僕の上司は女王陛下

咲守 蛙

第1話 「本日は『ぺい』でお支払い致しますわ!」




「リリィさん、おはようございます」

「ええ、おはよう。今日はとっても良いお天気ですわね」

 節電の為に省エネモードで稼働するクーラーは広い事務所ではあまり冷気を感じない。埃っぽい床、並んだデスクにはパソコンが隠れるほどの書類の山、よく見ると何人かは器用に椅子を並べた上で死んだように寝ている。

 社会の地獄みたいな事務所の隅っこには、周囲とは明らかに異なる専用スペースが作られていた。そこは他のデスクと同じようにファイルやら資料やらが積み重なった僕の机と、花を象った彫刻が輝くアンティーク調のテーブルと椅子が向かい合って設置されている。会社の事務所には似つかわしくない、まるで美術館にありそうなそれに座っているのはフリルの付いた淡いピンク色のブラウスに黒のスーツを着た女性。優雅に朝のティータイムと洒落込んでいる。朝日が差し込む窓際は、その一角だけを中世のお屋敷から切り取ってきたみたいだ。

「朝食はまだかしら?」

 女性は上品にお茶を飲んでいるけれど、中身はスーパーで買ってきた緑茶だ。それをわざわざ紙コップに入れて飲んでいる。

「はいはい、今準備しますから」

 僕はそういって会社に来る前にコンビニで買ってきた卵サンドイッチをリュックから取り出した。ティッシュを皿代わりにして彼女の前に出すと、満足そうに食べ始める。

「お茶のお替わりは?」

「ええ、もぐもぐ、いただくわ」

 小さな唇に卵を付けまいと慎重に食べる彼女の紙コップにぬるい緑茶を注ぐ。

 僕も自分の散らかったデスクで彼女と同じ卵サンドイッチを食べていると、誰かの携帯電話から爆音のアラームが事務所全体に鳴り響く。人の声とは思えない唸り声をあげながら、椅子で寝ていた社員たちがのそのそと起き上がった。

「おはようございます」

「おはようございますですわ」

「んあ? おお、おはよう」

 僕らの挨拶にいつも通り覇気の無い声で返す同僚たち。一人の先輩が誰かコーヒーを買ってきてくれと嘆いている。この場合、誰かは僕たちの事だ。

「はい、行ってきま………」

「よろしくってよ!」

 僕が名乗りを上げる前に、急いでサンドイッチを食べ終えた彼女が嬉々として立ち上がった。床の埃と一緒にふわりと花の匂いがする。

「リリィさん、お茶残ってますよ?」

 この会社では飲み残しや食べ残しは虫が湧くという理由で禁止されている。彼女はすっと椅子に座り、一気に飲み干した。こほんと気を取り直して、もう一度立ち上がる。

「さあ! 騎士の皆様がお待ちですわ! 行きますわよハルアキ!」

 騎士というのは死んだ目でパソコンと向き合っている同僚達で、ハルアキは僕の名前だ。

 淀んだ空気の社内をパリコレよろしく颯爽と、凛々しいウォーキングで前進する彼女は、僕のバディであり上司。リリィ・エルディーである。

「ハルアキ! 『ぺい』の準備をなさい!」

 一ミリも電子マネーを理解していない上司の言葉を僕が止めれるはずもなく、やれやれと残高を確認するのであった。


 ビジネス街の朝は、ラフなポロシャツ姿の人もいれば雑誌に載っているトレンドのスーツできめている人もいる。僕は正月にセールで買った薄い夏用スーツを着ていて、少し身を縮めて歩いた。そういえば最後にクリーニングに出したのはいつだったか。

 先輩に頼まれたコーヒーを買う為に、最寄りのコンビニに向かう僕とリリィさんは出勤する人々の波に逆らうように歩道を進む。少し前を歩くリリィさんは朝とはいえこの暑い中、上下黒いスーツをピシッと着ている。すらっと伸びた足元ではヒールの高い靴が朝日に反射して光っていた。

「リリィさん、その恰好暑くないですか?」

「わたくし、汗をかかないんですの」

「え? 本当に?」

「ええ、昔はコルセットで締め上げたうえに何枚も重ねたドレスを着たものですわ」

 そういってお腹回りを撫でるリリィさんは自慢げだった。

「それに比べれば、下着も同然ですの」

 それは言い過ぎだと思うけど、確かにリリィさんが汗だくなって化粧を直すのを見たことは無い。

「ああ、一流の女優は涙や汗をコントロール出来るって聞いたことありますよ」

 カメラが向いている片目だけで涙を流すことが出来る俳優もいるらしい。僕はその能力が彼女にも備わっていると言われても納得できる。

「あら、ハルアキは嬉しいことを言ってくださるのね」

 リリィさんは幼さと妖艶さの間でくすりと笑う。僕は喉が詰まるの感じて、急いで適当な話題を振った。

「あ、あの、なんで未だにリクルートスーツなんですか?」

 リリィさんは僕より8歳年下だけれど、上司であり会社では部長という役職も付いている。それでも彼女は初めて会った時からずっと同じ、遊び心の無いひどく真面目なデザインのものを着ていた。もっと洒落たスーツを仕立てても良いと思う。リリィさんはカツンッとヒールを鳴らし、コンビニの前で立ち止まった。

「ハルアキは新品の服に袖を通す時、何を感じるかしら?」

「え?」

 コンビニの入店音が鳴って、店員の声が聞こえる。自動ドアが開き、店内の冷気が外に流れた。

「早く入りなさい、他の方のご迷惑になるわ」

「あ、すみません」

 振り返ると、いつの間にか後ろにいた男性に邪魔だと舌打ちをされて、慌てて店内に入る。

「何を感じるって、どういう意味ですか?」

 陳列棚の間を進む彼女を追いかけて訪ねるも、リリィさんは頼まれたコーヒーを手に取ってレジに向かってしまう。

「あの、リリィさん?」

「ハルアキ」

「あ、はい?」

「今日のランチは何かしら?」

 突拍子もない質問に、僕は会社の傍にある蕎麦屋の予定だと答える。その蕎麦屋はカレーライスが人気で、きっとリリィさんも気に入ると思った。ふむ、とリリィさんは頷きオレンジジュースを手にした。

「これもよろしくって?」

 昼飯とオレンジジュースに何の接点があるのか分からないけれど、その位なら電子マネーの残高で間に合うだろう。リリィさんは僕の返事を待たずにコーヒーとオレンジジュースを持ってレジに並ぶ。

 気まぐれな上司はもう僕の質問に答える気はないようだ。昼飯の時にでも、もう一度聞いてみよう。僕は諦めて凛と立つ彼女の後ろに並んだ。

「おい! さっさとしろよ!」

 急に店内に怒声が響いた。僕たちの前、会計をしている男性客が店員に怒鳴り散らしている。先ほど店前で僕に舌打ちをしたあの男性だ。

「あ、あの番号でお願いします………」

 どうやら、煙草を購入しようとしているらしいが銘柄では店員は分からないようだ。気弱そうな店員が返すが、男は譲らずに銘柄を叫ぶ。

「だーかーらー! さっきから言ってんだろ!」

 コンビニに限らず、どの店でも煙草には番号がふってあり複雑な銘柄を店員が全て覚えなくても良い仕様になっている。吸わない僕でも知っている事だけれど、男性客は頑なに銘柄を叫び続けていた。

「どうかしたのかしら?」

 リリィさんが前方をのぞき込み首を傾げる。他の客は店内の空気を察し、入店と同時に何も買わずに出て行った。その都度、軽快な音楽が流れる。

「お前、店員だろ! そんな事も分かんねぇのかよ!」

 男性のボルテージは上がり続け、店員はもう何も言えず怯え切ってしまっていた。

「リリィさん、他のコンビニ行きましょう」

 コンビニは他にも沢山ある。僕はリリィさんに耳打ちして速やかにその場から離れようとした。というか、離れたかった。

「そこの殿方」

 ああ、遅かった。

「あ? 関係無い奴はすっこんでろ!」

 カツカツと前に乗り出すリリィさんは、くいっと顎を上げて男性を真っ直ぐ見る。突然現れた彼女を見下ろして男性は威嚇するけれど、僕の上司にそんなもの通用しない。

「一つよろしいかしら?」

 コミカルな店内放送を貫くように、リリィさんが口を開く。

「近くに、美味しいお蕎麦屋さんがありますの。『かれーらいす』がお勧めだそうですわ」

「は?」

 リリィさんは柔らかな仕草で男性のスーツの襟を正しながら、にこりと笑った。

「それで、どの葉巻がよろしかったんですの?」

「葉巻? え、あ、緑の………」

 不意を突かれた男はレジカウンター奥の棚を指差す。

「では、そちらを」

「は、はい」

 リリィさんは店員に会計を促し、さっきまで暴言を吐き散らしていた男は怪異に出会ったかのように頭に「?」を浮かべて店を出て行った。

「はぁ、あまり危ない事しないでくださいよ」

 僕はリリィさんの元へ行き、呆れた口調で言う。

 過去に面倒事に首を突っ込んで乱暴されかかった経験もあるのに、彼女はいつだって気が付けば走り出している。バディの僕はいつだってリリィさんから目が離せなくて困るというものだ。

「わたくし、この服に身を包んだ日の事を今でも覚えていますの」

 コーヒーとオレンジジュースをレジに置き、リリィさんは僕を見ずに言う。それが、さっきの会話の続きだと気が付いた僕はポケットから携帯を取り出して聞いた。

「えっと、つまり初心を忘れない様にそのスーツを着続けているって事ですか?」

「半分当たり」

「もう半分は?」

「いつだって初めては楽しいという事ですわ」

 携帯電話に電子マネーの支払い画面を出して、リリィさんに渡す。彼女はふむ、と頷いて、店員に有名時代劇の紋所如く掲げて言った。

「本日は『ぺい』でお支払い致しますわ!」

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