《短編》 ロゼと魔法と守り花

三條 凛花

ロゼと魔法と守り花

 みっともなく地面に倒れ伏していた。

 真夏の蒸し暑い夜のことだった。手足には何度も転んでたくさんの傷ができていたし、走るたびに裾を踏んでしまったからドレスも破れている。


「ローゼリリィ?」


 私を探す声がどこからか聞こえる。ぶわりと鳥肌が立つ。




 夫の横顔が、頭に浮かんだ。


 すっきりとした精悍な顔立ちだったのに、今は肉がついてしまい、少し顎を引くだけで二重顎になってしまう顔周り。昔はなかった髭を蓄えているけれど、よけいに老けて見えるのが私はきらいだった。鍛えられた細身の身体は見る影もなく、お腹が突き出ている。


 いつも愛おしいと表情で伝えてくれていた顔は、いつ見ても不機嫌そうに眉根を寄せていて、目が合わないこともよくあって。──一体いつから、私たちの歯車は噛み合わなくなっていたのだろう。





 地面に伏す私の目の前には、昔来た植物園の泉が広がっている。


 泉の水のほとんどは緑に覆われており、宵闇の中に暗く沈むように映った。


 三月前に来たときは、泉の中央にぽつぽつと浮かんでいた水草が、その次の月にはぶわりと侵食するように広がっていて、今では水が見える部分のほうが少ないくらいなのだ。


 そのときだった。雲が波のように引いていき、あたりがにわかに明るくなった。


 私は、泉に花が咲いていることに気がついた。


 水草だけのときはどこかおぞましさを覚えたものの、今はそこから凛と薄青の花が立っていることに気がつく。


 五枚の花びらを持つ小さな花が集まって、リボン飾りのようなそれはとても美しく、月明かりを浴びて白く輝いている。さながら湖上の花園といった様子だ。天国というものがあるのなら、こういうところだと言ったような雰囲気であった。




「……はは、ここにいたのか」


 見つかってしまった。

 もうきっと私は駄目なのだろう。今までは苛立ちを覚えこそすれ、理不尽さにさらされることはなかった。でも。それもここまで。


 私は草を掴んでずるずると這った。確かあの人は泳げないはず。一か八か、この泉に飛び込んでみたら?




 泉の端まではまだ水草に侵食されていないようで、水鏡には自分の姿が映っていた。


 こんなときだというのに羞恥を覚える。

 水面に映っているのは、自慢の銀の巻き毛にちらほらと白いものが混じり始めた少しふくよかな女。太っているというほどではないけれど、痩せてもいない。目尻の皺も、頬にできはじめたしみも、白粉では誤魔化せそうになかった。


 そう。映るのは確かに見慣れた顔だけれど、──見れば見るほど、遠くへ来てしまった気がした。


「ローゼリリィ」


 声が近くなる。甘い声色だ。

 私は、夫と自分のこれまでのことが頭に浮かんだ。






 夫と出会ったきっかけは、婚約者に捨てられたことだった。

 私が十六になった日、屋敷で開かれた誕生祝いの宴で、婚約者であるゾネンに捨てられたのである。


 私は伯爵家の長女。ゾネンは侯爵家の次男。彼の卒業を待って婿入りしてもらうことが決まっていた。ところが、あと半年ほどで婚姻だという時期になって、彼は義妹であるブルメを愛したのだと言い、皆の前で私を罵倒した。


「ブルメと違って気品も教養もない君と婚約するなど耐えがたい」


 彼は、私の心をいたぶることを楽しんでいるようだった。せめて必要最低限の言葉にしてくれたら。そう思っても、心が何度も切り刻まれるような、消えたくなるような、ひどい否定がそこから続いた。


 夏だというのに足元が氷のように冷たくなった。ぐらりと身体が傾いで倒れそうになるのを踏ん張るだけでも精一杯だった。


 そうして私は婚約者を失った。


 私が仮に泣きわめいたり倒れたりしたとしても、それを覆すことなどできなかった。




 この家はすでに侵食されていたからだ。


 父が迎えた後妻と、その娘である義妹ブルメに。この家で起こるすべての悪いことは私のせいで、そしてその逆はブルメの手柄。そんなふうになってしまってから、どれくらい経ったのか。


 私を愛してくれていたはずの父は、善良だったからこそ騙された。

 義家族の言葉をすべて真に受けたのだ。彼らの演技は真に迫っており、仲の良かった使用人たちにも、後妻と連れ子を虐げる悪女だと蔑まれるようになっていった。




 婚約者に捨てられたあと、私の立場はさらに悪くなった。閉じ込められ、ろくに食事ももらえなくなった。


 家出するようにして街に逃げ出したけれど、微妙な立ち位置とはいえ、生粋の貴族令嬢であった私には何もできなかった。


 途方に暮れて路地裏に座り込み、破落戸に絡まれているところを拾ってくれたのは、食堂を営む老婆ポピーだった。


 潔く白い髪をひっつめるようにして頭の高い位置でまとめたポピーは、猛禽類のような獰猛な印象を与える容姿とは裏腹に、おっとりとした優しい女性であった。




 ポピーは私が貴族だとわかった上で迎え入れてくれた。「ロゼ」という名をくれた。


 料理の手ほどきをしてくれたり、身の回りのことを自分でできるように仕込んでくれた。幸い贅沢とは無縁の暮らしをしていたため、やり方や常識さえわかってくれば、平民にまぎれての生活にも思ったほど違和感はなかった。


 ポピーとの暮らしは、私が母が亡くなって以来はじめて持った、温かい時間だった。






 ひと月ほど経ったとき、私はファルと出会った。彼は客として店にやってきた。しかし、ポピーの態度がいつもより気安い。

 それもそのはず、ファルはポピーの孫だったのだ。


 ファルはウェーブがかった赤い髪をした、精悍な青年だった。私より一つ年上で、背は頭ひとつ分以上高かった。


 肩よりやや長い髪の毛が後ろで無造作に結ばれているところや、目尻にあるほくろなどが、彼のアンニュイな色気を引き立てていた。


 私たちはすぐに恋に落ちた。そこに理屈はなく、理由もなかった。ただただ若さゆえに惹かれ合ったのだったと思う。




 はじめてのデートは、王都の外れにある植物園だった。


 ポピーがにやにやしながら、平民にしては上等なよそゆきの服を出してくれた。彼女は手先も器用で、髪結いも化粧もお手のもの。簡素なドレスながらも、伯爵令嬢だったときの私よりも美しく仕上げてくれた。


 地味だとか冴えないだとか言われた顔も、ほんの少し色を加えるだけで目が大きく見えた。


「こうやって角度を変えるだけでも印象って変わるんだよ」


 ポピーはそう言って、私の目尻を上げたり下げたり、切れ長に見せたりした。そのたびに別人のような表情に変わるのに驚いていると、いたずらが成功した子どものようにポピーは笑う。


「あたしは魔女だからね。あんたは綺麗だよ。元がいいんだ。足りないのは自信だけ」


 その言葉に背中を押されて、私は店を出ることができた。誘ってもらえて嬉しかったけれど、怖くもあった。本当は私のことなどなんとも思っていないのでは? と。


「似合ってる」


 とろりと微笑むファルの言葉に、顔に熱が集まってくるのを感じる。うつむいたままながらも、「ファルも素敵です」と告げた。





 植物園はまるで絵画をそのまま貼り付けたように美しい空間だった。物好きなネヌヴォーダ現公爵が集めたさまざまな植物を展示し、無料で解放しているというものだ。


 そんな中で私たちはほとんど二人きりという贅沢な時間を過ごした。

 平民たちは皆生きるために忙しいし、貴族たちは無料を煙たがる。だからいつもがら空きの穴場なのだとファルは苦笑した。思えばこのときに違和感を持つべきだった。


 つないだ手は温かく、彼の目が誤解ではなく私を好きだと言っているのが伝わってくるくらいで、幸せで、溶けてしまいそうだった。


 私たちは木陰に敷物を敷いて休んだ。ポピーに教わってつくったサンドイッチを緊張しながら披露する。よく溶いた卵を塩で味つけして、細かく切ったハムを入れて厚焼きにしたものが挟んである。


 噛むと卵とハムの塩気がじゅわりと口に広がる。


「おいしい」


 ファルはそう言って喜んでくれた。





 植物園の奥には泉があった。

 そこは、明らかに異質だった。水は澄んでいて、周りの植物たちを映して翡翠色にきらきらと輝いている。けれども、どうにも暗いのである。


 泉といってもそれなりに広さがある。馬車を十台ほど並べたくらいはあるだろうか。


「──ここには、遠い昔の魔法が残っているらしい」


 ファルが神妙な顔をして言う。


「泉に?」


「ああ。俺たちにはもう、魔力と呼べるものがないだろう? でも、昔は誰もが魔力を持っていたそうだ。中でも魔女たちがかけた魔法は、今でも残っているらしいよ」


「どんな魔法なの?」


 ファルは首を振った。


「伝わっていないんだ。でも、いいものだとは限らないから、少なくとも俺がいないときは近寄らないほうがいい」


「ファルって物知りなのね」


 私がいうと、ファルは耳の端を赤くした。


「出会ってあまり経ってないけど……。君のことが好きだ」


「──わたし、私も好き。ファルのことが好き」





 それから半年ほど。私たちは逢瀬を重ねた。会うたびに恋心が変化していくのを感じた。


 燃え上がるような気持ちが落ち着いてきて、でもちらちらと蝋燭の炎のように消えないような。穏やかで、そばにいると呼吸がしやすいというような。


 やがて彼にはすべてを話した。出自のこと、婚約破棄をされたこと、冷遇されていて家を追い出されたこと──。


 ファルは自分のことのように怒ってくれた。


 ところが、その翌日から彼は店に来なくなった。

 しかも、昔の使用人とばったり会ってブルメとゾネンの間に子が生まれたことを聞き、二重に落ち込んだ。






 がむしゃらに働こうとする私を見て、ポピーは眉を下げた。


「つらい気持ちに蓋をしてはいけないよ。でも、落ち込んだままだと動けない。違うことに目を向けるんだ」


 そう言って彼女は、秘密の地下室に案内してくれた。


 ポピーの家は、一階が食堂、二階が居住空間となっていたが、じつは地下には書庫があった。


 そこを自由に使ってもいいと言われたので、食堂の手伝いを終えたあとは地下にこもって、水を吸うように書物に触れた。気がつくと明け方だということも多く、ポピーにはよく叱られたものだ。


 屋敷にいたとき、私は学ぶことを制限されていた。


 義妹のブルメはしたたかで、それでいて賢い少女だったので、私には知識を与えないように徹底していたのだ。彼女が家庭教師に習っていることをこっそりと聞いていただけでもひどく怒られたものだ。


 だから、元婚約者が告げた、教養がないというのはあながち間違っていなかった。私は貴族令嬢でありながら、賢さが欠けているのだ。




 地下室で一冊の絵本を見つけた。『魔女と**葉の魔法』というもの。どうしてだかひどく心惹かれた。


 それは恋に落ちた魔女が魔法を失い、そして取り戻す物語だ。


 とても古い本のようで、表題も水に濡れたようなしみがあったし、ところどころ読み取れなかったのだけれど、魔法というものが存在しないこの世界で、美しい挿絵とともに描かれた魔女という存在はとても魅力的に思えた。


 私があまりにも何度もこの本を読むものだから、ポピーはそれからのち、私が旅立つときにこれを贈ってくれたほどだ。「形見分けだよ」と言いながら。





 ファルに再び会えたのは、彼が姿を見せなくなってから三月ほど過ぎたころのことだった。


 彼と出かけていたときは薄着で、くっつくと暑いくらいだったのに、季節はすっかり変わっていた。その日も朝から冷え込んでちらちらと雪が舞っていた。


 食堂の前に豪華な馬車がとまったのに気づき、私は飲みかけのカフェオレを置いて、指先で曇った硝子をこすった。


「来たようだね」


 ポピーが、なんともいえない声色で言った。


 降りてきた人を見て、私は弾かれたように食堂を飛び出した。


 ファルは、赤い髪を後ろに撫でつけており、立派な外套を着こなしていた。まるで違う人みたいで、見上げたままなにも言えずにいると、彼は私の前に膝をついた。


「ローゼリリィ・シャンリー嬢。どうか私、ゼファール・ネヌヴォーダと結婚してもらえないだろうか」


 いつも眠たそうでざっくばらんな話し方をしていた彼からは考えられないような、落ち着いた大人の男性の声色でファルは言った。


 ネヌヴォーダ。その家名には聞き覚えがあった。植物園を無償で開放している、物好きな公爵家──。彼はその嫡男だった。


 そのまま私は彼の元へ嫁ぐことになった。いつのまにか荷物がまとめられていて、そういえばポピーは彼の祖母だったことに気がつく。


 ポピーは先代公爵の愛妾で、そしてそれは望んでなったものではなかったのだとそのときになって知った。


「ねえ、ロゼ。この本をあんたに贈るのはね、ここに本当に大切なことが書いてあるからなんだ」


「大切なこと?」


 私が首を傾げると、ポピーは神妙な顔をしてうなずいた。


「『その葉は、心を縛る。運命を縛る』」


 彼女が言った一節が、本の中にあったものだと気がつき、私はにこにこしながら続きを紡ぐ。


「『その葉は、心を守る。運命を守る』」 


 ポピーはなぜか苦しげに顔を歪めると、「あんたはわかっていないのだろうね」とつぶやいた。


「いいかい。これは魔法だ。本当に大切な魔法だ。必ず覚えておくんだよ」


 その目は、ここではないどこか遠くに向けられているようだった。






 そうしてファルと私は結ばれた。幸せだった。──子が生まれるまでは。


 もちろん、子らは愛おしかった。私は三人の子を産んだ。ファルも私も惜しみなく愛情を注いだ。



 けれども、恋人同士だった私たちは、家族としての付き合い方をどこか間違えていた。


 なにか決定的なことがあったわけではない。けれども、顔を合わせるたびに少しずつ喧嘩が増えていったのだ。


 それは子の教育方針での価値観の違いであったり、女の社交ならではの小さな愚痴をふと吐露したときの彼の反応に感じる怒りであったりした。


 年齢とともに衰えていく容姿についても、彼は無慈悲に切り込んだ。私も腹が立ったので言い返した。




 いつからか孤独を感じるようになった。


 あまり話を聞いてもらえなくなったし、彼の小言をうるさく感じるようにもなった。逆に自分の言葉が癇に障るだろうなと反省することもあった。


 ……彼に謝られたり感謝されたことがなかったから、私もまた意地になってそれを言わずにいたけれど。


 離縁を考えたことはない。互いに浮気をするようなこともなく、父として母としては普通に過ごしてきた。


 けれども、一緒にいてあんなにも幸せだったという気持ちが、砂時計からこぼれ落ちるように少しずつ、少しずつすり減っていくのを感じた。





 なにかをかけ違えたまま、二十年が経った。


 子どもたちは巣立っていった。

 私たちは今でも夫婦だ。でも、ともに笑い合うようなことはずいぶん減ってしまっていた──。


 貴族に戻ってしまった私がポピーに会いに行くことはできず、本当の家族のように思っていた彼女を見舞うことも看取ることも許されぬまま、昨年、彼女は帰らぬ人となった。かなりの長命だったと思う。


 夜中、ひとりきりの寝台で止まらぬ涙を何度も拭った。喉が渇いて廊下に出ると、執務室から嗚咽が聞こえた。胸がぐっと詰まるような苦しさを覚えたが、どう声をかけていいかわからず、私は寝室に戻った。







「奥様!」


 侍女が青い顔をして駆けてきた。


「旦那様が……」


 足元が崩れていくような恐怖を覚えた。私はなにも持たず、ただ馬車に乗った。ファルが瀕死だと聞いて、居ても立ってもいられなくなったのだ。だから気が付かなかった。


 知らせにきた侍女が乗り込んでいないことにも。御者が見知らぬ男であったことにも──。





 気がつくと私はくたびれた小屋に転がされていた。


 縛られているとか、衣服が乱れているとか、そういったことはない。部屋の中は真っ暗で、あかりとりの窓がひとつあるだけだった。



 そのとき、窓から光が入ってきた。


 私はひゅっと息を飲んだ。目の前には椅子があって、男が座っていたのだ。ぱさついた金髪はだらしなく伸びており、無精髭も生えていた。服は粗末なもので、虚ろな目をしてなにかぶつぶつとつぶやいている。


 驚いたけれど、意識を取り戻したことを悟られないように、薄目を開けてじっと男を観察した。心臓が嫌な感じにばくばくと鳴っている。呼吸が浅くなってきて苦しい。


 しばらくすると男は立ち上がり、酔っているのだろうか、ふらふらと小屋から出ていった。


「だいじょうぶだ、ローゼリリィとやり直せばいいだけだ」


 どこかで聞き覚えがある声だった。


「そうすれば全部元通り」


 私は様子をうかがい、男が出ていったのと逆の扉に手をかけた。そこは外に繋がっていた。靴は脱がされていたけれど、しかたがなく裸足のまま外に出る。まずはここがどこなのか把握しなければ──。


 足の裏がやわらかな草を踏みしめる。なるべく草の上を選んで進んでいくが、血が滲んでいるのだろう、鈍い痛みがある。空腹が続いたからか身体にも力が入らず足がふらつくし、相変わらず呼吸は浅く苦しい。





 それからどれくらい進んだのだろう。私はみっともなく地面に倒れ伏していた。じっとりと汗ばんで、服が肌に貼りついている。手足には何度も転んでたくさんの傷ができていたし、走るたびに裾を踏んでしまったからドレスも破れている。


「ローゼリリィ?」


 私を探す男の声がどこからか聞こえる。ぶわりと鳥肌が立つ。そして気がついた。この男は、かつての婚約者ゾネンであると。


 ファルは生家がどうなったのかを私に教えてはくれなかった。だから知らなかったのだけれど、あの様子を見ると相当落ちぶれているのだろう。




 夫の、ファルの横顔が、頭に浮かんだ。


 すっきりとした精悍な顔立ちだったのに、今は肉がついてしまい、少し顎を引くだけで二重顎になってしまう顔周り。昔はなかった髭を蓄えているけれど、よけいに老けて見えるのが私はきらいだった。鍛えられた細身の身体は見る影もなく、お腹が突き出ている。


 いつも愛おしいと表情で伝えてくれていた顔は、いつ見ても不機嫌そうに眉根を寄せていて、目が合わないこともよくあって。──一体いつから、私たちの歯車は噛み合わなくなっていたのだろう。





 地面に伏す私の目の前には、泉が広がっている。それを見て、ここがあの、公爵家の植物園なのだと確信する。


 泉の水のほとんどは緑に覆われており、宵闇の中に暗く沈むように映った。


 三月前に来たときは、泉の中央にぽつぽつと浮かんでいた水草が、その次の月にはぶわりと侵食するように広がっていて、今では水が見える部分のほうが少ないくらいなのだ。


 そのときだった。雲が波のように引いていき、あたりがにわかに明るくなった。


 泉に花が咲いていることに気がついた。


 水草だけのときはどこかおぞましさを覚えたものの、今はそこから凛と薄青の花が立っていることに気がつく。


 五枚の花びらを持つ小さな花が集まって、リボン飾りのようなそれはとても美しく、月明かりを浴びて白く輝いている。さながら湖上の花園といった様子だ。天国というものがあるのなら、こういうところだと言ったような雰囲気であった。




「……はは、ここにいたのか」


 見つかってしまった。ゾネンの手には凶器が握られている。ふらふらと幽鬼のように近づいてくる様にぞっとした。


 もうきっと私は駄目なのだろう。

 今までは苛立ちを覚えこそすれ、理不尽さにさらされることはなかった。でも。それもここまで。


 私は草を掴んでずるずると這った。確かあの人は、ゾネンは泳げないはず。一か八か、この泉に飛び込んでみたら?




 泉の端まではまだ水草に侵食されていないようで、水鏡には自分の姿が映っていた。


 こんなときだというのに羞恥を覚える。

 水面に映っているのは、自慢の銀の巻き毛にちらほらと白いものが混じり始めた少しふくよかな女。太っているというほどではないけれど、痩せてもいない。目尻の皺も、頬にできはじめたしみも、白粉では誤魔化せそうになかった。


 そう。映るのは確かに見慣れた顔だけれど、──見れば見るほど、遠くへ来てしまった気がした。


「ローゼリリィ」


 声が近くなる。甘い声色だ。

 なんて理不尽なのだろう。きっと正気を失って、ただ私を道連れにするだけ。そう考えると、ファルとのけんかや後悔ばかりが思い起こされた。




 実家でのことがあるから、断定的に言われるのは苦手なのだと伝えておけばよかった。


 失敗を冷静に伝えられたことに怒って言い返すのではなく、ただ共感してほしかっただけなのだと伝えればよかった。


 けんかをしたあとに、気づくと一輪だけ飾られている花にお礼を言えばよかった。


 彼を恨む前に、ポピーに会わせてくれなかった理由を尋ねればよかった。祖母を喪って泣いているファルに、寄り添えばよかった。


 暖かくて、静かで、穏やかな屋敷の中で守られていた。生家にいたときから考えると驚くほど贅沢な暮らしをしていたのに、どうして一度も伝えなかったのだろう。


 意地を張らなければよかった。


「今までありがとう、……ふぁる」


 こんなふうに届かないつぶやきではなくて、彼に、直接伝えればよかった。










 そのとき。不思議なことが起こった。泉を埋め尽くしていた花々が、発光しながら鳥のように一斉に舞い上がったのだ。


「な、なんだ……?」


 ゾネンが狼狽えてあたりを見回す。バランスを崩したのか、片足を泉に取られ、「う、うわ」と叫んだ。


 そして次の瞬間。鈍い音がした。

 驚いて顔を上げると、元婚約者が吹っ飛ぶようにして後ろに、泉のほうに倒れていくところだった。


「ロゼ!無事か!」


 憔悴しきった声色。泣きそうな目。それが夫、ファルであることに気がつく。そのまま世界が暗転した。







 先ほど見たばかりの、泉の上の花畑にひとりの女性が立っていた。

 猛禽類のように獰猛な美しさを持つ人だった。ウェーブがかった赤い髪がふわふわと揺れている。


 彼女は困ったように笑うと、口を開けた。声が聞こえない。でも、そのくちびるの形から、気がついた。


『その葉は、心を縛る。運命を縛る。

 その葉は、心を守る。運命を守る。

 それは言の葉。──言の葉は、魔力なき者たちの魔法』







 目を覚ますと、見慣れた自室の天井だった。


 けれども、これまではじっくり眺めたことのなかったそこに、精緻な花の絵が描かれていることに気がつく。それはあの泉で見たものと同じ。ズィーローゼの花。


「……ズィーローゼは、夜にしか咲かない花だ。守りの花だと言われている」


 驚いて横を見ると、枕元にファルが座っていた。目の下には濃い隈がある。あまり眠れていないのかもしれない。


「ゼンとリゼ、リーファがこちらへ向かっている」


 巣立った子どもたちの名。


 私はなんと言っていいかわからなくなって、ファルの丸くなった腹をつついた。


「……お、おい!」


 彼は顔を真っ赤にした。私は思わずく、くと笑う。細身で筋肉質だった身体も、色気ある表情もない。貴族らしい話し方ばかりするけれど、この人は昔の、平民だと思っていたころのファルのままなのだ。


 私はのろのろと身体を起こす。ファルがためらいがちに背中に手を添えてくれた。


「ありがとう」


 その言葉が自然とこぼれた。結婚してから、どれくらいぶりに口にしたのだろう。


 ファルは目を見開いた。それから視線を彷徨わせ、自分の左手のあたりを見つめて「ああ」とだけ言った。


「あなたは怪我をしていないの?」


「俺はなにも。──あの侍女は、あいつと手を組んでいたようだ」


 ファルの目に怒りが灯る。私はおや、と思う。私が傷つきそうになったことで、怒ってくれているのだろうか。


「ごめんなさい」

「……なにが?」

「いろいろと」


 二十年分の、こまごまとしたこと。


「──それは、お互い様だろう」


 ファルは目線をあげないまま言った。


「ありがとう、いっしょにいてくれて」






 半年後。雪がちらちらと舞うある日。


 目を覚ますと、ファルが口を開けて寝ていた。わずかにたれているよだれを拭う。


 目尻の皺はそのままだけれど、ファルのお腹はずいぶんと平らになった。輪郭も少ししゅっとしてきて、色気を感じるようになった。ひげがないほうが好きだと伝えたら、翌朝にはつるりとした顔に戻り、若返ったように見える。


 私も少しは痩せた。

 頬にできてしまったしみも、子どもたちを身籠ったときに腹にできた線も、生涯変わることはないのだろう。けれども、もう意味はないのだと諦めていた肌や髪の手入れは続けてみることにした。


 孤独さを嘆きながらぼんやりするのもやめた。


 嫁いでからやめていた料理を再開してみたり、自分で物語を書いてみたりと、いろいろなことに挑戦してみている。物語を書くのは意外と性に合っているのか、ファルに伝えたくてもできなかった言葉が、自分ではない誰かの口を借りるとするすると出てくるようになった。


 でも、変に勇気が必要だけれど、なるべく自分の口も動かすと決意している。


 私は今日も魔法を使う。魔力なき者たちの魔法を。言の葉という魔法を。心を縛ることも、守ることもする、かけがえのない魔法を。


「ファル、……好き」


 眠ったままの彼の頬にキスをした。

 そのとき彼が起きていたことなんて知らずに。

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《短編》 ロゼと魔法と守り花 三條 凛花 @Rinka_Sanjo

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