第39話「朝が来て」
夜が明けた。
重たい瞼をこすり、ゆっくりと僕は起き上がる。
隣には、すやすやと寝息を立てている片桐さんがいた。
ちゃんと服を着ているから、一線は超えていない。
あの夜はお互いそのまますぐに寝てしまったから、何もないというのはわかっていたけれど。
僕が起きた少し後に、片桐さんも身体を起こした。
ぼんやりとした眼で僕に微笑みかける。
「おはようございます、村山くん」
「ああ、うん。おはよう……」
彼女はそのままベッドから起き上がり、すてすてとドアの方向に向かう。
そしてドアノブを手にした瞬間、ピタリと彼女の手が止まった。
「な……なんで村山くんがここにいるんですか?」
何を今更、と言いたくなった。
まだ寝起きで記憶が混濁しているのだろうが、大人になったら絶対片桐さんにはお酒を飲ませないと心に誓った。
シラフでこれなのだから、アルコールを摂取してしまえばどうなるかわからない。
ため息をついて、僕は答えた。
「昨日、泊めてくれたの、忘れちゃった?」
「へ? 昨日……ああ」
ようやく彼女は思い出したようで、合点が言ったと言わんばかりの表情を見せる。
プシューっと顔を真っ赤にした片桐さんは、逃げるように部屋から出た。
僕もこれ以上女性の部屋にいられないので、彼女の跡を追いかける。
片桐さんは台所に立っていた。
エプロンを身にまとい、手際よく米を研いでいる。
「朝ごはん、毎朝作ってるんだ」
「はい。作ってあげますよ」
「何か手伝おうか」
「いえ、簡単なものばかりですので、待っていてください」
そう言うので、仕方なく僕はソファに座って朝食が出来上がるのを待つ。
スマホを手に取ると、やはり母さんからのメッセージが大量に届いていた。
『今何してるの?』
『早く帰ってきなさい』
『お母さん心配してるから』
内容はいろいろあったけど、「今まで悪かった」とか「ごめんなさい」とか、そういう言葉は一切なかった。
別に謝罪を求めているわけではないけれど、自分は悪くないというスタンスが見え隠れしているのが気に食わない。
朝食はあっという間に出来上がった。
ホカホカの白米に、味噌汁、そして目玉焼きにウインナーというラインナップだ。
トッピングに海苔もあるらしい。
「美味しそうだね」
「そうですか? 別に普通ですけど」
「僕の中では普通じゃないの。いただきます」
僕は手を合わせ、味噌汁を口にする。
塩分は控えめだが、出汁が効いていてとても美味しい。
具材も柔らかくて、中まで火が通っている。
「どうですか?」
「あったかい味がする。とても美味しいよ」
「そう言っていただいて光栄です」
ふふ、と微笑をこぼした片桐さんは、やはり可愛らしかった。
もうすっかり元気そうで安心する。
僕たちは朝食を終え、それぞれ着替えた。
昨日着ていた服は既に洗濯が済んでおり、少し片桐さんの匂いがした。
おそらく柔軟剤の匂いだろう。
いつもと違う匂いだったから違和感がすごい。
「乾いていませんでしたか?」
「いや、乾いてる。ありがとう洗濯までしてくれて」
「いえ、これくらいどうということはないです」
着替えを終えた片桐さんが、同じく着替えを終えた僕の前に姿を現す。
黒のロングスカートに、白のTシャツというカジュアルな格好をしていた。
ひょっとしたら部屋が質素なのは、単純に片桐さんの趣味なのかもしれない。
「この後、どうするおつもりですか?」
「いったん帰るよ。そして、母さんと話し合う」
きっと、想像しているよりも僕にまとわりつく楔は重く僕を締め付けてくるに違いない。
だとしても僕はもう母さんの人形にはならないと決めたのだ。
ここで屈していたら、僕はいつまでも自由になれない。
それに、母さんにもいい加減前を向いてほしかった。
いつか母さんのところを離れても、僕が母さんの子供であることは一生ついてくる。
それはもうどうしようもないことだし、変えることなんてできない。
それを「繋がり」と呼ぶことはできないだろうか?
「片桐さんこそ、どうするの?」
「そうですね。どうしましょう」
言葉のわりに、片桐さんは呑気だった。
まあ、彼女にとって退学処分などどうということなどないのだろう。
が、現状はきっと僕や片桐さんが思っているよりも事態は深刻だ。
「もし、退学するってなったら親御さんに連絡が行くと思うんだけど、来ると思う?」
「海外に行っていなければ大丈夫でしょう。もっとも、父の仕事で海外に転勤、なんてことはあり得ませんけどね」
「なら、なんとかなるかもしれないんだな」
「おそらくは」
ただ、父親がどういう反応をするのかは甚だ不安でしかないけれど。
母親の方はもっと不安だ。
そもそも会えるかどうかすらわからないのだから。
とはいえここから先は彼女の問題だ。
僕がとやかく口出しする権利なんて持ち合わせていない。
共にいい方向になることを祈ろう。
「頑張ってね、いろいろ」
「村山くんも。頑張って」
片桐さんは玄関までお見送りしてくれた。
昨日はありがとうございました、と彼女は深々と頭を下げる。
僕がやりたくてやったことだから、そこまで感謝しなくてもいいのに。
「最後に一つ、お願いを聞いてもらってもいいですか?」
僕が玄関の扉を開けたとき、片桐さんが尋ねる。
別に無理難題だったら聞いてもいい。
「何?」
「その……これからは名前で呼んでほしいんです」
「名前?」
「はい。詩乃。私の名前」
……少しハードルが高い。
だけど、彼女がうるうると目を輝かせてこちらを見ている。
そんな目で見られたら、断りづらい。
とはいえ僕も誰かを名前で呼んだことなんて一度もないから恥ずかしい。
目を瞑り、心の中を整理するため一度上を向く。
そして、彼女の方を向いた。
「わかった。詩乃……さん」
「さんはいらないです」
「じゃあ、詩乃……」
「はい。太一くん」
顔が熱くなる。
耳まで真っ赤になっているに違いない。
それじゃあ、と僕は玄関の扉を閉め、急いでこのマンションを出る。
恥ずかしくて、まともに彼女の顔を見ることができなかった。
だけど、片桐さん……詩乃から名前を呼ばれた時は少し嬉しかったし、僕が彼女の名前を呼んだ時の詩乃のの顔も、どこか嬉しそうだったような気がする。
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