18

「あんちゃん。そろそろ行こうか」

 映画も中盤に差しかかり、長めのCMが入った頃だった。振り返ればブラウスとデニムに着替えた杏さんが微笑んでいる。それと見慣れたポニーテールもちらちら見えた。昼間より高い位置で結んでいるようだけど、どこへ行くのだろう。

「どこにですか?」

「言わなかったっけ?」

「はい。コンビニですか?」

 杏さんが首を振った。

「違う違う。今日中に埋めたいものがもう一つあってね。それをこれから埋めに行きたいの」

「これ、から?」

 とっさにテレビへ目を向けた。そしてすぐに杏さんへ視線を戻す。杏さんと映画。大切なものに挟まれてしまった。

「ちなみにどこへ?」

「ふふ、内緒」

 かわいらしいウインク。だけど求めているのはそうじゃない。用事の所要時間を聞きたいだけだった。

 本心としては映画を見たい。この最後の機会を逃せば次はないだろう。けれども杏さんも大切だ。自ら手伝うと言ったのだから今すぐ準備しないと。けれど、だけど。

「もしかしてテレビ見たいの?」

 ぎこちなく首を縦に振った。さらさらとした髪が頬を叩く。

「実は今やっている映画、この機を逃せばレンタルしか見る術がないんです。ちょうど今、起承転結でいうところの転の部分でして、ずっと敵だと思っていた人が実は父親で何も知らない主人公が――」

 早くなる熱は意外にもあっさり冷え込んだ。あからさまに困っている杏さんの視線によって。

「ごめんなさい。また、調子に乗って」

「ううん。そういうことじゃないの」

 杏さんがちらと振り返り、ベッドの縁に腰かけた。

「あんちゃんの話が嫌じゃなくて、今は手伝いの話をしたいの。映画の話なら移動中や寝る前にじっくり聞きたいし」

「はい」

「気にしないで。それでどう? 一緒に来てくれる?」

 私なんかで力になれるのなら協力したい。けれど、これだけは譲りたくないという欲が生まれてしまった。自分を優先しようとする醜い欲。捨てなければならないと分かっているのに、背中越しのテレビから流れる音が気になって仕方がなかった。

「あの、一度消しますね」

「ええ」

 後ろ髪を引かれながらもテレビの電源を切った。

「えっと、あの」

「テレビ見たいんでしょ?」

 杏さんの視線に貫かれ、頷く。

「それならもっとはっきり言わないと。その後でどうするか知ってる?」

「いえ」

「話し合うんだよ。けんかとかぶつかり合いじゃなくて、友だちとして話し合って、お互いの落としどころを探し合うの。どう?」

 恐らくその言葉を聞かずに話し合っていたら、またけんかだと勘違いしていた。それを見越した杏さんの優しさが嬉しい。

「分かりました」

「じゃあ決まり。それでさ、今日中に埋めないとスケジュールが厳しいんだよね。映画どうにかならない?」

「その、今日を逃すとしばらく見られなくて」

「レンタルとかあるんでしょ? 明日借りてうちの車で見る? それとも次に泊まるホテルで見てもいいし」

「明日ってDVDを借りに行く時間あります?」

「あー……ちょっと厳しいかも。明日もかなりタイトな予定があってさ」

 頬をかく杏さん。どうしたらいいのだろう。杏さんは今日中に埋めたいものがあるけれど、私はテレビの前から動けない。落としどころは一体どこに。

「そういえば映画って何時に終わるの?」

「十時です」

「今から一時間ちょっとか。映画を見終わった後はどう?」

「行けます」

「それなら終わった後でいいか。よく考えたらもう少し暗い方がやりやすいし。よしよし、じゃあ十時出発ってことで」

 力強く頷く。一人であれこれ悩んでいたのがばかばかしくなるほど、単純な落としどころだった。

「私も一緒に見てもいい?」

「はいっ」

 食い気味に答え、テレビの電源を入れた。かなりの頻度でCMが流れていたのか、目を離した場面からあまり変わっていない。

「それでこれ、どういう話なの?」

 杏さんがベッドの縁に腰かけ、傍らにはコンビニで買ったチョコレートを広げている。鑑賞の準備は万端のようだ。私もお菓子、持ってこようかな。だけどその前に一仕事しなくては。

「ここまでのあらすじは――」

 すぐに呼び起こせる記憶を元に、身振り手振りあらすじを話した。



「そろそろ行ける?」

 十時を過ぎて映画と余韻に浸り終わり、杏さんがチョコレートを片付けだした。

「はい。準備しますね」

 テレビを消したり着替えたりと、頭の中で映画の感想をまとめるうちに支度は整った。

「それじゃあ、出発」

 杏さんの号令で部屋を出た。エレベーターで一階に降り、そのまま駐車場へ。

 五階のベランダに吹く風はあんなにも冷たかったのに、昼の名残がそこかしこに残っている。頬を撫でる生ぬるい風、何匹か残業に勤しむ蝉の弱々しい声。肌触りのいいルームウェアが早速恋しくなってきた。

 何度と乗り慣れた赤い車へと乗り込むとすぐに走りだした。高台に位置するホテルから出て、目下に広がる夜景へと坂を下っていく。けれども途中から夜景から離れるように走り、いつの間にか住宅街へと入り込んでいた。

「あの、案内しなくても大丈夫ですか?」

 スマホを取り出して見せた。

「この辺りはよく知ってるから多分、大丈夫。迷ったら頼むだろうけど……あ、見えた見えた」

 杏さんの声に呼応したように、大きな建物が姿を現した。フェンスと自然に囲まれた建造物。眼鏡をかけていても受け取れる情報はその程度。しかし建物の周囲をぐるりと回り、街灯の立ち並ぶ道路に出ることでその正体はすぐに分かった。

「学校、ですか」

「ええ。私と彼が通ってた小学校。出会いは卒業してからだけど、昔の思い出はいっぱい詰まってるから」

 校門を通り過ぎた路肩で止まった車。周りにはスーパーもコンビニもない。明かりの消えたアパートや一軒家が息を潜めるようにそこにあるだけ。

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