てんしのすがお

『十愛ちゃんはいいなあ』

わたしはその言葉を、今までの人生の中で、何度言われたことだろう。

親がちょっと偉い人で、お金持ちで、何不自由なく生活できる。そんな環境があれば、人生というものは、幸せという部類にカテゴライズされてしまうらしい。

わたしの本当に欲しいものは、なんにも手に入らないのに。わたしは、ちっとも幸せだなんて思っていないのに。

みんなが羨むような馬鹿みたいに高い服も、豪華な食事も、広い部屋だっていらない。わたしが欲しかったのは、わたしのことを「羨ましい」と言う誰もが当たり前に享受しているであろう、誰かのぬくもりであり、愛情だった。

ぽっかりと穴が空いてしまったみたいな、そんな空虚な心を埋めてくれる存在。

わたしは、ずっと、ただそれだけが欲しかった。


來海さんと出会ったのは、本当にただの偶然だった。

実家に嫌気がさして、東京に来たわたしは、自分を天使だなんて言って、いろんな人の元を転々としながら暮らしていた。そんな日々の中で、わたしの寂しさを埋めてくれる誰かを求めていたのだが、そんな人が、そう簡単に見つかるはずもなく。今日は誰のもとで過ごそうかと、駅を彷徨いている時に、その人の姿を見つけたのだ。

駅のホームに佇む來海さんは寂しそうな顔をしていて、まるでわたしみたいだと思ってしまって。居ても立ってもいられなくなったわたしは、來海さんに声をかけた。

來海さんは、不思議な人だった。

わたしが自分を天使だと言っても、そんなの全く信じていないというような顔をする。わたしを普通の女の子として、気にかけてくれる。

わたしが天使を自称することで、無意識のうちに張っていた壁を、來海さんは、いとも簡単に壊してしまったのだ。

そんな來海さんと居たら、いつの間にか、ぽっかりと空いていた穴が、埋まってしまったような気がした。

死にたい、とこぼした時だって、申し訳なさそうな顔をしていた、そんな、とても優しくて、だけど少しだけ臆病なひと。

初めて出会った、わたしを『わたし』として見てくれるひと。わたしの寂しさを、埋めてくれるひと。

きっとわたしとおんなじ、寂しさを抱えたひと。

この人になら、わたしの全部を預けてもいいと思えた。だって、わたしの寂しさを、心の穴を、埋めてくれた人なのだから。

わたしは、この人に助けられたいと、あなたに助けて欲しいと、心の底から思ったのだ。

思って、しまったのだ。


コンコン、という控えめなノック音に、わたしの意識はゆるりと浮上した。

真っ先に目に入った見覚えのない天井に、一瞬自分がどこにいるのか分からなくなりそうだったが、自分の横で穏やかな寝息を立てている女性を見て、ああ、そういえばこの人の願いを叶えるためにここにいるんだった、と思い出した。

そうしてわたしは、ノックされたドアのほうを見る。誰が訪問してきたのか。それにわたしは、大体の見当がついた。

わたしが実家を飛び出してから、ずっと、わたしの動向を探っている人がいることに、わたしはうっすらと気付いていたのだから。

來海さんが起きてしまったらどうするんだ、と心の中で不満を吐いてから、わたしは静かに、ドアを開ける。

そこには。


「やっと、見つけた……!!」


端正な顔を嬉しそうに緩め、ワイシャツを汗でぐしょぐしょにした、兄が立っていた。


わたしの手首を強い力で掴んだ兄は、わたしを引きずるようにしてホテルを出る。そのままずんずんと歩いていく兄に抗うように体に力を込めながら、わたしは「やめて!」と声を張り上げた。

兄の足がぴたり、と止まる。わたしは慌てて腕を振り解くと、兄に向かって言った。

「……わたしをどこに連れて行く気なの、お兄ちゃん」

「十愛が自由になれるところだよ」

そう言って、兄はようやくわたしの方を見た。その顔には、穏やかな笑顔が浮かんでいる。兄はわたしの方へ手を差し出すと、恍惚とした笑みを浮かべて、言葉を続けた。

「俺はね、十愛。お前を助けに来たんだよ」

何を今更、と思った。だってあなたは、わたしがあの家で苦しんでいた時だって、何もしてくれなかったのに。

なんで今更、わたしを助けようだなんて。そんなことを言うのだろう。

わたしはもう、わたしを助けてくれる人に、出会ったというのに。

「……遅いよ、お兄ちゃん」

わたしの口からは、思いの外感情の乗らない声が出た。兄は一瞬嬉しそうな顔をしたような気がしたが、しかし、わたしが彼にとって都合の悪いことを言うのを察したのだろう。その嬉しそうな表情は一瞬でなりを潜めて、すとんと表情を無くした。


「わたしはもう、『わたし』を見てくれる人を見つけた。だからもう、あなたの助けは要らない」


お願いだから、わたしの邪魔をしないで。そう言えば、兄は激昂したように顔を歪めて、わたしの肩を痛いくらいの力で掴んできた。わたしは痛みに顔を顰めて、兄から逃れようと、必死でもがく。

「なんでだよ!俺は、お前を助けるために頑張ってきたのに!!あの家からお前を自由にして!お前を養うためだけに、どれだけ、俺が……!!」

兄は、血走った目をして、わたしを見ていた。否、違う。わたしのことなんて、きっと見ていない。

兄が見ているのは、きっと、可哀想な妹を助ける優しい兄の姿だ。

そんな兄になりたくて、わたしを利用しようとしているのだ。

嫌だ。絶対に嫌だ。こんな人に、わたしは助けられたくなんてない。

わたしを助けてくれるのは、助けられるのは、わたしと同じ寂しさを抱えた、來海さんがいい。

だから、わたしは。

「離して!!」

わたしは思い切り、兄の身体を突き飛ばした。

兄の背後には柵が張り巡らされた高台がある。むしろ、それしかない。一体いつの間にこんなところまで来ていたのかは分からなかったが、今のわたしには好都合だった。

強い力で突き飛ばされた兄の身体は、いとも簡単に柵を乗り越えて、その向こうへ落ちていく。その様を、わたしはほうと息を吐きながら、ただぼんやりと眺めていた。

きっとわたしは、兄を殺してしまったのだろう。でも不思議と、怖くはなかった。悲しくもなかった。

ただ、心はひどく凪いでいて、とても穏やかな心地だった。

さあ、帰らなくては。わたしを助けてくれる、わたしをちゃんと見てくれる、來海さんのところに。

くるくると軽やかにステップを踏む。もう寒くない。寂しくない。

今のわたしに怖いものなんて、なんにもないと思った。

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