものか!——だが、その覚悟をするくらいには本気だってことだな」
「はい」ミュリエルは頭を縦に振った。
アンドレは考えた。上手くいけばミュリエルと婚約解消できて、マドゥレーヌに結婚を申し込むことができる。
無表情でつまらないミュリエルと一生を共にするよりも、可憐で明るく朗らかな女性と一生を共にした方が幸せだし、ミュリエルが、婚約の解消をしたいと言っているのだから、これ幸いと思っていいのではないだろうか。
「私に考えがございます」ずっと隣で、黙って聞いていた執事のケクランが言った。
「どんなだ?言ってみろ」
「殺さない程度の毒で、悪ふざけにしては度を越している物であれば、爵位の剥奪と婚約破棄を、陛下に受け入れてもらえるのではないでしょうか?」
「それでしたら、死にはしないけれども、後遺症が残るような毒物はいかがでしょうか?」
「ケクラン用意できるか?」アンドレが訊いた。
「アンドレ王子殿下、薬のことでしたら私にお任せください。言いましたでしょう?私は薬師になりたいのです。薬はすぐに、ご用意できます」ミュリエルが答えた。
「分かった、では、どうやって薬を盛るかだ」
「簡単です。次回のお茶会にマドゥレーヌ嬢と私を呼んでください。私はお二方より少し早めに伺います。そこで、薬を仕込もうとする。それを、同じく早めに来たアンドレ王子殿下に、目撃されてしまうという筋書きです」
「私が2人を引き合わせるのか?それは少しおかしくないか?」
「アンドレ王子殿下は未来の正妃に、いずれ側室として迎えたいと思っているマドゥレーヌ嬢を紹介して、仲良くしてもらいたかった、ということにすれば問題ありません」
「なるほど、私は仲良くしてもらうために、女たちを引き合わせるなど、馬鹿な男のすることだと思うが、確かにそれなら筋は通るな——」
自分がちょっと馬鹿を演じれば、ミュリエルの願いを叶えてやることができて、今まで放っておいたことに対する罪滅ぼしができるし、マドゥレーヌを正妃として迎えられる、一石二鳥ではないかとアンドレは思った。
「本当に後悔はしないな?実際、君を正妃として迎え、マドゥレーヌを側室にしたっていいんだ」
「私は正妃になど、なりたくありません。薬師になりたいのです」
「分かった。ではそのように手筈を整えよう」
「感謝いたします。アンドレ第3王子殿下、本日は、お時間を割いていただき誠にありがとうございました」ミュリエルは立ち上がり、丁寧にお辞儀をした。
「気をつけて帰るように」
ミュリエルを城門まで送り、戻ってきた——従者であり、密偵であり、護衛を兼ねている——エクトル・ジュベールにアンドレは指示した。「エクトル、モーリスという薬師のことを調べてくれ。それから、息を潜めて暮らすのには、うんざりだと言ったミュリエルの言葉が気になる。どんな家庭環境だったのか調べてきてくれるか?」
「はい、承知しました」
産みの母は子供の頃に亡くなっているが、父親は健在で、誉れ高い『東方貿易会社』の経営者だ。アンドレはカルヴァンを羽振が良く、人望の厚い男だと思っていた。
ミュリエルには他に兄弟もいないし、女であるミュリエルに、爵位の継承権はない。傍系の男に受け継がれるはずだ。
うんざりというほどの境遇だったとは思えない、何か企みがあるのではないだろうかとアンドレは訝しんだ。
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