遥か遠く、雲の上で
明(めい)
プロローグ
学校の帰りに、津茂井(つもい)神社へ寄った。
五十段ある階段の両脇には桜の木が植えられており、今は緑の茂った葉と葉の間を光が貫いている。ゆらゆらと揺れる葉の影を踏み階段を登り、桑名海斗は出迎える狛犬に挨拶をした。
手水舎で手を洗い、参拝をしてから社務所の近くにあるベンチに座る。
木の葉が回転しながら舞い落ちる。参拝客は誰もおらず、狛犬もまた沈黙を続けている。
小学六年生の初夏まで、つまり去年の今頃まで、海斗はこの神社にいる狛犬とよく遊んでいた。小さい頃から、この神社にいる狛犬が見えていた。
二匹いるのに一匹しか見えないのも奇妙だったけれど、そいつは「狛犬の化身のタロウ」であると自ら名乗って人の言葉を話し、人の姿をして自由に動き回っていた。
外見は人間の年齢に例えれば五十代後半か六十代前半といったところだろうが、七百年以上は生きているという。犬の耳と尻尾がついていた。そして、自在に犬の姿に変身する。
人には本来見えない存在、と言っていたので、周囲に話したことはない。
小学校中学年くらいまでは体が丈夫ではなかったため、友達があまりできなかった。
だから学校帰り、よくタロウに話し相手になってもらっていた。
いろいろなことを教えてもらった。いいことや悪いこと。世の中のこと、タロウが見てきた日本の変化。雑談の他にも道徳や教訓や、そういった類のことを優しく教えてくれた。
成長を重ね健康になり、六年生の夏以降、姿が全く見えなくなった。日常の中にタロウがいるのは当たり前のことだったので、見えなくなってしまったと気づいたときは、とてもショックを受けた。
タロウはいつも元気そうだったし笑っていた。だから海斗が現実世界に適合するために見えなくなってしまっているのだろうと思っている。
僕は大人になるにつれタロウの存在を忘れていくのだろうか。それは少し寂しかった。
まだ鮮明に共に過ごした日々を覚えている。
「どうしてタロウは、そんな姿をしているの」
疑問を率直に口にしたことがある。小学校二年生くらいの頃だ。
「我々はなぁ、人間の想像力から生み出されたものだ」
耳に響く低い声を思い出す。
「なら人間は誰の想像で生まれてきたの」
そんなふうに訊ねると、タロウは無言で笑った。
「人の想像力でなにかが生み出されるのなら、僕が想像したものも、存在できるようになるのかな」
「できるさ。車が走っていたり、飛行機が飛んでいたり。それが今の世の中だろう。人の目に見えないものは、多くの人々の思いや強い念から生まれる。飛行機も車も――今のこの時代の全てが、個人の想像力から始まった。しかし想像から悪いものをもたらすこともある。磁器や電波を使いすぎるとちょっと危ないんだよ。でも基本的に想像は楽しいものだ。海斗はどうだ? どういうものを想像する?」
「少し頭の中に思い描く世界はあるんだ。でも発明はんかはできないよ」
「なら小説などの物語を作ってみるのもいいかもしれない」
タロウは海斗の話を決して否定したりバカにしたりはしなかった。だからいつも安心してどんなことでも話すことができた。
なのにどうして今、その存在を否定するかの如く見えなくなっているのだろう。今だって、タロウがひょっこり顔を見せてくれるのを期待せずにはいられない。
「もう会えないのかい」
狛犬の像に呟いてみる。反応はなかった。
タロウとああした会話をしてから、いろいろなことを想像するのが楽しくなった。
もっともっと子供のころは、周囲の世界が不思議なことに溢れていて、夜道を歩けば闇に喰われて家に帰れなくなると思っていたし、エレベーターに乗ればなにかのきっかけで不思議な世界と繋がってしまうのかもしれないと根拠もなく信じていた。
小説、か。
なにか書きだしてみようと、ノートとシャープペンシルを取り出す。
南風が吹きぬけていく。
海斗は頭の片隅で、いつもぼんやりとふたつの世界を想像していた。
ひとつは未来型都市、桃京(とうきょう)。
日本は日本として存在するが、車が空を走り、元号も通貨も歴史も異なる世界。古来よりグローバルに活躍している。科学も発展しており、カンと運と夢と縁以外の非現実的で漠然としたものにはあまり理解のない社会。
英語は第二公用語。
もうひとつは、何年か前、桜の咲いた頃に「チェリーブロッサム」という単語を祖母から教わったから、略してチェルムと呼んでいた。
文明はそれほど進んでいないけれど、自然と融合しており人々も感性豊かで超能力を扱える。未来型都市と対比して考えていた。
もし、科学が今日ほどに進んでいなければ、あるいは進んでいない特殊な理由があれば、人類はまた別の、独特の社会を築きあげていたのかもしれない。きっと、科学を重視しない世界では自然を大切にしたのかもしれない。そうしてそのことによって、僕たちが常日頃切り捨てている感情や感性も――あるいは人々が気づかない感性も磨かれるのかもしれないと考えていた。
では、その超能力社会に縛りをつけてみよう。例えば、テレポートが使える。だけど使えるのは物体のみで、人間をテレポートさせるのは禁忌。
こんな具合にどうだろう。
もっともっと、イメージしよう。いつか小説でも書けるかもしれない。
思いつく限りの面白そうな設定を書いてみることにした。
階段を誰かが登ってくる音がして、顔をあげる。参拝客がやってきた。
夢中になりすぎていたようだ。
空には夕焼けが広がりつつある。ひとつところで同じ体勢でじっと考えていたので、
寒さも少し感じる。五月といえども夕方はまだ冷えるときがある。このままだと風邪
をひいてしまいそうだ。続きは家に帰ってから考えよう。
ノートをしまうと、狛犬の像に挨拶をし、背を向けて夕焼けの中の階段を下った。
いつまでも悲しんでいては、タロウも気にするだろう。
だからタロウのくれた言葉をもとに、しばらくの間は創作に励んでみよう。それがたとえ、どんなにくだらないものだとしてもきっといつか、価値のあるものに変わるのかもしれない。
空になにかがきらりと光り、あっという間に走りぬけていく。流れ星だろうか。
海斗は黄昏の空気の中を、ゆっくりと歩いた。
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