第47話「戦慄の登校日②」

 生まれて初めて、人を殴ろうと思った。

 母さんにすらそんなこと思わなかったのに。


 だけど握り拳は全く痛くなかった。

 それよりも別の場所が痛くなっている。

 ギューッと僕の右腕が掴まれているが、それは東たちの手ではなく、別の誰かのものだった。


「馬鹿な真似はよせ。片桐が悲しむ」


 須藤だった。

 彼は僕と別のクラスのはずなのに、いつの間にか僕の教室にいる。

 

「なんで……須藤がここにいるんだよ」

「別になんだっていいだろ。隣のお前らのクラスが少し騒がしかったから、まさかな……と思っていたけど」


 どちらかと言うと、殴るのは須藤の担当ではなかったか?

 そして僕か藤堂が彼の暴走を止める。

 その心づもりをしていたのに、どういうわけか須藤の方がストッパーとして機能していた。


 右腕が痛い。

 須藤が力いっぱい握っているからだ。

 もう人を殴る気力も失せた。

 彼が止めてくれて本当によかったと思っている。


「……ごめん」


 腕の力が抜けた。

 僕にもう誰かを殴る気力がないと察知したのか、須藤は僕の右手を話した。

 まだじんじんと腕が痛い。

 ちょっと力を入れすぎてるんじゃないのか?


 4人は僕を睨んでくる。

 さすがに僕の拳では彼らを怯ませることすらできなかったみたいだ。

 もう殴られてもいい。

 何もかもどうでもよくなった。

 こいつらに怒りを向けるのがなんだか馬鹿馬鹿しくなる。


 僕は、詩乃を幸せにすることができたら、それでいい。


「おい」


 自分の席に戻ろうとしたのに、東が僕の肩を掴む。

 振り返るのも億劫になったので、軽く手をあしらった。

 そのまま僕は教室を出る。

 行く宛てなんてどこにもなかったけれど、適当にどこかで時間を潰して、頃合いを見計らって教室に戻ろう。

 そうだな……体調を崩していました、で言い訳は通るだろうか。


 追いかけて殴ってくるかと思ったけれど、意外とそんなことはなかった。

 向こうも向こうで面倒くさいと思っているのだろうか。

 まあ、今となってはどうでもいいことではあるけれど。


 とりあえずトイレに向かった。

 本当は保健室に行こうか迷っていたが、面倒ごとはなるべく避けたい。

 多少の恥を被る覚悟は既にできているので、この後教室に帰って何を言われても別にどうだってよかった。


 詩乃は、大丈夫だろうか。

 そればかりが気がかりである。

 もし退学なんてことになったら、彼女は今後どうやって生きていくんだろう。

 親は助けてくれるのだろうか。

 母親はともかく、父親は……何か力になってあげたらいいのだけれど。


 しかしトイレ特有の匂いのせいで、思考がまとまらない。

 もうこうなったら何も考えず、適当に時間を潰すことにする。


 コンコン、とノックが鳴った。


「入ってます」

「俺だよ」


 須藤の声だった。

 なんだ、と僕は息をついて、応答する。


「さっきはありがとう。僕も退学処分食らうところだった」

「もしお前があそこで殴っても、せいぜい停学止まりだっただろうな」

「それもそうか」


 僕は笑って、ドア越しに須藤と会話する。

 彼もクラスを抜け出してここまでやってきたらしい。

 それにしてもどうして僕がここにいるってわかったんだろう。


「たまたま見つけた」


 問いかけたら、そう返ってきた。

 どうやら見つかるまで探すつもりだったらしい。

 余計な苦労をかけさせなくてよかった。


「髪、戻したんだね」

「まあな。学校始まるし、校則違反だから」


 今日の須藤の髪は、金髪から黒に戻っていた。

 僕の中で金髪のイメージが定着しつつあったので、黒の彼は少し違和感があったけれど、きっと数日もすれば慣れるだろう。


「で、これからお前はどうするんだよ」

「別にどうもしないよ。今まで通り学校に行って、いつも通りの日々を過ごす。それだけ」

「片桐のことは?」

「それは……できることなら助けてあげたい」


 ならどうやって? という空想の問いかけが僕の喉を締めつける。

 答えは出なかった。

 あるにはあるけれど、年齢のせいでそう簡単にはいかなそうだ。

 働いて彼女の生活資金にするにしても、高校生が稼げる金額なんてたかが知れている。

 食費だけなら何とかなるかもしれないけれど、光熱費も含めるとさすがに僕一人の力じゃどうしようもない。

 そもそもこの学校はアルバイト禁止と決められているため、詰みに等しい。


「僕にできるのは、せめて一緒の時間を過ごしてあげることかな」

「キザだな」

「自分でもらしくないことを言ったと思う」

「まあ、いいんじゃないの?」


 言葉では肯定していたけれど、口調は完全に僕をからかっていたので、余計に恥ずかしくなった。

 忘れてくれたらいいのに、多分須藤はこういうことに関しては絶対に忘れない。

 墓に入るまで、一生。


「なら須藤だったらどうするんだ? もし藤堂が学校を退学するってなったら……須藤ならどうやって支えるつもりなの?」

「……それがわかれば俺だってこんなに悩まねえよ」


 どうやら彼も同じだったようだ。

 少し安心する。

 悩んでいるのは僕だけじゃなかった。


「君が友達で本当によかった」

「よせよ、照れるだろ」


 へへ、と彼は笑う。

 だけどこれは本心だ。

 恥ずかしさも、嘘偽りもない言葉だ。

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