天使は地獄で笑うのか

一澄けい

後戻りはできない

ずっとずっと「死にたい」という、漠然とした感情を抱えて生きている。

何か、嫌なことがあったわけではない。だけど、この世界で息をするのは、ひどく息が詰まって。願うならば、この世界から消えてなくなりたい、と、そう思ってしまうのだ。

生きる、という行為は、私にはとても難しくて、ひどく苦しい。

それなのに、どうして私は生きているのだろう。どうして、死ねないでいるのだろう。その理由はずっと、分からないままだ。

仕事帰り。駅のホームで、家に帰るための電車を待ちながら、私はぼんやりと思考を巡らせた。

例えば、ここから線路に飛び込んだなら。私はきっと、一瞬で死ねるのだろう。

だけどそれをやろうだなんて思わない。だって、きっと沢山の人に迷惑がかかってしまう。

そう思ってしまうのは、私が臆病だからなのだろうか。

そこまで考えたタイミングで、電車がホームに侵入してくる旨のアナウンスが鳴った。私がいつも乗っている電車が、もうすぐ到着するらしい。もうこんな時間だったんだ、とホームの白線の近くに向かおうとしたその時、ぐい、と中々に強い力で誰かに腕を掴まれた私は、思いっきりつんのめった。

「だ、誰よ!?」

驚きのあまり、思わず大きな声で叫んでしまった。友達もいない、知り合いも会社の人以外誰もいない、そんな、寂しい人生を送っている私の腕を突然掴むような人物に、覚えがなかったからだ。

不審者だったら駅員さんに突き出してやる。そんな意気込みで振り返った私の目に飛び込んできたのは、予想もしていなかった光景だった。


振り向いた先には、大層美しい少女が立っていたのだ。


まるで自ら光を放っているような、白銀の長い髪。

まるで宝石のような、アイスブルーの瞳。

短いスカートから伸びるスラリとした脚は、純白のニーハイソックスに包まれている。

まるで作りもののように、美しい少女だと思った。

そんな美しい少女は、なぜだか私をじい、と見つめて、そして、その美しい顔を曇らせて、ぽつりと言った。

「……大丈夫、ですか?」

「……え?」

「なんだか、浮かない顔をしていましたから」

鈴のように愛らしい声が、心配の言葉を紡ぐ。しかも、初対面であるはずの私に向かって。

漫画か何かにも思えるような状況に、自分が立っているここが現実なのかなんなのか、分からなくなっていくような心地がした。

「何かあったなら、口に出したほうがいいですよ」

少女はそう続けて、私の手をそうっと握った。にこり、と、まるで聖女の浮かべるような笑顔のオプション付きで、だ。

その笑顔には、まるで思っていることをいつの間にか吐き出してしまうような、一種の催眠効果さえあるような気がした。


「……死にたくて、でも死ねなくて。それが、どうしようもなく苦しいの」


気がつけば私は、そんな言葉を溢していたから。


言ってから、はっとした。どう考えても、見ず知らずの、しかも年下にしか見えないような女の子に言うべき言葉ではなかったからだ。さあ、と血の気が引いていく心地がした。

「ご、ごめん、今のは—」

忘れて、そう続けようとした言葉は、少女の細い指によって阻止された。

「それが、あなたの願いですか?」

私の唇に人差し指を添えたまま、少女は唄うように言う。その声には、嘘を吐くことなんて許されないような何かがある気がして、私はこくこくと首を縦に振った。

それを見た少女はにこり、と満足そうに笑って、次の瞬間には、私の手をがっちりと握って駆け出した。

少女の向かう先は、私の自宅がある場所の、反対方向へ向かう電車が到着するホームだ。

「え、ちょっと!?どこに連れて行く気なの!?」

その私の声に、少女はほんの少しだけ振り向く。少女の表情を見た私は、はっと息を呑んだ。

その美しい顔には、隠しきれない嬉しさが、滲んでいるように見えたから。

「何処なんて、そんなの、決まってるじゃないですか!」

少女の声は、弾んでいた。喜びや嬉しさが目一杯詰まったような声で、少女は声高に叫んだ。


「あなたの願いが、叶う場所ですよ!!」


少女がその言葉を叫ぶと同時に、私達は駅のホームに到着した。まるで謀ったかのようなタイミングで滑り込んできた電車に、少女は軽やかに乗り込む。

はあ、はあ、と、息を整えている私の背後で、電車のドアが閉まった。ふと顔を上げれば、少女は美しい顔を綻ばせて、私の手を握っている。

ガタン、と大きく揺れてから動き出した電車に、私はもう、後戻りはできないんだと悟った。

死ねなかった私が、ようやく死ねるかもしれない。そんな仄暗い歓びが、胸の中に満ちていくような心地さえしたのだ。


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