オールド・ニューブリッジ
神田朔
2004
僕がべこべこした頭を突き出して生まれた時、僕の皮膚は真っ赤で、三十九度近い熱が出ていて、ねばつく血や胎盤のスジでどろどろだった。特別なことじゃない。人間が生まれるということは、往々にしてグロテスクだ。見た目はもちろん、その一連の流れそのものが非日常的だ。たぶん、そういうことを考えながら生まれた。
僕の母はあまりの痛みで目がかすんでいたらしいけれど、その時の光景をぼんやり覚えていて、折々のタイミングでその話をしてくれた。僕の十一回目の誕生日のとき、一番最初の映画の舞台挨拶のとき、僕の結婚式のとき、そしてその二次会でも。
ジョンレノンが撃ち殺されて、代わりに僕が生まれた、1980年の十二月。
痛む腹を庇って我が子を抱き上げようとした母はせいいっぱい両手を伸ばしたけれど、助産婦はそんな母を無視して、むせび泣く僕の体をドンと体重計の上にのせてから「3210g!」と大声で叫んだ。とっさに新人研修をしていた看護助手が、その数字を手元のクリップボードに書き殴った。その看護助手の人生最初の仕事は、僕の生まれた証を数値として書き留めることだった。
僕はその話を聞くたびに、まるで自分の体が肉屋で切り売りされている豚バラブロックのような扱いをされたような気がして、身震いした。
「人間は売り物である」
その話を覚えていたからなのか、僕の処女監督作品は、そういう脚本の書き出しで始めた。
人間は肉片である、とまでは書かなかった。その代わり、「人間は愛する人のために死ぬ。それはちょうど、誰かの胃袋を満たすために屠られる一頭の牛のようだ」と書いた。今思えば、顔から火が出そうなセリフだ。
あの映画を撮ったのは、僕がまだ旗揚げされたばかりの大学の映像サークルにいた頃だった。あの頃の僕には、実際に全てを投げ出して愛せるような人なんて、まだいなかった。そういう意味で、この書き出しは、全く何の意味もないお飾りだったといえる。ただ、どちらにせよとても良い作品だったのは間違いない。
僕が手を伸ばせば、軽く胸に触れさせてくれるくらいの女子はいたけれど、選り好みした僕が悪かったのか、妙に偏差値の高いプロテスタント系大学が悪かったのか、それ以上のことは何もなかった。好きになった相手に限って、僕に身を預けようとする酔狂な女性はただの一人もいなかったし、そんな女性たちが、今、幸福でない結婚生活にさいなまれていることをときどき空想したりもする。
僕が十九の時は、ちょうど世紀末にぶちあたっていて、中東での紛争が始まってから十年以上が経っていた。世界中の男の子と女の子が、明るい未来の見えないミレニアムに向けて、そこかしこで抱き合っていた。少なくとも僕の周りはそうだった。強敵に怯えていたのでもなくて、自分のアイデンティティを見失っていたのでもなくて、ただ、どことなく蔓延していたそこはかとない不安が大寒波のようにアメリカ全土に広がっていた。冷えた空気は足元に徐々に溜まっていって、あの頃はどの都市でもゴースト騒ぎが乱発していた。ありもしない幻影に怯えて、みんな確かなものにすがろうとしていたのだ。
僕の場合、それが肉だった。
目の前の人間の体。三十六度から七度の間をいったりきたりしている、紛れもない人間の体温。いつ触れてもずっと生温くて、心地よい暖かさをしている。皮膚が黒くたって白くたって黄色くたって、あるいは灰色じみていたって、その温度だけは世界中の人間に共通していた。おそらく。
僕は手近な誰かを抱きしめてその温度を確かめたかっただけなのに、そういう機会にはなかなか恵まれなかった。きっと、金を稼いでブランド物のバッグを一括で買って異性に差し出す行為を、極度に嫌いすぎていたんだと思う。どんなに胸に抱いた思いも、紙幣に換金しなければ届きようがないのだと知ったのは、二十代も後半にさしかかったころだった。2000年代の世界は結局滅びることなく続き、ますますかたちある確かなものが大切になっていく時代だった。
ただ、それはもう少し先の話。大人になりつつあった大学生の僕の関心事は、もっぱら金ではなく肉そのものだった。きめこまやかで化粧下地のふんわりのった皮膚の向こうにねむる、ルージュのような真っ赤な肉。
いわく、肉は売り物である。
肉を見ることこそが、命を実感するための良いやり方だと思い込んでいた。とはいっても、まさか牛や豚の屠殺場に通うわけにもいかないから、僕は肉についての映画を撮ることにした。もちろん、人間の肉についての映画だ。
僕は二十四歳で大学を出るときに、ささやかな学位と、例の自作の映画のフィルムを持っていた。そしてその全部をバックパックに放り込んで、僕は家族のいる日本行きの飛行機に乗り込んだ。
チケット一枚で、自分の体を銀色の熱い機体に押し込んで、極東の島国へと飛んだ。十セントで買った世界地図には、太平洋をジグザグに横断する白いイナズマのように、日付変更線が書かれている。一介のアメリカの学生からすると、この明日と今日の国境を越えた先の世界はほとんど人外魔境だった。文字通り、その向こうには今もセピア色の過去の時間が流れているような、そんな気がした。
厚い特別性ガラスの向こう側にわずかに映る僕の顔をじっと見つめ返しているのは、ジャンボジェットのエンジンだけだった。太平洋のど真ん中の、作り物めいたきらめきが眩しかった。海の表面は青い。その底は藍色で、暗い。
そのときの僕の脳は腐っていて、感想はそれくらいしか浮かばなかった。特になんの希望も持っていなかった。希望どころか絶望もしない。
移動時間を自分の将来のために使うのなら、世界恐慌の経済論でも勉強するか、古い映画をもう一度見直してカメラワークかなにかを勉強するべきだった。でも、あの時の僕は体の根っこから疲れ切っていたので、とてもじゃないが、新しいものを取り込む気力はなかった。その代わり僕は、飛行機の中で自分が撮影した映画のフィルムを三回も見直してしまった。懐古趣味みたいに、新しい人生と新しい国を目の前にしながら、自分のつたない仕事をバカみたいに振り返りはじめたわけだ。
USBを手元のパソコンに突き刺して、飛行機のノベルティの安っぽいイヤホンを耳に差し込む。
僕は自分の映画のオープニングを眺めながら、ひとつずつ自分が書いたストーリーを思い出していく。
僕と同じユダヤ人の女性ダンサーの話だ。彼女はダウンタウンの界隈では少しばかり有名で、薄汚い男たちのヤジに耐えながら、同世代の誰よりも苦労して夢を追いかけている。肉屋で激務のバイトをして、夜のダンスレッスンでいじめられ、ブロードウェーを夢見ている。ありがちで、理想的な、僕だけの主人公だ。大学のバレエサークルのたいして仲良くもない友人に、散々学食を奢った上に、同じ民族のよしみを最大限強調して、ようやく主人公として出てもらった。結果的に良い選択だったと思う。彼女の濃いアイラインと吊り上がった目じりが、ときには力強く見えたし、ときにはただの強がりにも見えた。さりげなくそのことを指摘すると、いつも怒りっぽい彼女は
飛行機が下降し始め、一番お気に入りのシーンが目の前に映し出された。
ダウンタウンのゴミバケツに突っ込まれた、ピンクのヒール靴のショット。その前で涙を堪えながら、裸足でターンをして踊る主人公。周りのいじめっ子たちに嘲笑されながら、それでも今度のオーディションのための踊りを踊る彼女。
このシーンは、先輩に連れられて行った奇妙なイタリアンの店で、イカスミパスタを待っている間に思いついたシーンだった。そう覚えている。アニメ用の薄いシートにラフをこれでもかと書いて、興奮したままパスタを掻っ込んでそのまま先輩を置き去りにして、ひとりぼっちの埃っぽいアパートに帰って早速清書したのだ。たぶん真っ黒な歯にままで。
映画は進む。
主人公は、最後に骨肉腫になって、手術で足を切り落とさざるを得なくなる。本人たっての願いで、体から離れた右足に主人公が対面することになる。主人公はぼんやりうつろな目で、二十数年連れ添い、もう二度と会うことのない自分の右足を手に取る。そして、霊安室の冷たいステンレスの台とバイト先の業務用まな板の区別が、だんだんつかなくなりはじめる。目の前の右足は、ただのベーコンの塊に見えはじめてくる。ダンサーになるという夢は一銭の金も産まないけれど、肉なら高く売れるし、大勢のお腹を満たすことができる。未来ある人の明日の糧になって、笑顔を与えられる。自分は、もういいかげん現実に生きるべきなのかもしれない。主人公はそう心の中で呟く。そして、一筋涙を流す。
車椅子に乗った主人公は、ピンクのヒール靴を蒼白になった右足に履かせて、一度も振り返らずに霊安室を去っていく。主人公がもう行ってしまったことを確かめた医師が、無言でため息をつき、ピンクの靴を脱がせてゴミ箱に入れ、冷たくなった右足を廃棄用プロセッサに放り込む。カメラがわずかに手ブレして、映像が細切れになっていく。霊安室の中で、右足の肉塊はミンチ状の有機廃棄物になっていった。
一瞬のうちに暗転して、エンドロール。黒地の画面に、白字で僕の名前が流れてくる。
僕は映画の再生を止めた。
懐かしくて、あまりに懐かしくて、少しだけ涙がこぼれてしまった。自分の腕の悪さを気にさないで済んだ初めての瞬間だったかもしれない。こんなによくできた映画はないと思ったし、感動してやじろべえみたいにぐらつく僕自身の心は、限りなく繊細で、世界一の創作者の魂だと心から信じて疑わなかった。
飛行機が着陸態勢に入った時には、まるで逆算した化学反応みたいに、僕はすっかり希望を取り戻していた。希望ってやつはイオン二次電池のように、簡単に復活する。
肉体だ。今ここにあるのは、骨とそれにまとわりついた肉と、このなけなしの身体だけだ。
待ち受ける世界の広がりにむけて、僕は目を閉じた。その瞬間、気流のせいで機体がガタンと揺れた。その拍子に唇を噛み、血が一滴流れて絨毯の上にじんわり広がっていった。
唇の傷を舐めながら飛行機を降りる頃には、もうこぼしたオレンジジュースのシミと区別が付かなくなっていた。
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