ブラック・マスタード

天坂ソフィア

プロローグ

 なぜ生きているのだろう、とそう思った。

 思ったということはワタシには感情があるようだ。

 ワタシ、というのが正しいのかは分からない。ボクやオレの方が合っているのだろうか。とかく、日本語には一人称が多すぎる。

 こうやって日本語で考え事をしているということは日本人ということだろうか。それともその他の言語を忘れているだけのバイリンガルだろうか。

 わからない。

 ワタシはワタシが分からない。

 ワタシは一体何者なのだろう。ワタシはどこにいるのだろう。

 店のガラスにワタシは映らないし、人々にもワタシは映らない。スーツを着た男性の前に躍り出てみたが、ワタシをすり抜けて歩いていった。

 そこから分かることは、ワタシには実体がないということである。つまり透明人間の可能性はない。そもそも透明人間であれば手や足の感覚はあるはずだ。いや、感覚がないわけではない。あると思い込めば、あるような気もしてくる。だけど、手足が見えない以上、その感覚も頼りない。

 ワタシという存在は、人々に触れられない形で浮遊している。

 けれど、ワタシの本体がここにはないのだとすればどうだろう。視点だけ街に繰り出しているだけで、ワタシの実体はベットの上で眠っているかもしれない。だとしても、視点が街にあるのであれば、ワタシはここにいるとも言えるのだろうか。

 こんな状態だから、なぜ生きているのだろう、とそう思った。

 そういえばこの問いには二つの意味が考えられる。一つはこの状態でワタシが存在する理由。もう一つが、積極的に生きる理由。もちろん前者の意味で疑問を持った訳だが、後者に関しても不思議だ。生きたいとも死にたいとも思えない。そもそも積極的に死ねる体がないから、生きるも何もないのである。

 ともかく。

 現状分かることは、ここが日本だということと、ワタシには主観も思考能力も移動能力もあるということだけだ。

 それとワタシには不思議な経験がある。

 ワタシになる前、ワタシはあらゆる人々だった。彼でもあり、彼女でもあった。部活に勤しむ女子高生であったり、惰性で働く会社員であったり……ワタシはワタシではない誰かだった。

 そのときの記憶は目が覚めた後の夢のように朧気になりつつある。

 ワタシはそれ以前が思い出せない。それともそれ以前はないのだろうか。ワタシは人間ではなかったのだろうか。

 あれこれと考えても、答えは見つからない。疑問が浮かんで、思考しても、徒労に終わる。答えが見出だせそうな手がかりすらない。

 これは夢なのだろうか。それとも仮想現実か。はたまた死後の世界か。ワタシは幽霊か。

 ――そうだ。

 ワタシになる前の煩雑な記憶の整理がついてきて、あることを思い出した。

 もしかすると、彼女ならばワタシのことが見えるかもしれない。


 記憶を頼りに林道を抜けると、俄に洋館が現れた。

 森林に囲まれひっそりと建っている。子どもたちが迷い込んだとしたら、お化け屋敷だと思うかもしれない。

 けれど、そう恐れる場所ではないことを、ワタシは知っている。

 ここは“白百合の庭”と呼ばれる児童養護施設だ。名前の通り、庭の花壇には白百合が植えられている。

 世界に干渉できないワタシは、玄関をすり抜けて中に入った。そうして、彼女のいる三階に向かい、部屋の扉もすり抜ける。

 見目麗しい少女が、そこにいた。

 窓辺の椅子に座り、本を読んでいる。差し込んだ朝日が、彼女の金色の髪に反射して艷やかに輝く。

 綺麗だった。

 それはまるで絵画を見ているようで、ワタシはしばらく見入ってしまい声をかけられなかった……というのも事実としてなくはないけれど、実際に彼女を目の前にして人見知りを発動してしまったという方が正しい。

 どう声をかければいいのか、そもそも声なんて出せるのか、分からなかった。

 そうして暫くぐずぐずしていると彼女は顔を上げ、

「――あら、いらっしゃい」

 と言った。

 透き通った碧眼がはっきりとワタシを捉えている。後ろに誰かいるという訳でもない。

 彼女の名前はリア・フィアンマ。人の魂を視ることができる。ワタシは彼女でもあったからそのことを知っている。

 誰からも見えないワタシが、彼女には見える。これが意味するところは、つまり……

「……おはようございます。声、聞こえてますか?」

 ――あ……はい。

「良かった。自分の名前は分かりますか?」

 どういう理屈か、音が出ていないのに彼女に言葉が伝わった。

 ――分かり、ません……。

 発声するという意識を強く持って、返事をする。

「やっぱりそうですか……」

 ――やっぱり?

「あなたがここに来たということは、私のことはご存知ですね?」

 ――はい。

「人の魂というのは、その人の意識で形作られます。今、私からは、あなたが朧気にしか見えません。記憶がない方は、そうなることがあります」

 ――その、なんでワタシは記憶がないんですか?

「なんででしょう。忘れたい記憶だからか、事故によるショックか……何か覚えていることはありませんか?」

 ――ワタシのことは何も。ワタシ以外の記憶はあるけど……。

「はっきりと覚えている方はいらっしゃいますか?」

 ――はい。何人かは。あの、そもそもなんで他人の記憶があるんですか?

「それが魂の習性だからです」

 ――習性?

「はい。身体が遺伝子を残すことを目的にするように、魂も存続することが目的です。身体が死んだとしても魂はそう簡単には死にません。魂が消滅するのは、心に深刻な傷を負った時です。なので、魂は心を満たすように働きます。その方法として身体を必要とするのです」

 ――死にたくないから、人の身体に入ろうとするってことですか?

「いえ、違います。意識的に身体を乗っ取ろうとする悪霊はいますが、身体という器には適した魂しか入れません。なので、見て、触れて、感じている、といった表現が正しいでしょう。本来魂は大域的なものですが、身体や意識や心により局所的にされています。死ぬことで身体との繋がりが断たれ、無意識下の魂は時空を超えて広がり偏在します。他人の記憶はそのときのものです」

 ――それじゃあ、この後は? 身体を失った魂はどうなるんですか?

「輪廻します。何か……引っ張られるような感覚はありませんか?」

 ――引っ張られるような感覚?

 言われてみると、確かにそのような感覚が微弱ながらある。気づかなかった。

「その引力は、輪廻の渦です。次第に力を増します。飲まれないように気をつけて下さい」

 ――なぜですか? その渦の先は来世なのでは?

「あなたのことがまだ分かっていません。あまり希望を持たせてしまうのも恐縮なのですが、幽体離脱や生霊といった類の可能性もあります」

 そうか、生きている実感がなかったから、もう勝手に死んでいるものと思っていた。

 今のワタシは未練もなく、生への執着が希薄だ。現世でも来世でも、特に希望はない。これは身体を失ったことが原因なのだろうか。

「それでは、はっきりと覚えている方々のことを、できる限り教えてください。残っている記憶からあなたのことが分かるかもしれません」

 ――リアさんのこともですか?

「はい。鮮明に思い出せるのであれば」

 ルタ、リア、テラ、ラーハム、フォックス、アンク……六人の記憶を思い出す。

 彼ら彼女らの記憶がなぜ残っているのだろう。

 特異な存在ではあったけれど、彼らに巻き起こった出来事は、大した話ではない。きっとそれ以上のことが世の中にはありふれているだろう。

 みんな、この世に生を受けて、自分なりに、ただ生きている。

 それだけ。

 みんな、同じだ。

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