怪異奇譚

柊 秘密子

謳う蝶々夫人


 午後二時。

 少し寂れた喫茶店。ここ最近は純喫茶ブームと言われ、休日には若い女性がエモさを求めて訪れることも増えてきたが、平日の時間帯はそうではなく、タバコ休憩に来たサラリーマンがちらほらいるのみ。

 ヴィンテージと言えば聞こえは良いが、先代から引き継いだ単に古いだけの調度品と内装、昔ながらのシンプルなカレーライスとナポリタン、そしてこだわり抜いたコーヒーが自慢の店だ。


 俺は、ちらりと時計を見た。

 そろそろ、あの男が来るはずだ。

「ごきげんよう、いつものものをいただけるかな」

 ドアベルを鳴らして訪れた男は、よく響く声で問いかける。そして、返事を聞く間もなくカウンター席によく磨かれた革靴の光る、長い脚を組んで座った。

 彼が注文するものはいつも決まっている。

「ああ、エスプレッソのミルク割りだね。砂糖は山盛り」

「わかっているじゃないか。……おや、僕はエスプレッソのミルク割りだけを注文したはずだけれど」

 カウンターに濃い色のカフェラテと、皿に乗せた華やかな彩りのデザートを配膳すると、彼は眉を寄せた。

「新しいメニューの開発だよ。最近若い女性客も増えてきたからね、君の意見を聞きたい。りんごのクレープだ」

 慌てて弁解すると、それならばと彼はフォークとナイフを手に取る。もう良い大人、と言われるほどの年齢だと思うが、その瞳はキラキラと輝いていて、先程の怪訝そうな様子は痩せ我慢だったのだと伺える。……まあ、俺も彼が甘いものを愛していることは知っていたのだが。

「ふむ……そうだね、それなら上のバターはいらない。その代わりに甘めにキャラメリゼしたナッツを。繊細な香りのバランスが崩れてしまうから、シナモンはりんごのコンポートに混ぜたほうがいいし……もう少し煮詰めても良いだろう」

 彼のアドバイスはいつも的確だ。ひと口ひと口大事に味わってくれている証拠なのだから、多少耳に痛い指摘や辛口の意見も心にスッと入ってくる。これは彼の才能、もしくは何らかの特殊技能の類なのだろうか。

「ああ、でも生地は完璧だ。バターが香るし、食感も、焼き色も素晴らしい……これは一寸も変えない方がいい。生クリームを添えても良さそうだ」

「ありがとう。君の意見はいつも参考になる」

 賛辞をふん、と鼻を鳴らしてつまらなそうに受け取ると、彼は再び甘味とミルクたっぷりのコーヒーとの対話を始めた。


 彼の纏っているスーツは、とてもシンプルな織り目の生地ではあるが、おそらく海外ブランドのオーダーメイドのものであろう。ネクタイ、ピン、袖から覗くカブスボタンも同様のブランドで揃えている。パッと見ただけでは、その品物の良さに気づく事はないが、知っている者ならば一目見ただけでその質の良さに膝を打つ。彼らしい装いである。

 そして、その出立ちからはなかなか想像し難かったが、彼の職業は刑事である。しかも、決して公にはならない……そんな事件を扱っているそうだ。

 俺は刑事というものはとても体が大きな巨漢で、成人男性を一度に二人くらい投げ飛ばせる屈強な男である、と想像していたのだが、目の前の彼はそれとは真逆の……体の線は男性的な厚みがあるものの、雰囲気は優美ゆうびという言葉が似合うほどの美男であった。皆こなしもまるで貴族のように品がある。こんな古臭いだけでヤニ臭い喫茶店など彼には不似合いだ。


「ほう……蝶々夫人か。センスがいいね」

 彼は、二杯目のカフェラテを楽しみながら、楽しそうに目を細めた。

 俺はオペラやクラシック自体はわからない男だが、祖父がレコードのコレクションを趣味としていて、それに加えて使っていない蓄音機もあったので、俺が店を継いでからは日替わりで、クラシックのレコードをかけている。

「ええ。こうしたものは俺にはわかりませんが」

「なんだって?!芸術は良いものだよ。……たとえば蝶々夫人は日本の長崎が舞台だ。主演の蝶々夫人は日本人がキャスティングされることが多いし、旋律も和を意識していて僕たちに馴染み深いから、初心者にはおすすめだよ」

 彼は警察組織にいる人間なのだから、それなりに頭が良い人間であると思っていたのだが……どうやら芸術方面の知識も豊富なようだ。簡単にストーリーや見どころなども解説してくれ、次第に他の客も彼の話にこっそりと耳を傾けはじめ、店内には美しい女声のアリアだけが響く。

「ちなみに店主、これは誰が歌っているものなのかな」

「いや、ここにあるものは祖父のコレクションで。……ただ、このレコードだけは、祖父が昔馴染みの女性から譲り受けたものだと聴いています」

「そうか」

 彼は短い返事を返すと、カップを置いてそのままじっと、目を閉じてレコードの歌声に耳をすませた。


 店の中にいる皆……俺も、先程までの彼の解説とストーリーを頭に入れたまま、じっくりと味わうように耳を澄ませる。

 ふと、イタリア語に混ざって聞き覚えのある言葉が聴こえた。彼の言う和の旋律というものだろうか?しかし、旋律と呼ぶにはそれはあまりに『言葉』だった。

 愛した男にとって、自分は軽い気持ちで結婚しただけの相手であり、母国で本来の婚約者と愛のある結婚してしまったことを知らず、外国へ行ったまま帰ってこない夫を待つ……たった十五歳の少女の一途な愛を歌った、切なくも美しい旋律。その中に、ぽつり、ぽつり、と呟くように女の声が紛れ込んでいたのだ。

「どうして」「あなた」「帰ってきて」「ここにいて」

 最初はうまくメロディの中に紛れ込んでいた言葉達は、曲の盛り上がりに従い、どんどんひび割れ、捩れ、歪んでいく。

 心地よい旋律と澄んだ歌声に聴き入っていた皆が、怪訝そうに眉を寄せるが、それは一番の盛り上がりを前にしてぷつりと途切れてしまった。

「……失礼。店主、これは預かってもいいかな。このレコードは僕たちの管轄らしい」

 蓄音機の針を外して尋ねる彼に、俺はもともとそれが入っていた、ただの厚紙を貼り合わせただけの簡素なケースを差し出す。警察がレコードの修復をするのだろうか、と思ったが、それを尋ねてもきっと彼はもっともらしい言葉でかわし、結局何一つとして答えてはくれないだろう。

「ああ……壊れたレコードなんて、何に使うんです?」

「そうだな、寂しいと泣く彼女の話を聞いてやるんだ。……なに、男の勤めだよ」



 後日、祖父に聞いた話なのだが、あのレコードは戦後……とある街娼の女からもらったものらしい。

 彼女は街娼にしておくにはもったいないほどの美女であったが、もちろん最初からそのような暮らしをしていたのではなく、元は米軍のそこそこ立場のある男の愛人であったそうだ。

 男は彼女の容姿も気に入っていたそうだが、特に澄んだ歌声が気に入っていて、わざわざ母国から講師を呼び声楽を習わせ、レコードまで作るほどの入れ込みようだった。

 しかし、彼は国に戻り……五年経っても帰ってこない。

 次第に残してくれたお金も底をつき、彼の愛もまた尽きてしまったことを察した彼女は、他の女たちに紛れて路上に立ち、男に習った曲を歌ってはお金を稼ぐ時もあれば、金額を上乗せされれば体を売ることもあった。

 皮肉にも男が残してくれた歌という武器が彼女を助けてくれ、彼女は他の街娼よりも良い暮らしをしていたらしい。

 そしてある日、祖父が彼女に出会った。

 夏の暑い日だった。祖父は女を買いにでかけたらしいのだが、街頭で耳にした彼女の歌をひどく気に入り、熱心に通い詰め、金を渡しては歌ってくれと頼むその姿に、彼女は次第に心を許し……その時にこのレコードをもらったらしい。

「どうぞ、あたしの歌が気に入ったのならこれを受け取って。もうあたしにはいらないものだもの」

 そう言って笑う女の寂しそうな顔が、とても魅力的で今も忘れられないのだ、と、祖父は呟く。


 彼がレコードを持ち出してから、ひと月が経っていた。

 出張の土産だよ、と爽やかな芳香を放つ新鮮なレモンをビニール袋いっぱいに抱えて店を訪れた彼に、俺は祖父から聞いたあのレコードにまつわる事情を話して聞かせると、彼はようやく腑に落ちたと言わんばかりに頷いた。

「なるほど。……大丈夫だよ、彼女は救われた」

 そして、レコードをかける。

 あの歌声だ。可憐で、金糸雀のさえずりのようなその歌声は、切なく優しく店内に響いた。

 彼は、いつもと同じ砂糖をたっぷり入れたカフェラテを楽しみながら、ゆっくりと耳を傾ける。

「まったく、罪な男もいたものだ。これほど麗しい蝶々さんを、蛾に変えてしまうんだからね」

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