四〇〇字の空白

靴屋

四〇〇字の空白

教室に差す茜色あかねいろが僕を黒く、床に投影とうえいする。

机に反射する夕空と雲が北風とともに流れていく。

僕はそこに一枚の原稿用紙を見つけたのだ。

スクールバッグを肩にかけて一人、

あの子の机の上に置かれたまま、

こごえそうに風にかれている原稿用紙を手に取る。


四〇〇字詰のどこにでもあるような原稿用紙。

オレンジ色を身に宿したそれが、僕をとどめたのだ。

別に、帰っても良かったはずで、

見ないふりだってできたはずなのに、

放課後のさわがしい校庭こうていを背にして立ちくしていた。


今日、僕らは卒業文集をもらったのだ。


空っぽの教室はかすかに呼吸をしている。

カーテンを揺らして、僕の髪をさらっている。

白紙の原稿用紙は木炭の黒を待ちながら、

来るはずのない次の日とあの子をずっと待っている。

僕は机に手をかけて、廊下ろうかを少しのぞいた。

廊下には物寂ものさみしさが名前をつけて並んでいただけで、

僕はすぐに顔を引っ込めて現実にもどった。


一番後ろの廊下側、

椅子いすを引いて、どさりとそこに座り込んだ少年。

低くくなった机には落書きがあって、

それをおおかくすように原稿用紙は置かれていた。

黒板が遠いのは睡眠すいみん学習にいそしむためだったのか、

そう思うと、ふと笑顔が込み上げそうになる。


僕がこの中学に来た時から、あの子はいなかった。

僕の席のちょうど対岸たいがんにあるあの机には、

いつも、別の誰かが座って談笑だんしょういていた。

歴史の話、文法の話、確率の話が頭を通り抜けて、

その度に何もない、誰もいない机を見ていた。

一番後ろの廊下側、放課後のはじにぽつんとたたずむ。


あの子はもう来ないよ、と連絡があったのは、

先々月の朝礼、残り五分ごふんの何気ない訓話くんわの中だった。

誰もおどろかないふうによそおっていた。

担任の言葉はノイズとなって頭を通り抜ける。

そして、朝日の入らない朝礼は静かに終わった。

いつもはおしゃべりな級長も下を向いていた。


その次の時間に、僕らは卒業文集を書いたのだ。


どんな季節が来ようとも、空席はそこにあった。

ちない三日月みかづきのような、そんな教室だった。

それを文字に起こした時だ。

言葉という形にあらわした刹那せつなに、声が聞こえた。

その声はいつもの馬鹿笑いとは違ってみょうだった。


「先生、あの子の分の原稿用紙がありません」


いつも、休み時間にあの空席を占拠せんきょしている女子が、

手を挙げて僕らの心を代弁だいべんしたようだった。

落書き一つない綺麗きれいな机はほこりをかぶっていた。

先生は不審ふしんな顔をしながら、原稿用紙を先頭に配る。

人の手から人の手へ、原稿用紙がかって、

一番後ろの廊下側、机上きじょうにひらりと着地する。


紙に黒炭のれる音が教室を埋める。

けた空席を埋めるように、あの子のことを書く。

誰もが、つたない文字であの空白を鮮明せんめいに染める。

原稿用紙の一マス一マスに思い出がつのって、

気付けば、終鈴しゅうれいが頭の上を通り過ぎていく。

僕は白紙の原稿用紙をカバンにしまっていた。


あれから、何も書かずに今日をむかえたが、

僕はこれでよかったのだろうか。


そんな時に、あの子の机の上に置かれたまま、

凍えそうに風に吹かれている原稿用紙を見つけた。


僕はシャーペン一本を不器用ぶきようにぎりしめて、

茜色が乱反射らんはんしゃする空っぽの中、書きなぐっていた。

この教室を出る前に、書かなければならない、

顔も見たことがないあの子に向かって。

中学三年生、未熟で未完成な言葉が無秩序むちつじょに並んで、

自己満足的な文章が原稿用紙を見えなくしていく。

春の校舎の中、僕だけが書いていた。


書き終えた僕はスクールバッグを肩にかけて、

もう一度原稿用紙に視線を落とした。

あの子の四〇〇字を、僕は横取りした。

北風は足元を冷やして、帰路きろかすから、

僕は振り返らずに夕方をき分けて、走った。


机に書かれた思い思いの言葉。

私はその上に置かれた一枚の原稿用紙を見つけた。

正門せいもんですれ違った男の子の忘れ物だろうか、

紙面をおどったような字がズラリと四〇〇字ある。

拙い文章に、笑いをふくんで読み進めたが、

私の空白を埋めるその言葉たちに涙を流したのは、

それからもなくのことだった。


透明とうめいなアンタに、会いたかった」


最後の言葉は、そんな感じだった。

夕焼けも終わりを迎えて、夜の足音が聞こえる。

もう、こんなことはやめにして、早く帰ろう。

無理してぬすんだ屋上のかぎは校庭に投げ飛ばした。

馬鹿みたいだった。

言葉にさいなんだ癖に、言葉にはげまされて。

馬鹿みたいだったんだ。


心から笑ったのはいつ振りだろう。

誰の顔も見ないでいいよう選んだ一番後ろの廊下側。

私はそこにしばらく座り込んで、

この空白を、色のある思い出にしたくて。

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四〇〇字の空白 靴屋 @Qutsuhimo_V

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