軍医の指

月井 忠

一話完結

 私が軍医として島に渡ったのは、戦争が始まってすぐのことでした。


 太平洋に浮かぶ小さなその島は、現地の言葉で「楽園」を意味する名だったと記憶しています。


 この島に軍事的意味などあるのか。

 そう思わせる程に、のどかな島でした。


 そこに住む島民ものどかで、皆とても優しかったのをはっきり覚えています。

 私達が到着すると彼らは暖かく出迎え、とにかく握手を迫ってきました。


 島民全員と握手したのではと疑う程でした。

 ですが、その時気になったのが、島民の指でした。


 皆、いずれかの指が一本欠けているのです。


 ある者は右手の人差し指。

 ある者は左手の薬指。


 中には何本か指のない人もいたように思いますが、いずれにしても指を失っていない大人は一人もいないのです。


 左右十本の指がきちんと揃っているのは、子供たちだけでした。


 私は気になって島の老人に聞いてみました。


 言葉の通じない島民ですから、相手も何を聞かれているのか、わからなかったことでしょう。

 私は彼の手をとり、なくなった指に目を向けさせ聞きました。


 しかし、彼はごまかすような笑いを浮かべるのみで、言葉で説明しようとはしません。


 島に伝わる独自の風習や伝統でもあるのかと、私はそれ以上気にすることはありませんでした。




 当初の予想通り、米兵は私達のいる島を飛び越し、背後のもっと大きな島を攻めました。


 私達は補給線を断たれてしまったのです。

 残り少ない食料で食いつなぎましたが、それでもすぐに底をついてしまいます。


 しかし、私達は優しい島民に救われました。


 彼らは手ずから食料を分け与えてくれたのです。


 他の島では、飢えに苦しみ多くの兵士が亡くなったと聞きましたが、私達は飢えることなく終戦を迎えることができたのです。


 私は今、東京の下町に住んでいます。

 軍医として学んだ医術を少しでも世のために使おうと、小さな診療所を開き働いています。


 仕事は順調なのですが、生活においては少し気がかりがあります。


 どうにも寝付きが悪いのです。


 そして、もう一つ。


 右手の人差し指が痒いのです。


 私は気づかず、ぼりぼりと人差し指をかくのが癖になりました。




 ある夜、私は夢を見ました。


 夢の中で、これは夢だと自覚できる明晰夢でした。


 ただ不思議なことに、自分の体が言うことを聞かないのです。

 まるで、私の体を通して映画を見ているような感覚でした。


 場所はあの島です。


 いつか話したあの老人が目の前に立っていました。

 なぜか私には彼の言葉がわかります。


 彼は痒い、痒いと言って、両手をひっきりなしにかいています。

 見ると、その指は多くが黒く変色し、大きく膨らんでいました。


 どうやら指は固くなってしまったようで、曲げることすらできないようです。


 痒い痒い。


 ぼりぼり、がりがり。


 私の顔は彼の指へと近づいていきます。

 意思ではそれを拒否しているのですが、体が勝手に動いてしまいます。


 夢とわかっていても、気持ちのいいものではありません。


 見ると、黒く変色した指は左右それぞれ、人差し指、中指、薬指のみでした。

 目を見張ったのは小指です。


 指とは思えないような、細かく妙な動きをしているのです。

 それは人体の構造を無視した動きでした。


 更によく見ると、薄皮の下で何かがうごめいているのがわかります。

 黒や紫、緑や青の筋が蠕動運動をするかのように指の中を上下しているのです。


「これは虫のようだね」


 私は言いました。

 私の意思とは関係なく口が動き、私はそれを聞きました。


 確かに虫のようです。


 指一本が、そっくりそのまま乗っ取られ、一匹のイモムシのようでした。


「どうすれば、いいんだ先生」


 老人が聞きます。


「知っているかい? この世界には、寄生虫というのがいて、生物から生物へと渡り歩くものがいるらしい」


「とっても痒いんだ先生」


「そう言えば、君らはよく握手をしていたね。あれで感染したんじゃないか? 接触感染というのもあるし、患部もちょうど指のようだし」


「助けてくれよ先生!」


「多分、虫は指の肉を喰らい、骨を溶かし、その皮の下でうごめいているんだろう。でも、そうなるとどうして痒みを感じるんだろう」


「先生!」


「そうそう、中には宿主の行動を操る奴らもいるらしい。君は意識障害や記憶障害を起こしているんじゃないか?」


 私の口は勝手に言葉を紡ぎます。

 自らの浅知恵を、何も知らないであろう島民にひけらかすような態度は、自分自身でも嫌気が差しました。


 そして、老人の固く真っ黒い指と、イモムシのように動き出す指。


 それらがとても嫌悪感を催すのです。


「これ、さなぎじゃないのか?」


 私の体は勝手に、黒く固まった老人の指をつまみます。


 私の意識は、はっと驚きました。


 老人の黒い指には、小さな筋が刻まれ、それらはまるで昆虫の蛹のように見えたのです。


「ああ、痒い、痒い。耐えられない!」


 そう言うと老人は大きくのけぞり指をかきました。


 ぼとり。


 見ると地面に黒い指が一本、落ちていました。


 それは蛹そのものでした。


 すぐに背の部分が小さく割れ、中から更に真っ黒い甲虫の姿が現れます。


 頭部についた大きな二本の触角が跳ねるように飛び出します。


 すると次は、一本、また一本と脚が出てきて、蛹から体を引き剥がしていきます。


 ずるり。


 そこにはこぶし大の見たこともない真っ黒な甲虫がいました。


 甲虫は大きな顎を広げると、脱ぎ捨てた蛹の殻をバリバリと食べ始めます。


 綺麗に食べ終わると、のそのそと這いずり、こちらを向きます。


「ア・リ・ガ・ト・ウ」


 虫は確かにそう言ったのです。




 私は飛び起きました。


 右手の人差し指の痒みに耐えられなくなったのです。


 見ると、真っ赤に腫れ上がり大きく膨らんでいます。


 即座に夢の光景が思い出されました。


 私は人差し指を口に含みます。

 これからしようとしていることを考え、一気に毛穴が開き、汗がにじみます。


 しかし、そのままにしておけば、もっと酷いことになる。


 私は意を決し、思いっきり歯を立てます。

 歯はちょうど、指の関節の隙間を通ったのか、それほど抵抗感はありませんでした。


 痛みはなく、ただじんじんと鼓動を感じるのみです。

 口の中に血の味が広がり、舌にごろりとした存在を感じました。


 とっさに口の中のものを吐き出します。

 床には血と唾液にまみれた、太く赤い指が転がりました。


 私はベッドから起き上がり、落ちた指から距離を取りながら包帯で止血を始めました。


 視界の端にはずっと指があります。


 なぜか、その指が勝手に動き出すのではないかと恐れていたのです。


 止血を終えると、私は動くことのない指に触れました。

 指にはまだ体温が残っていて、そのぬくもりは別の何かが発している熱のようで気持ちが悪くなりました。


 私は包帯を何重にも重ね、指から熱が伝わらぬようにして掴みました。


 庭まで運び、マッチの火をすって、包帯に投げます。


 火は少しずつ大きくなりますが、とても弱いものでした。

 周囲の枯れ葉を火に足していきます。


 包帯の白も、枯れ葉の茶色も黒く焦げていきます。

 ときおり、じゅっという水気が蒸発するような音がします。


 私は燃える様をじっと見ていました。


 最後には焼け焦げ、細くなった黒い指のようなものが残りました。


 私はそれを踏みつけ粉々にします。


 この頃には、すっかり落ち着きを取り戻し、今日の診療のことが頭をよぎりました。




「先生! その指どうしたんですか!?」


 朝早くにやってきた看護師に言われました。


「ははっ。ちょっとね」


「いえいえ、ちょっとで、そうはならないですよ」


「ははっ」


 私は笑ってごまかしました。

 こんな場面をどこかで見た気がします。


 ですが全く思い出せません。


「その……大丈夫なんですか?」


「もちろん。私は医者だよ?」


 そう言って、診療を始めました。


 東京は良い所です。

 人がとっても多いのが良いです。


 こう言うと語弊があるかもしれませんが、人が多いから、患者も多いのです。

 私の診療所が続いているのは患者がいるからこそです。


「先生。お願いします」


 そう言って老婆が診察室のドアを開けました。

 私は椅子から立ち上がり、老婆の手を引き、背中に手を回します。


 私は人に触れるのが好きです。


「今日はどうされました?」


「ここなんですが」


 老婆は右手を少し上げると、指を見せます。

 そこには、ひどいあかぎれがありました。


 何度も出血し、炎症を起こしているようです。

 私はそっと患部に触れます。


「あっ! 痛いです、先生」


「ああ、すみません」


 私は指に触れるのが好きです。


 赤く色づき、皮の下に肉が見える患部がとっても好きで、思わず触れたくなるのです。


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