第16話
修学旅行の行列は四天王寺まで歩き、
人間のあまりの多さに、生徒たちは緊張していた。しかし、凛花のように藍森寮にすむ生徒たちは平気な顔をしていた。花梨はその中間だ。東京で暮らしていた記憶が徐々に色を濃くしていて、懐かしさと同時に、ゾワゾワする恐怖を感じていた。
多くの生徒は、地下鉄に乗るのは初めてだった。普段ならふざけたりおしゃべりに夢中になるところを、少しばかり緊張した表情で、あるいは逆ににやにやして〝なんば駅〟まで乗った。彼らが声を発しなかったのは、周囲の乗客に田舎者だと思われるのが怖かったからだ。
地上に出ると、緊張が解ける。道頓堀はテレビでしか見たことのない大きな祭りのような場所だった。「まいど!」「どないや」「なんでやねん」「おおきに」バラエティ番組で聞きなれた関西弁に包まれた。
生徒たちは〝不思議の国〟に迷い込んだようにきょろきょろしながら歩き、やっと普段の声を取り戻した。「人がいっぱいだ」「高校生が化粧をしているぞ」「中学生もだ」「見ろよ、髪、緑色だぞ」「あっちはピンクだ」「花梨みたいのがごろごろいるぞ」「グリコだ!」
そうしてグリコの看板の前で、かわるがわる写真を撮った。
しかし、写真を撮るとすぐに黙った。事前の説明会で「なんば周辺には畑を荒らすイノシシのようなガラの悪い男たちが多いから注意するように」と友永に脅かされたのを森村が思い出して口にしたからだ。藍森町の人間にとってイノシシは、生活を荒らす熊より厄介な生き物だった。
「見失うなよ」
生徒たちは人波にもまれ、酔い、置き去りにされそうな不安を覚えて教師やバスガイドの背中を追った。
「良い匂い!……おぉ、たこ焼きだぁ」
花梨はたこ焼きの匂いに誘われ、一瞬、店の前で足を止めた。それだけで友人を、バスガイドの小旗を見失って迷子になった。
「あれ、……やだ」
小さな十字路でぐるりと周囲を見回した。目に留まるのはオシャレな装いの若者かスーツ姿の中年男性、外国語をしゃべる東洋人の集団ばかりだ。
まいったな。みんな、どこ?……極度の緊張が作る表情は、時に笑顔に似ている。実際、困ると笑ってしまうこともある。
「なんや、何がおかしい?」
派手な柄のシャツが、目の前をふさいだ。見上げれば、いぶし銀の沢山のピアスと鼻の金属の輪が目に飛び込んだ。まずいことに佐藤一郎の家の牛を思い出した。
「い、いえ……」ひきつった顔は笑顔そのものだ。
「俺を笑うたなぁ、ん?」
牛がしゃべった。……ますますおかしみが増す。もちろん、牛でないのはわかっている。牛は目の前の彼と違って可愛い目をしているのだ。
「そ、そんなことないですぅ」
「俺の顔に何かついているちゅうんか!」
ついてます、輪っかが。……瞬時に浮かんだ言葉をゴクンとのみこむ。
「あ、私、修学旅行で……」
「だから、なんや? そうや、ちょっと付き合え」
彼の手が手首を握った。
ヤバッ、どうしよう!……頭の中が真っ白になった。その時、後ろからギュッと腕をつかまれた。
新手だ、助けて!……頭を過ったのは母親の顔だった。
「ごめんなさい。この子、迷子で……。困ると顔が笑っちゃうんです」
その声は母親のものではなかった。
「ダメじゃない。先生、心配していたわよ」
そうきつく言った凛花がグイっと腕をひいて走り出した。花梨も走った。牛男は追ってこなかった。
「あ、ありがとう」
走りながら礼を言った。
「ここは田舎じゃないんよ」
ほんの少し走っただけで、藍森高校の一団に追いついた。
「あの鼻のリング、なんていうんだっけ?」
迷子になったのが恥ずかしくて訊いた。
「アホ」と凛花が応じた。
「アホ、そんな物だった?」
彼女が肩を落とす。それからは口を利いてくれなかった。
バスに乗ってから、あのたこ焼きを買ってくるんだったなぁ、と脳裏を後悔がよぎった。
バスは大阪城公園に向かい、定番の大阪城を走るように見物してから、その夜の宿泊先に向かう。長いトンネルに入った。
「この阪奈トンネルは総延長5580メートル、生駒山の下を貫通しています。トンネルを境に、バスは大阪府から奈良県に入ります」
バスガイドは標準語で説明した。生駒山の名前が出たからか、幾人かの視線が花梨の隣に座る凛花に向いた。
「生駒山って、生駒市にあるの?」
間抜けな質問は、トンネルで反響するエンジンの轟音にかき消されたが、凛花は僅かにうなずいたように見えた。
花梨は身体を通路側に倒してフロントガラスに眼をやる。暗闇の中に無数のオレンジ色のライトとセンターラインが続いているだけだった。長いトンネルは藍森町にもあるが、阪奈トンネルほど明るくなかった。
「長いトンネルね。出口が見えない」
独り言だった。
「人生みたいなもの。見えた時は、終わりなのよ」
エンジンの轟音の中に声がした。
「えっ?」
まさか凛花のはずがない。……隣に眼をやると、背もたれに身体を預けた凛花は眼を閉じていて、大理石の人形のように見えた。その美しい顔に次々と流れるオレンジ色の灯りが、意味のない影を作っている。
「何か言った?」
花梨の声は再びエンジン音にかき消された。
そうだ。凛花の声が聞こえたのは錯覚だ。ヤバイ、ヤバイ、ヤバイ!……花梨は心の中で叫ぶ。このままでは凛花の深い闇に引きずり込まれてしまう。
通路側に身を乗り出して後方を見る。佐藤と目が合った。彼が親指を立てて白い歯を見せて笑った。何か言っているが声は聞こえなかった。
花梨が眼を寄せて、べーと舌を出してやる。彼がガムを投げてよこした。
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