黒百合三年録

白兎銀雪

愛と復讐

 月日は当たり前に過ぎる。幼馴染の藍と私が高校生になって、一ヶ月あまりのことだった。

「私さ、慎吾くんのこと……す」

「好きなんでしょ」

 藍の言葉を遮って、私は指摘する。別に告白でもないのにずっと言い淀んでいた藍は、顔を真っ赤にした後机に突っ伏した。

「……はい」

 弱々しい声がかすかに聞き取れた。可愛い子だ。教室には藍と私の二人しかいないというのに、私に言うのすら恥ずかしいらしい。

「いいじゃん。せっかくパート一緒なんだし、いっぱいアピールしてこい」

 一向に顔を見せてくれない藍の肩に手を添えて、労うように肩を揉む。

「うー、でも、部活にそういうの持ち込むのは違うっていうか……」

 どこか分からない方向に視線を向け、誰にか分からない言い訳を始める藍の背中を、今度はバシッと叩く。

「何言ってんの、もう好きなくせに。藍みたいな可愛い子、慎吾くんもきっと好きになるよ」

 藍の視線がこちらを向く。涙を滲ませて頬を赤らめている顔、きっと慎吾くんに告白する時も、こんな顔をするんだろうな。

「きっと上手くいくよ、頑張って……ほら、練習行ってきな」

 藍を見送って一人になった教室で、窓の外にカラスがいた。野球部のために張られたネットに止まっているそいつは、いつも一人っきりだ。

 応援している、とは口が裂けても言えない。だって私は、藍のことが好きなんだから。


 その日の夕方も、藍と二人で帰った。私は新聞部に入っているけれどそんなに忙しくないので、勉強して藍の部活終わりを待っていた形になる。

 なにやかにやと自身なさげなことを言ってはいたが、結局今日もオハナシはできたそうだ。慎吾くんも藍のことを悪くは思っていない、どころか、好きなのではないかと思う。

 藍にとっては喜ばしいことだろう。腹が立ったから、それは教えてあげなかった。

 湯船に浸かって、それを少しだけ後悔した。言ってあげた方が、いい友達だっただろう。

 お風呂は好きだけど、長湯しそうだったのでさっさと切り上げた。

 ドライヤーの騒音に包まれて、洗面台の鏡を見ながら考える。

 藍に向けている感情が恋だと理解したのはいつだったか。

 藍が慎吾くんに向けている感情を恋だと思ったのはいつだったのか。

「恋愛と友情の境目ってなんなんだろう」

 小さな声は誰にも届かないし、鏡の中にいる女は何も答えない。当たり前だ、私にも分からないし。



 月日は当たり前に過ぎる。じっとりとした梅雨が、かえって夏を待望させるような日だった。

 珍しく新聞部の仕事に追われていると、吹奏楽部の合奏が聞こえてきた。私には音楽はよく分からないけれど、藍が吹くフルートの音だけは聞き取れる。ずっと傍で聞いてきたから。

 慎吾くんは少し離れた中学から来た人で、藍と同じように中学校の頃から吹奏楽をやっていたらしい。少し話したことがあるが、確かに普通の男子より物腰が柔らかで、吹奏楽部の男子という感じではあった。

 夏のコンクールに向けて、吹奏楽部の練習は厳しい。経験が長く素人が聞いても上手な藍は、慎吾くんと一緒にコンクールのメンバー入りをしたらしい。縦社会と聞く吹奏楽部で一年生が台頭することが藍にとって不幸なことにならないかを私は心配したが、藍はいつも楽しそうだった。

「音坂さんさ、SDGsって分かる? 八木先生が、次の新聞はそれをテーマにしたらいいんじゃないかって言ってるんだけど」

 思わず思索に耽る私を、部長の声が引き戻した。部長と私、それと幽霊部員2名しかいない新聞部は、事実上私と部長だけで新聞を作っている。

「さぁ、よく分からないです」

 困った顔を作る私に、部長は頭をかきながら、だよねぇと笑う。

「貧困をなくそう、飢餓をゼロに、すべての人に健康と福祉を、質の高い教育をみんなに、ジェンダー平等を実現しよう……いやあ、新聞一枚にまとめるには、こう」

「ご大層すぎますね」

「そうそうそれ、音坂さんはいい言葉を使う」

 部長のことは好きでも嫌いでもないけれど、少なくとも言葉の感性が近いことだけは知っていた。結局のところ、こんなことを言ったって顧問が提案した以上は断れないのだけれど、文句を言う権利くらいあるだろう。

 席に戻って行った部長が、ペンを耳にかける古めかしい手悪さをしながらぼやいた。

「大体、平等なんてさ。そう簡単に実現できないっつーのにね」

 いつもだったら少し腹が立ったのかもしれないけれど、なぜだか心から同意できる気がした。窓の外に、今日も一羽のカラスがいる。鳴くこともせず、何を思っているのだろう。


 夏が近づいてきて、エアコンの入らない洗面所は蒸し暑かった。パンツだけ履いて、後は何も着ずにドライヤーを手にとる。

 痩せてるとか太っているとか、どっちでもない自信はあったが、学校では周りの女子が細すぎてちょっとだけ太く見える気がしなくもない。

「別に、誰に見せるでもないからいいけどさ」

 いつから胸が膨らんだんだっけ。その時は、気持ち悪いとは思わなかったはずなのだけれど。



 月日は当たり前に過ぎる。藍と慎吾くんは、夏のコンクール直後から付き合い始めた。

 クラスの中で藍がからかわれているのを見るたびに、私は辛くて、だから積極的にその輪に加わる。恥ずかしそうにしている藍の顔は、私が知っているどの藍の顔とも違った。

 その日の6限目は総合だった。

「LGBT、あるいはLGBTQか」

 総合の時間とかいうものがなぜ存在するのか、私は昔から不思議だった。小学校の頃、お楽しみ会だのに振り替えてもらうと、そっちの方を散々楽しんだくらいのものだった。

 だというのに、高校になってもそんなものがあるらしい。

 みんなやたらと真面目な顔をして話を聞いている。約5%はそうらしいが、この中で言うと私の他に誰がそうなんだろう。みんな嘘をつくのが上手らしい。

「えー、レズビアン、ゲイ、バイセクシュアルの3つの性的指向と、トランスジェンダーまたはトランスセクシャルの性自認、各単語の頭文字を組み合わせた頭字語であり、特定の性的少数者を包括的に指す総称である。……すまん、Wikipediaの受け売りなんだが」

 何が面白かったのか、みんな少しだけ笑っていた。まあ確かに、教師がWikipediaに頼るなんて世も末か。いや、世はずっと末だけれど。

 他人が私の自己紹介をしているような不思議な空間で、別に訂正する気なんてさらさら起こらなくて、今日も一羽で迷い込んできたカラスの姿をずっと見つめていた。


 生理は嫌いだった。湯船に浸かれなくなるし、お風呂の順番が最後になるから。

 父も母も寝た夜遅く、ドライヤーで髪を乾かす。男子だったらこの手間も省けるだろうにと思うと、腹立たしさよりやるせなさの方が強く感じられる。

 寝る前だから歯を磨く。鏡を見る。ふと、今日の授業のことが思い起こされた。

 性的少数者で悪かったな。気を遣うの、めんどくさいでしょ。

 なんだか胃がムカムカする。

 理解したフリをするな。相互理解なんでできない、それはお互いよく分かっているだろう。

 今日の夕飯はいつもより少ないくらいだったのに、みぞおちあたりが苦しい。

 女同士とか男同士とか、どうせ気持ち悪いって思ってるんだ。

「こっちだって、気持ち悪い……!」

 耐えきれなくなって、洗面台に思いっきり全てを吐き出す。無駄だった。なにも出てきてはくれない、歯磨き粉を少し浪費しただけ。

 藍は慎吾くんと帰ったから、私は一人で帰宅した。ここ数日はずっとそうだ。

 藍はもう慎吾くんと手を繋いだのだろうか、キスしたのだろうか、もしかして、セックスもしたのだろうか。

 見上げる。鏡に写る女は、信じられないくらい不細工だった。



 月日は当たり前に過ぎる。少し肌寒くなった秋の日に、藍が一緒に帰ろうと声をかけてきた。

「今日は慎吾くんと帰らなくていいの?」

「うん、慎吾……くん、今日友達と遊ぶんだって。それに、瑞希とも一緒に帰りたいし」

 永遠に繰り返したように感じた一人での下校も、実際は二週間弱のことだった。藍の言葉がただの気遣いではなくて本心であることが、分かるからこそやめてほしかった。

「あ、もう名前で呼んでるんだ。うっらやましー。私、三上くんって呼ぶようにしようか?」

 信じられないくらいすらすらと出てくる嘘が、我ながら薄ら寒い。本当にお金に困ったら、キャバクラとかでも働けるんじゃないだろうか。

「えー、もう、やめてよ恥ずかしい! 瑞希も慎吾くんって呼んでいいから!」

 藍はそんなことには一切気付かずに、頬を赤らめて笑っていた。私も口角を釣り上げる。

「も、じゃなくて、は、でしょ。自分は名前呼び捨ての関係のくせに」

 いつも一羽でいるカラスが、ネットの上から私を見下ろしている。

 藍。私はずっと、藍のことを藍って呼んでるよ。

 藍もずっと、私のこと、瑞希って呼んでるじゃん。

 それは、恥ずかしいと思ってくれないのかな。


 一軒家で、自分の部屋があってよかったと思う。

 父も母も眠った我が家はしんと静かで、誰もいないみたいだった。

 ベッドに腰掛けて、天井を見るように寝転ぶ。毎度毎度意味もなく、無駄に腹が痛い。

 息を止める。念には念を入れて、首を絞める。こんなもの、よっぽどか苦しくはない。

(死ね)

 そうだ。私が死ねば全て解決だ。藍も慎吾くんも悪くない。私がいなくなれば上手くいく。

(死ね、死ね)

 心の中で何度も繰り返す。少しずつ頭に血が昇っていく感触がある。指先に触れる頸動脈の拍動が少しずつ早まっていく。

(死ね、死ね、死ね)

 指先や足先が少しだけ痺れてきた。だんだん力を入れていられなくなる。仕方がない。なんとか、息だけは止めていられるよう耐える。

(死ね、死ね、死ね、死ね)

 藍と出かけた時の、藍の顔を思い出す。大好きな笑顔。それを、守りたい。

(死ね、死ね、死ね、死ね、死ねってば!)

 でも駄目だった。身体は憎たらしいほどに酸素を求めて、意識が遠のく寸前に息を吸い込んでしまう。荒く息をする度に、子宮から血が吹き出しているように思う。

 私は、私の身体が大嫌いだ。



 月日は当たり前に過ぎる。本格的に冬の訪れを意識し始めた日に、私はふと言ったのだった。

「私さ、藍のこと好きなんだよね。友情じゃなくて、恋愛として」

 最寄駅に降り立ってから自宅までは自転車を使うには微妙な距離で、高校に入って半年と少し、藍と私はいつも二人でこの道を登校している。藍と慎吾くんのどちらが気を遣ってくれているのかは分からないが、金曜日だけは下校も二人だ。

「嬉しいよ、ありがとう」

 ほんの僅かな沈黙があったが、藍は私の方をまっすぐに見て、屈託のない笑みを浮かべた。

「気持ち悪いと、思わない?」

 思わず言葉が続いてしまった。自分でも何がしたかったのか分からないというのに、藍はおそらく最良の返事をくれた。性別なんて関係ない。藍には恋人がいて、私の告白は不貞行為だ。だというのに藍は、私の気持ちをもう一度胸の内にしまう機会を与えてくれた。

「そんなの、思うわけないじゃん」

 藍の言葉に嘘がないことは私には分かる。ずっと抱えていた重たい氷の塊が、少しずつ溶けているのではないかとすら思えた。そうだ、藍はそういう子だった。ずっと、ずっと、高校に入る前から、慎吾くんと付き合う前から。藍と私は大丈夫だ、私はまだ大丈夫だ、襟元を締めたくなる寒さの中で、そんな暖かい心の灯火が久しぶりに生まれた気がした。

「だって、私と瑞希は友達だから」

 弱く私の後ろから吹いていた風が不意に方向を変え、叩き付けるように私を打ちのめす。風は炎を強く燃え上がらせるが、あまりに強い風は、炎すらも掻き消してしまう。

 高らかに鳴くカラスの声がする。同情なのか嘲笑なのか、どちらにせよやめてほしかった。


 私は結構、嘘をつくのが得意だ。けれども流石に、藍の前が精一杯だったらしい。

 珍しく私より早く帰宅していた父と夕食の支度をしていた母が、血相を変えて心配してくる程度には、帰宅した私は憔悴していたらしい。

 申し訳ないと思いつつ何も説明できず、涙だけが堰を切ったように溢れてやまなかった。父は私を優しく抱き寄せて何も聞かず、母も黙ってそれに寄り添ってくれた。

 昔何かのちんけな雑誌で、家族の異性に対する恐怖感が同性愛の原因だ、なんて書いていた。大嘘だ。私は父が大好きだし、尊敬している。そんなことで片付けられるなら、私はとうに一生父を恨んでいたはずだ。だからと言って、私は男性を好きになれないのだ。

 風呂に入る気力も、ご飯を食べる気力もなかった。母に謝ると、明日食べられそうなら食べてね、と頭を撫でてくれた。私みたいなのが娘で、死んでしまいたいほど申し訳なかった。制服のままベッドから眺めた天井が、洗面台の鏡のように私の無様を写している。

 ストレスが強いと生理が来なくなるのだという。一生ストレスを抱えていれば男になれないだろうか、そう考える程度には気が滅入っていた。



 月日は当たり前に過ぎる。だから当然、昨日の次は今日だし、今日の次は明日だ。

 次の日の朝食はいつも通り食べたし、いつも通り身なりを整えて、藍と二人でいつも通り登校した。いつも通りでないのは、私の心中だけだった。

 休憩の合間を縫って、私は慎吾くんがいる教室へと向かった。

「三上くんいますか。少し話したいことが」

 入り口で適当な人を捕まえて尋ねると、私に何か見覚えでもあったのか、戸惑うこともなく教室の端にいる慎吾くんに声をかけてくれた。

「シンゴ!音坂さん来てるぞ、お前に話があるってよ」

 慎吾くんは私を覚えてくれていたのか、こちらに向けて軽く会釈しすぐに立ち上がった。

「なんだよシンゴ、お前風間さんだけじゃなくて音坂さんとも」

 誰かよく知らない男子が何か言っているけれど、今日はどうでもよかった。私が入り口で捕まえた人が、うらやましいと呟いて立ち去るのが聞こえた。私のことなら気持ちにはどうせ答えられないですごめんなさい、意味もなく胸中で謝罪しておく。

「あ、音坂さん。ごめんね、どうしたの?」

 誰に対する何の謝罪なんだろう、と気になったが、それもやっぱりどうでもよかった。こうして並び立ってみると、やっぱり男子は背が高いし体格も女子とは違う。平等なんて実現できない、そうぼやいた部長の言葉がフラッシュバックした。

「藍と三上くんに話したいことがあるんだ。放課後、屋上に来てくれる?」

「ん? あ……風間もね、オッケー。今日は練習ないから行くよ」

 我ながらあまりに突然の誘いだったと思うのだが、慎吾くんは特に理由を問うこともなく、人当たりのいい笑顔で了承してくれた。藍と呼びたいならばそう呼べばいいのに、と、でもそれはもう怒りですらなかった。この笑顔を藍は好きになったのだろうか、それとももっと違う表情だろうか。そういえば、そこはしっかり聞いていなかったな、と思い返す。

「ありがとう。それじゃあ、また後で」

 用事は済んだので、とっとと踵を返す。慎吾くんが困惑している様子が見ていなくてもわかったが、どうせ後でもっと困るのだから、と気にしなかった。

 少しだけ、可哀想だと思う。誰が、何がなのかは、やっぱり分からない。

 それにしても今日は、姿は見えないけれど、夕方みたいにやたらカラスの鳴き声がうるさい。


「藍、今日の放課後ちょっと話があるの。屋上に来てもらってもいい?」

 お昼休憩、二人でお弁当を食べながら、何気なく藍に告げる。

「大丈夫! え、何の話?」

「それを今言ったら意味ないでしょ」

 えー、と藍が笑う。そうだ。今だけはまだ、藍と話せる私でいさせてほしい。



 月日は当たり前に過ぎる。来て欲しくなかった放課後も、当然やってくる。

 屋上は寒くて、先に来ていた藍と慎吾くんは少し震えていた。ごめん、とは今更言えない。

「それで、話って?」

 藍がそう尋ねたのをきっかけに、私は二人との距離を詰める。最低な人間だ、引き金を藍に任せてしまったのだから。でも、もうどうでもいい。屋上には、藍と慎吾くんと私だけ。

「藍、前言ってくれたでしょう。藍と私は友達だから、って」

 藍の顔が少しだけ強張った。その秘密をずっと守ってくれていたからだ、と聞かなくても分かる。藍のことは、だいたい分かる。だから、これからのことを、藍がどう思うかも。

「……これでもう、友達じゃないね」

 話についてこれずに不思議そうな顔をしている慎吾くん、その制服のネクタイを掴んで、思い切り引き寄せる。うちの制服がブレザーで本当によかったと思う。

 背が高く体格もいい慎吾くんだけれど、突然のことにその身体はよろめいた。この機会を逃さないように、彼の唇に私の唇を重ねる。

 キスは目を閉じるものだと聞いたことがあるけど、なんだか腹立たしいのでそうはしなかった。慎吾くんの唇は、想像していたより柔らかい。男子だからって、別に唇が硬いってことはないらしい。

 時間にしたら二、三秒に満たなかっただろう、抗いようのない力で、私の身体は慎吾くんに突き放された。

「音坂さん、何して」

 慎吾くんの顔には、嫌悪感以上に困惑の色が浮かんでいた。彼が本当に優しいからなのか、男子はキスなんて誰としても嬉しいのか、どっちなんだろうな、なんて馬鹿なことを考える。


 その思考は、突然頬に走った鋭い痛みのために終わった。

 藍だった。誰かに暴力を振るったことなんてない彼女が、私を平手で引っ叩いたのだ。

「……大嫌い」

 こんなに泣きそうな顔をしている藍のことを、私はこれまでに見たことがないし、きっとこれからももう見ることはないだろう。

「うん、分かってる」

 藍は何も言わず、階段の方へと走り去った。慎吾くんは迷わずその後を追って、扉を開ける時に一瞬振り返ったけれど、止まりはしなかった。訂正しておこう。彼は本当に優しい人だ。

 私の身体を操ってくれていた糸がプッツリと切れて、気がついたらへたり込んでいた。見下ろしてくる冬の空は、私を笑っているだろうか。真っ黒な鳥が一羽、私の前を横切っていく。

「こんなもんか、ファーストキスって」

 痛む頬だけが、色鮮やかな気がする。世界は、どうしようもないほどに色がない。



 月日は当たり前に過ぎる。そして私は、置き去りにすらしてもらえなかったようだった。

 孤立してしまう覚悟は決めていたつもりだったのに、クラスメイトはむしろ、藍と話さなくなった私に気を遣ってくれたし、藍と慎吾くんと話さなくなったこと、あとは生理がこなくなったこと以外、私の日常は変化しすらしなかった。

 もっとも、その変化がどれほどの意味を持つか、私は毎日毎日嫌という程噛み締めていたけれど。

 しばらくの交際を経て、二人はいつの間にか別れていた。別に不思議なことじゃないと思う。高校生同士の交際なんて、長く続く方が珍しい。周りも別に、そんなに気にした様子はなかった。時折盗み見た藍の顔は、別に私と話していた時と変わる様子もなかった。


 今日は卒業式の日だった。

 登校の早い女子で集まって書いた、黒板を彩る卒業おめでとうの文字。うちの担任がそういうタイプではないのは分かっていたので、せっかくだから生徒で好きにしてしまおうという魂胆だ。

 遅れて登校してきた子たちもめいめい好きに参加して、だいぶ混沌とした、けれど楽しいものになったと思う。夜にはみんなでご飯に行こうという約束をして、ああ結構楽しいクラスだったよなぁ、なんて思い返す。

 このクラスに藍はいない。高校2年生で文理に分かれて、私と藍のクラスは別々になった。思ってみれば、あんなことがあっても3ヶ月ちょっとは私が同じクラスにいることを許容してくれた時点で、藍は底抜けに優しい人なのだと思う。

 きっと彼女のクラスでも彼女を中心に同じようなことをしているだろう。彼女は、繋がりを大切にする人だから。

 女子はみんな、制服から着替えると言って帰って行った。卒業式終わりなんだから制服でもいいと思うけれど、最後だからと気合を入れたいそうで、みんながそうするなら別に一人だけ意地を張るつもりもなかった。

 誰か、連絡を続けたい相手でもいるのだろうか。なんて思いつつ、私はまだ教室に残っている。男子は皆でバッティングセンターに行ったらしい。教室には、私一人だ。

 黒板に書かれた卒業の文字をぼんやりと眺める。私は何を学んだのだろう。私はどう変わったのだろう。私は何から卒業するのだろう。私はどうなるんだろう。

 たった一つだけ分かるのは、月日が明日からも当たり前に過ぎるということだけだった。

 この教室にまで響いていた吹奏楽部が練習する音が今日は聞こえない。その静寂にふと、フルートを吹く藍の姿を思い出す。ふと見た窓の外に、もうカラスはいない。

 少しだけ不愉快な気分がして、ああそういえば、生理前ってこんな感じだったっけ、なんて馬鹿なことを考えたものだった。

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